2-1.最悪の再出発点
〈剣〉の軍薔薇領を恐怖に落としこみ
ファリザード心苛まれて鬱々とすること
毎夜、悪夢を見るようになっていた。
ジンの少女は走る――裸の少女の足元でがちゃがちゃ耳ざわりな金属音が鳴る。それは両の足首にはめられた鉄環から伸びる鎖が立てるものだった。泣く少女がよろめき駆けるほどに、肌に食い込んですり傷をつくる。足の指の股まで流れる血でぬるぬるしていた。
どこを走っているかも定かではない。一歩ごとに周囲の風景が変わる。
光白き昼。星輝く真夜中。朝焼けの夜明け。
峻厳たる岩山、闇が塗りつぶす洞窟の中、焼けつく熱砂の砂漠、奇妙な四角錐の泥の建物の建つ大河のほとり。
いくつもの神殿を見た。静謐で吐き気をもよおすほど無機的な白い石の小部屋。黒い巨石を据えた地下の神域。オリーブと牡牛の頭が捧げられた台座。乾いた泥のレンガを積み上げた高い神殿。
戦場を見た。体に亜麻布だけを巻いた戦士たち。呪詛と叫喚、イナゴのように宙を飛ぶ矢群、投げ槍、乱戦の中でひざまずいて命乞いする兵士、その眼窩に剣を突っこむ敵兵。
景色を彩る邪神と怪物たちを見た。有翼獅子を、獅子の頭を持つ鷲を、鷲の頭を持つ人を。象をつかんで舞いあがる巨鳥を、深淵にひそむ牡牛の神を、一つ目一つ脚の巨人を。泥濘にのたうちまわる大いなる七匹の蛇や、暗黒に住まう黒い蛙の姿の神を。
……万象が流転する光景のなかで、一柱の神が休むことなく少女の後を追ってきていた。彼女の足の鎖は背後に伸びて、その神とつながっている。
“皮を剥ぐ車輪”の神――火を噴き、無数の命をその下に轢きつぶし、屍山血河を築きながら躍動してせまってくる。
こっちに逃げなさい、ファリザード。
戦場の風景の片隅に見慣れた赤レンガの館があって、そこから誰かの声がした。ペレウスの声にも、イスファハーン公の声にも聞こえ、あるいは聞いたことのない母の声のようにも思われた。
よろよろとその生垣に近づいて飛びこみ、薔薇のとげで肌に無数の傷を負わされながら、もがいて向こう側に抜けた。誰かの手が、薔薇の茂みから、傷ついた彼女の体を抱き上げた。
もう心配することはない、愛し子よ。
父の声で言われて、心からの安堵に泣き笑いしながら見上げると、かれには全身の皮膚がなかった。
● ● ● ● ●
イスファハーン公領はファールス帝国の広大な中央部を占め、帝都バグダードのある上帝直轄地メソポタミアにも接している。
薔薇の公家の宰領するこの土地は、外敵の来襲をほとんど受けぬ位置ゆえに、帝国内でもっとも平和を享受してきた土地であった。
……反乱を起こして西進してきた〈剣〉のホラーサーン軍に牙を突き立てられるまでは。
最大の都市イスファハーン陥落から、すでに一月が経とうとしていた。
“帝国最精鋭”の名をほしいままにしてきたホラーサーン軍の猛威はとどまるところを知らず、抵抗や反撃を一方的に粉砕しながら、東から西へ信じがたい速さで横断していく。
都市ニハーヴァンド――一万四千の兵をかき集めて野戦に踏み切った太守アクバルを三千のホラーサーン軍に討たれ、〈剣〉の前に城門を開く。衝撃的な敗戦に、戦意喪失した周辺の小都市群もそろってホラーサーン軍に降伏。
都市シーラーズ――領主にしてイスファハーン公の四男ニザーム、近隣都市の諸侯の兵を糾合して五千の軍を仕立てあげ、ホラーサーン将ザイヤーンの率いる騎兵五千と対峙。しかし統制と機動力の点でまったく追いつかず砂漠を引きずり回され、矢の弾幕を浴びて統制が壊乱したところで突撃を受ける。ニザームが戦死して軍は四散し、守る者なき都市は失陥。
