28.滅び
序幕これにて終わりを告げて
悲泣の中から新たに始まること
踏みこんだイスファハーンの中心地には死のにおいが満ちていた。
いまなお大気にまじる煙と灰のにおい。毛髪が焼けたにおい。放置された死肉が腐ったにおい。
すべてが破壊されたわけではない。
円環状の市壁の大部分をはじめ、隊商宿も公衆浴場も、造幣局も寺院も学院も傷ついておらず、なにより水路や市民の住居や市場は手付かずであった。市民たちのほとんどは生きており、家々の門扉をわずかに開けてペレウスとユルドゥズのほうをこわごわとうかがってきていた。
それでも、イスファハーンが心臓を砕かれたのは一目瞭然であった。
完膚なきまでに壊されたものが三つある。
市壁の四カ所にある、巨大な門。塔は崩れ落ち、扉は破られて外敵を防ぐことができなくなっている。
八百名あまりの衛兵たちが寄宿していた兵舎。たたきつぶされたかのように屋根が崩落し、その跡地にイスファハーン兵たちの死体が積み上げられている。
そして、火を放たれて焼け落ちたイスファハーン公の館――……
館の庭園に入るアーチ門の前で、ペレウスは嘔吐しかけた。
顔をそむけ、横手へと塀づたいに小走りになる。美しい薔薇が繚乱と咲きみだれていた生垣の焼け跡に身を折り、胃の中身を吐き出した。
ほかのヘラス人たち、ゾバイダ、この館の使用人――みなどこにいったのかは不明だ。逃げたのか、殺されたのか、連れて行かれたのかさえわからない。
見つけることができたのはただひとり、庭園の門前にさらされたイスファハーン公ムラードだった。
正確にはその屍。
いや、より正確には、それは通常の屍ですらなかった。
「……坊や、隊商宿に帰ろうか。嬢ちゃんのそばにいてやったほうがいい」
同道したユルドゥズが背をさすってくれる。彼女の声にも、戦慄が混じっていた。
わななく口元をぬぐったペレウスに、ユルドゥズは深い息を吐いてつぶやいた。
「嬢ちゃんには気の毒だが、この実家には立ち寄らせないほうがいいね」
かろうじてペレウスはうなずいた。
(ファリザードはどうしてもここに戻ってきたがった……ああ、でも……だめだ……戻ってくるべきじゃあなかった)
捕らえたジオルジロスに、〈剣〉の決起とイスファハーンの陥落を聞いたのは昨日のことだ。
ファリザードは一刻もはやく父親の安否を確かめたがって取り乱し、ほかの何も考えられない様子になっていた。
やむなく、ペレウスと白羊族の一同は相談の末、空間移動の力をもつ“悪思の扉”をジオルジロスに開かせた。それによって行路を大きく短縮し、イスファハーンへ半日にして帰り着いたのだ。
とはいえ市中のどこに〈剣〉の兵がいないともかぎらない。それを警戒して、ペレウスとユルドゥズは隊商宿にファリザードを無理に残らせ、みずから偵察におもむいたのである。
(もういい。見るのはじゅうぶんだ。じゅうぶんに見た。
つぶさな報告なんて言えやしない。あの子にこんなことどう言えるんだ)
イスファハーン公は全身の皮を丸々剥がれていて、中身はさしあたり見当たらないよと?
その皮は、門扉に、大釘によって額と胸と両手のひらの四箇所で打ちつけられていると?
ぽかりと開いた赤黒い眼窩や口が縦長に引きのばされて、表情はさながら驚いているように見えると? 血の筋を涙やよだれの代わりに流していると?