都市フムセル――人族のホラーサーン将カーヴルトが率いる四千の軍に攻囲を受ける。周辺地域を焼き討ちされ、あふれかえる難民を市壁の中へと追い込まれたうえで包囲される。工兵に都市の水脈を断たれ、さらに難民に偽装して潜入してきたホラーサーン兵に毒を貯水池に放りこまれる。数日で水の備蓄が尽きて降伏。
都市バスラ――バグダードに沿うティグリス川の河口にある、軍船を有する港町。飛翔するホラーサーン将イルバルスの降下急襲によって海上でも苛まれ、船団は耐えかねて逃散。バグダードの最大の生命線である南からの物流、ほぼ断たれる。
都市クテシフォン――バグダードから馬で一日と要しない距離の古都。ホラーサーン将アルプ・アルスラーンの指揮下に合流した一万の軍に攻撃される。ティグリス川の水を引いた堀を頼みとして籠城する方針をとるが、“河畔の葦や茅を束にしたものを堀に大量に投げ込み、水を吸って沈んだ束の上に板をかぶせる”という方策により、堀を埋め立てられて無効化される。クテシフォンが援軍到着の前に陥落したことで、帝都バグダードに最大の激震走る……
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「わたしのせいだ。わたしがイスファハーンを離れなければ、都市を守る衛兵はすべて父上のそばに留まっていたんだ」
鞍上のファリザードが数日ぶりに発した小さな声は、絶望と自責に満ちていた。
白羊族の馬群のなかで彼女と並んで馬を進めていたペレウスは、うまい慰め方が見つからず無難な言葉をかけるしかなかった。
「きみのせいじゃない。お父上の殺害は〈剣〉がすべての責めを負うべきことだ」
すこし逡巡して、
「……それに、何人か衛兵が増えたところでさしたる違いはなかったはずだ」
だが、ファリザードはゆっくりと首をふった。その彼女の表情を見てペレウスは胸を衝かれた。
瞳の光をよどませて、彼女は生気無く笑っていた。絶望の笑みを刻んだ唇が、言葉をつむぐ。
「わたしにかかっていた宣告が成就したんだ」
「――ホクム」
おうむ返しに問い返して、ペレウスは思いだした。そういえばイスファハーン公から聞いた気がする。
ファリザードがなおもおかしげに続ける。
「わたしが生まれたとき、ジンの古老が言ったんだ。
いまある争いのかたちは終焉するって……わたしがそのきっかけになるって。わたしは親の血にまみれるだろうとも……
ペレウス……この国は、ファールス帝国はめちゃくちゃになった。内乱が始まって、ヘラスや十字軍のような弱敵とだらだら戦争するどころではなくなったんだ。長い戦は終わった、おまえたちにとっては。
ほら、宣告は成就しているだろう?」
そこまで話して、暗い諧謔の響きが一転し、すすり泣きに変わった。
黎明号の上にぽつりぽつりと涙滴を落とし、ファリザードは馬上にうずくまるように背を丸めた。
その、心が折れきった様子にペレウスは胸騒ぎを感じた。(この子はこの先大丈夫なのだろうか)と不安になったのである。
(……いまの情勢では無理もないけれど……)
イスファハーンを出てから半月と経っていない。だが、情勢の悪化はまさしく転げ落ちると言うのがふさわしいものだった。
イスファハーン公ムラードその人を殺したのを皮切りに、〈剣〉はその直系の子息たちを、ひとり残らず捕殺するつもりであるかのようだった。すでに次男アクバル、三男ファフル、四男ニザーム、五男ハイダル、七男ターイ、八男クバードが殺害されている。ファリザードの兄たちはあと三人を残すのみとなっていた。
それだけではなかった。
〈剣〉の連勝とイスファハーン公家の度重なる敗戦に伴って、イスファハーン公領にはある変化が起きていたのだ。
イスファハーンを出て最初に訪ねた村では二日と置いてもらえなかった。「ここは防戦に向きませぬ」という村長の訴えはもっともであったが、留まられては困るというかれの底意は感じられた。
次にたどりついたのは、イスファハーン公家の旗手が治める城邑バードであった。だがペレウスたちが三日そこに滞在したのち、ジン族の城主は話を切りだしてきた。「飛翔型のジンの目撃情報がありました。飛翔型の変化をなすジンは十中八九ホラーサーン兵です。この地は危険です、どうかもっと北へ」と。婉曲に、やんわりとではあるが、これ以上歓待できない旨を通告してきたのである。
その北隣の都市カーシャーンの領主にいたっては、最初から城門を開けようとしなかった。カーシャーンの領主本人が使者を寄こして伝えてきた言葉は、「わたしはすでにホラーサーン軍を攻撃しました。敗れたとはいえ最低限の奉公の義務は果たしております。次に弓を引けば一族ごと殺すと皮剥ぎ公に通告されておりますので、どうかお許しいただきたい」であった。
(……諸侯も民もみんな〈剣〉に怯えている。主君であるファリザードの一族に奉公することではなく、〈剣〉の軍の脅威を避けることを第一に考え始めている)
イスファハーン公家はこのまま滅亡すると思っているのだろう。立ち去る間際にかれらの顔色を見るとそれがわかった。良心の呵責と憐れみと、巻き込まれずにすんだという強い安堵を浮かべたあの表情――
(この地のジン族も人族も薄情にすぎやしないか? それともとことん現実的なのか)
いずれこうなることは予想できた。そもそも都市イスファハーンからすらも、実質上市民の懇願で追い出されたようなものだったのだから。
しかしあまりにも見限られるのが早すぎる。イスファハーン公の死に様に衝撃を受けたファリザードが重ねて心に打撃をこうむってもおかしくはなかった。
「宣告があるからこうなったのなら……母上も父上も、わたしが殺したようなものだ」
陰鬱な涙をつぎつぎと頬に伝わらせながら、うなだれたファリザードが嗚咽している。
「生まれて……生まれてこなきゃ、よかった……」
その弱音は、さすがに聞き過ごせなかった。
ペレウスが反射的に否定の言葉を怒鳴りかけたとき、ぱしんと空気が破裂する音が響いた。
足元の礫砂が飛び散り、ペレウスのみならず、ファリザードもびくりとしてしゃっくりを呑んだ。
いつの間にかそばに来ていた女騎馬族長のユルドゥズが、鞭を振り下ろして大地を叩いたのだった。
「甘ったれるんじゃない、小娘」
冷たく乾いた声と視線で、隻眼の老女は馬上から叱咤を投げつけた。
「進まなきゃならないときに鬱陶しく泣くんじゃない。
この手がジンを打てるなら一撃くれてしゃっきり目を覚まさせてやるところだが、そうもいかないので状況を説明してやる。
いいかい、身を隠す岩や砂丘にとぼしいこの場所はさっさと通りすぎなきゃならない。クタルムシュの“隠形”の術があるにしても、あれだって万能じゃない。同じく“隠形”に習熟したジン兵には見破られやすいんだ。とっとと行けってこった」
ユルドゥズの言葉の鞭は、手にした鞭よりも痛烈に相手を打っていた。
「イスファハーン公家のファリザード、あんたには討つべき仇ができた。
うつむかず、伯父に一矢報いるために前を見ろ。ジン族は血の貸しを取り立てる種族なんだろう。
まずは忠誠心たしかな味方の庇護を受けて安全を確保し、それからイスファハーン公領全土に呼びかけな。……この前はぶるってる城主にたまたま当たっちまったが、あんたが主君の仇を討つため〈剣〉と戦えと号令をかければ、決起する者はまだ少なくないはずだ」