目視した物に衝撃をうけて真っ白になった脳裏に、ジオルジロスが昨日語った話がぐるぐると渦巻いていた。
『〈剣〉は、残酷な古代の戦神のごときジンだ。アーマダンド・オ・カンダンド・オ・スーフタンド・オ・クシュタンド (かれら来たり、破壊し焼き払い殺し尽くし)……あの時代、あやつによって幾多の民族とその崇める神々が滅ぼされた。
その乱世がふたたびやってきた。あやつはまずこの巨大なファールス帝国を完全に掌握して軍事国家に鍛え直すつもりだ。近い将来には四方の国々を討ち滅ぼしはじめるだろう。
わたしを殺してもいいことはないぞ。わたしは金次第の傭兵だが、あやつの味方にだけはならんからな。われわれは手を結ぶべきだとは思わないか? もう一度いうが、〈剣〉が征服時代をふたたび始めたのだぞ』
(その始まりの烽火として真っ先にイスファハーンは陥落させられたのか)
横で、ユルドゥズが声を厳しいものに切り替えてせっついた。
「イスファハーンにあたしたちはとどまっちゃならない。宿に戻って嬢ちゃんを説得し、この都市を出て遠く逃げるべきだ」
ペレウスも再度うなずく。うなずくしかできなかった。
そのときだった。小さな声が耳に届いたのは。
――父上。
子供が途方にくれて親を呼ぶ声だった。
ふたりは血相を変えてふりむき、予想通りにファリザードの姿を見た。
扉に打ちつけられた、彼女の父親の剥がれた皮の前に。
なんてこった、と青くなったユルドゥズがしゃがれ声でうめいた。
「馬鹿娘、あれほど言い聞かせたのに宿から抜けだしてきやがった」
ファリザードはひざまずき、血に汚れながら父親の皮の脚を抱きしめていた。
垂れ下がるカーテンにすがるように、頬を父の皮膚に押し当て、彼女はまたつぶやいた。
「父上」
『なにしろジンというのは憎むのも愛するのも極端なのだ』――生前のイスファハーン公の言葉に思い当たって、にわかに戦慄し、弾かれたようにペレウスは駆けよった。彼女の腕をつかんで、石床に広がる固まった血溜まりから立ち上がらせる。
視界をさえぎるように彼女の前に立ちふさがって両肩をつかんだ。
「ファリザード!」
知らずペレウスは、つまった声をだして彼女の名前を呼んでいた。だが、どんな台詞もその後に続けることはできなかった。
父の死骸を見た娘にかける台詞がわからなかったというのもあるが……ファリザードを正面から見た瞬間、すべての言葉が消え失せたのである。
一直線に駆けてくる間にすでに泣いていたらしき彼女の、濡れた金の目――いまは見開かれたまま、何も見ていない。涙があふれる瞳は虚無しか映していなかった。
繰り返し唇が動き、ほとんど呼気だけの声が延々とつむがれていた。
――あんな言葉嘘です、父上。嘘です。嘘です。
許しを乞うその響きに、ペレウスは耐えられなかった。黒い腐血がこびりついた人形のような彼女を抱きしめる。
言葉というのがなんのことか、かれにはわかった。ファリザードがイスファハーンを飛び出す直前、父親に怒られたとき、かれもそれを聞いたのだから。
『父上なんてだいきらい』。
それが、娘が生前の父に投げた最後の言葉になったのだ。
ファリザードの体の、発作のような激しい震慄がペレウスにも伝わってくる。抱きしめる腕をゆるめれば彼女が壊れそうで怖かった。
駆けつけてくる足音がして、ペレウスは涙にぼやけた目で通りを見た。
クタルムシュと白羊族の十数名がファリザードを追って走ってきていた。
門の凄惨な骸を見て愕然と立ち止まったかれらを、ユルドゥズが尖った声で叱りつけた。
「存外役に立たないね。なんで嬢ちゃんを外に出したんだい」
うなだれる白羊族たちの前に進み出て、沈痛にクタルムシュが謝罪する。
「すまない。ジオルジロスを縛りなおしているときにファリザード殿に隙をつかれて出て行かれた」
「クタルムシュに言ってるんじゃないよ」
ユルドゥズは面目なげな配下の者たちをにらんだ。