「無理だ……」
涙をこぼしながら、風に吹き消される寸前の灯火のような弱々しい様子でファリザードはつぶやいた。
「戦っても伯父御には勝てない…………決起は必ず鎮められる」
ユルドゥズはそれを聞いて、冷静にうなずいた。
「――そうだね。あんたの言うとおり〈剣〉はちょっとばかし強すぎるかもしれない。殴ろうとする手のほうが切り裂かれるかもね。
わかった、あんたの家のことだ。仇を討てとは強要しないよ。
それでも覚えときな。殴るか殴らないかを選べるだけ、あんたはましなんだよ。だからせめて、めそめそはしても泣き言を吐かず黙って泣くんだね」
白羊族の女族長はペレウスを見て一言「坊や、あまり甘やかすんじゃない」と釘を刺し、後続の馬群のほうへ走り去った。
ペレウスは沈思してそれを見送った。白羊族が囚われている呪い――ジンに決して手出しできないという呪いのことを考えていたのである。
(〈剣〉は復讐の権利すら人族には認めない)
「……ごめん、ファリザード。ぼくも戦うべきだと思う……」
視線を戻さず、かれはためらいがちに言った。打ちひしがれたファリザードを見ていると、どうしても同情の念を禁じ得なくなる。ぽろぽろ落ちているであろう彼女の涙から目をそらさなければ、言うべきことをはっきり言うことができなかった。「甘やかすな」と言われた最前の言葉が頭に残っていた。
しゃくりあげる音がしたが、ペレウスはそちらをつとめて見ないようにした。
………………………………
………………
……
風更けて夜半、夜営の天幕が立ち並ぶ横である。ホラーサーン軍の部隊に発見されることを怖れて焚き火はしていない。
「九十六戦九十六勝」
額を寄せ集めた三人のうちで、なるべく淡々と言おうとする口ぶりのユルドゥズが告げた。
白羊族の斥候が砂漠で隊商と出会い、聞いてきた話ということであった。
「イスファハーン公領に侵攻したホラーサーン軍が、この短期間で打ち立てた戦績だそうだよ」
それを耳にしたペレウスは青いレモンをかじったような渋面になったが、
「ふん、鵜呑みにすることはない」ユルドゥズは肩をすくめた。「〈剣〉の軍みずからが流した話だろう。細かい戦闘すべてと落とした城の数を合わせてそう吹聴しているんだろうよ。こけおどしの一種さ」
だが、クタルムシュが表情を変えず首を振った。
「話を誇張して宣伝に使っているのかもしれないが、分散しているホラーサーン軍に襲いかかったイスファハーン領の軍や太守の軍が、ことごとく返り討ちにあうか撃退されたのは事実だろうな。〈剣〉の鍛えた将兵たちは勝ちつづけている」
「……なんでこうまでイスファハーン公家側は敗戦を重ねたんでしょう?」
気を重くしながら問わずにいられなかったペレウスに、クタルムシュが向きなおった。かれは「多くは誘い出された結果だ」と断定した。
「誘い出された? どういうことですか」
「城を攻めるより野戦で勝つほうがたやすい。
ホラーサーン軍はみずから分散し“常より弱い”状態となったのだ。今こそ好機とイスファハーン領の諸侯に思わせることで、野戦にかれらを引っ張り出した」
……大軍は水や糧秣をはじめ大量の補給物資を必要とする。荷駄隊の数を削って迅速な行動を起こすときは、あらかじめひとつの経路に物資を集積させているのでなければ、徴発を行いながら進むことになる。
三万のホラーサーン軍はもともと、数千の小規模な軍勢に分かれ、途中のいくつもの都市や町村から補給を受けながら、複数経路をたどって西進していたのである。
――〈剣〉が帝位簒奪を宣し、町村の自発的な物資提供に期待できなくなってからはその傾向はいちだんと進んだ。
薄く、広く散開したのだ。
それは物資徴発の面では必然的な成り行きであったが、戦略面では常道に反している。なぜなら、そのように広範囲に引き伸ばされれば、反比例して軍の力は薄まってゆくからだ。“兵力は集中すべし、分散するなかれ”ということである。
もちろん“味方”の領内を行く時に攻撃されることを警戒する必要はないが、イスファハーンが陥落して以来、ホラーサーン軍は四方を敵に取り囲まれた状況にあるのだ。
そう、当初のホラーサーン軍は各個撃破のいい対象に見えたのである。
それがとんだ甘い見通しであったと攻撃した諸侯たちが気づいたのは、血による代価を払わされた後であった。
「“ホラーサーン軍は百戦百勝である”という図を〈剣〉は短期間で満天下に示した。
イスファハーン領の諸侯は、弱まった状態にあるはずの敵を血気にはやって攻め、完膚なきまでに打ち破られた。さぞ強烈な敗北感を植えつけられたことだろう。
どうあがいても勝てはしないと思いこむほどにな」
クタルムシュはぐるりと首を回し――天幕のひとつを見やった。ファリザードが眠る、というより臥せっている天幕を。
「その桎梏を外してイスファハーン領が総決起するためには、かれらの精神の支柱となる者が必要だ。その者を中心としてイスファハーン公領がもう一度奮い立てるような誰かが必要なのだ。
……先代イスファハーン公ムラードの死にともない、その長子イブン・ムラードは薔薇の公家の当主となった。かれは上帝のひざ下に保護されており、〈剣〉に復讐を誓ったと聞く。
しかし、薔薇の家は女児のほうで有名だ。実績なき若き指導者であるイブン・ムラード殿が求心力を強化するためには、御妹のファリザード殿の名も必要となるだろう」
「……言っていることはわかります。ですが、あの……ファリザードは」
伏し目がちになって、ペレウスは「ファリザードは限界です」と告げた。
「父親の剥がれた皮を目撃した衝撃からも立ち直っていないんです。いま、重責を担わせて追い詰めれば――」
「精神のひびがもっと大きくなりかねない」ぼそりとユルドゥズが後を引き取った。
「無理をさせるべきじゃないね。それに、遠い国へ亡命して安らかに過ごすって選択肢もあるんだ。それを選んじゃだめということはないよ」
ペレウスは目を丸くしたが、いや、と思いなおした。甘やかすななどと口では言いながら、ユルドゥズがファリザードを気にかけていることは薄々分かっていた。しかし人族ふたりの意見に、クタルムシュは謎めいた笑みを返した。
「わたしはさほど心配していない。
イスファハーン公家の女児、すなわち薔薇姫がジン族のあいだで尊ばれてきたのは、なにも生まれにくく希少という理由だけではないのだよ」
「ふうん、そういえば聞いたことがあるね。価値が高いと見なされているってことは。
で、もったいぶらずその所以を教えてくれるかい?」
「先祖返りだ」
「先祖返り?」
「うむ。血の特質を色濃くして活力を吹き込むのだ。
ジンの魔法をもたらす肌の呪印――これは遺伝により受け継がれるものだとは知っているな。つまり、家系によってどの能力が顕現するかがおおよそ決まるわけだ。わたしはサマルカンド公家を祖とするサンジャル氏族に生まれ、この氏族に受け継がれてきた“隠形”の呪印を持ち、また“大力”の呪印をも合わせ持つ。
稀に変異が起こるが、ジンの生まれ持つ力は近い血統の定めるところであるのが普通だ」
だが薔薇の公家は特殊なのだ、とクタルムシュは言った。
「上古の世、ジンの力はいまとは比較にならぬほど強かったという。それは人の魔術師の力も同じだが……いまの世にあって魔法は衰微し、世代を重ねるほどにジンの力は衰えた。だが、薔薇の女児は自分の母系の特質を濃縮し、人並み外れた傑物として生まれてくるのだ。呪印はもちろんのこと、あらゆる能力や性格を。
そして自分の資質と、自分の夫となる者の家系の特質とを混ぜあわせ、強調して次の世代へと伝える。これにより、ジンは血の衰微を遅らせることができる。
羊や馬の交配を思うがいい、ユルドゥズ。生まれてくる子の質を高めたいとき、優秀な母胎は優秀な種よりも尊ばれるだろう。それゆえに薔薇の公家の女児は求められるのだ」
「……そうなんですか……あの、ということはファリザードは」
「ああ。ファリザード殿は他家から嫁いできた母君の血を濃く受け継いでいるはずだ。
すなわち武をつかさどる〈剣〉の家系の血を」
クタルムシュが言い切ると、人族ふたりは顔を見合わせて懐疑の視線をやり取りした。
一拍置いてから、それぞれ異論の口火を切る。
「クタルムシュ、そいつはちょっと信じがたいねえ。……心がまいっちまってるあの嬢ちゃんの様子を見てると、ね」
「ファリザードの性格に、〈剣〉と重なる部分があるようには思えません。あんな冷血残忍な化物と。
……ところで、〈剣〉の家系の呪印ってなんですか?」
「はっきりしたことは不明だ」
話を一気にうさんくさくする言葉が帰ってきた。ペレウスは眉を寄せ、闇を透かしてまじまじとクタルムシュの真剣な顔を見つめた。
「……不明?」
「〈剣〉はもともと氏族不明のジンだ。子もいない。
征服時代以前は、他の四家の客分であったと聞く。妹を伴って砂漠の彼方からふらりと現れ、四家のもとに身を寄せたが、やがて実力によって頭角をあらわした。征服戦争で、古代ファールスの制覇という武功をたて、新たに一家を打ち立てることを許された。
だが、かれの祖が誰であったのか誰も知らない。かれの血縁者は死んだ妹と、その妹がイスファハーン公との間に産んだ子たちだけだ。
かれが振るったはずの呪印の能力については、征服戦争をかれとともに戦った世代は黙して語らない。征服された側の人族も語ることを許されず、記した書物はすべて〈剣〉自身に焼かれた。……だが記録の抹消に完璧はない。いくつかの伝承は残っており、その能力を推測することはできる。
いずれにしろ数年から数十年待てばはっきりする。ファリザード殿に呪印が顕現すれば、〈剣〉の能力も必然的に明らかになるだろうから」
「……数十年かい、悠長だね。能力がわかる前に〈剣〉がこの帝国を再制覇しちまうだろ」
「まあ、それを待たなくとも、どこかの古老が知っているだろう……そうだ、明日の夜にもジオルジロスに聞いてみるか。あれも一応古いジンだからな」
捕虜となっている賊の名が出たが、ペレウスはその提案にあまり気が乗らなかった。
「あいつの口から出るのは嘲弄か嘘ですよ。もしくは嘲弄たっぷりの嘘です」
「うむ、気をつけよう」
「ほんとうなら、あいつの操る〈扉〉の力を利用することも避けたかったくらいです」
「わかっているさ、ペレウス君。だが背に腹は変えられなかった。これからも利用することになるだろう」
クタルムシュは夜空をあおぎ、つぶやいた。
「飛翔型ホラーサーン兵の姿が近辺で目撃されたというのが本当なら厄介だ。あいつらは空から見る――足跡が残る平野だと“隠形”でも撒ききれん。一瞬で逃げるためには空間移動くらいしか手がない。
まずは、どんな手を使ってもファリザード殿をその兄君たちのところに安全に送り届けることだ」