「あたしら白羊族はジンに危害を加えることだけはできないんだ。念のためあんたがあの古老を見張る役になったのは間違ってない。悪いのは雁首そろえていながら嬢ちゃんに逃げられたこいつらさね。
嬢ちゃんがこの……このひどいもんを見ちまったことはさておくとして」
ユルドゥズはあごで示した。
「ごらん、嬢ちゃんが見られてしまったよ」
それは確かだった。先刻から、道のそこかしこからこちらに集まってきた視線がその密度を増していた。それだけでなく一部の人々は街路に出てきて、一同におずおず近寄ろうとしてきている。
真っ先にそのひとり、白いひげの老爺が顔のしわを一層深めてよろよろと間近にきた。この人はたしか市場で果物屋をやっていた人だ、とペレウスは気づいた。
「ファリザード様、おお、おお、よくぞ生きておられて……」
だが老いた果物屋の面に浮かんだ喜色は、ファリザードの様子を見て悲しげな色に変わった。
嘆声で唯一神に祈りをつぶやいた老爺は、ユルドゥズに顔をむけてうろんげに誰何した。
「……そこのヘラス人の少年は、ちょくちょく買い物をしているところを見かけた覚えがありますが、あなた方はいったい? イスファハーンの兵には見えませぬが」
「単に雇われた護衛さ……といっても、イスファハーンに帰り着くまでという話だったんだけれど」
ユルドゥズが口ごもりながら言ったとたん、果物屋の老爺が必死な表情でつめよった。
「ならばお願いいたします。
どうかこのまま、一刻も早く、ファリザード様を安全なところまで送り届けていただきたい。せめて近隣の信用のおける領主のところへと。
この都市にいた衛兵たちはことごとくが殺され、いまファリザード様をお守りできる兵はいないのです」
「……運ぶくらいならね。あたしら白羊族はどうしてもジンには手を上げられないから、ジン兵が多い〈剣〉の軍と出くわしたら逃げるしかないけれど」
隻眼をきつく閉じてがりがりと頭をかきながらユルドゥズが答え、「それよりまずは確認したいんだけど」といった。
「これをやった〈剣〉の兵は何人だい? そいつらはどこへ行った?」
「……二百名です。ただの二百名でした。
そやつらは、もとより市壁の内側に数日前から招き入れられていた客分たちでした。それが夜半にいきなり火の手を上げ、八百名余の衛兵たちを皆殺しにし、お館様を弑したのです!」
激調を帯びた老人の答えを聞いて(〈剣〉が連れてきていたあの二百名だ)とペレウスは気づいた。
(本当にあれだけの兵でイスファハーンを制圧したのか)
しかし、さもありなんとユルドゥズはうなずいた。
「〈剣〉の軍には、ホラーサーンの山地で調練を受けた、山岳戦のための部隊がいる。そいつらは都市戦にも応用でき、少数でも危険だよ。入れるべきじゃあなかったね」
クタルムシュが「そうは言っても仕方あるまい」と首をふった。
「そうなることの予想は難しかったろう。その時点まで〈剣〉はファールス帝国の重鎮だったのだからな。
いまは上帝を名乗っているが」
その言葉に、
「――〈剣〉は帝位簒奪者だ!」
ファリザードを抱きとめたペレウスは反応して、強烈に吐き捨てた。
「これは犯罪だ……あいつは正統な上帝ではない、この帝国を導く資格なんかあの男は持たない!」
ペレウスは重ねてかたくなに否定した。否定しなければならなかった。和平の意思などかけらも持たない〈剣〉が名実ともに帝国の頂点に立ったとき、ヘラスになんの望みが残るだろうか?
しかし、ユルドゥズの苦みのこもった声が、冷徹な分析の響きをおびた。
「坊や……正統性、資格、そういったものの一切を〈剣〉は実力によってもぎとってきたんだよ。古代ファールス征服時にね。
今度もそうしようとするにちがいない」
ペレウスが唇を噛んで黙ったのち、ユルドゥズは果物屋に目をまた向けた。
「ねえ、質問はもう一つしたよ。その二百名はどこへ行った?」
「奴らは皮剥ぎ公とともに来て、皮剥ぎ公とともに去りました。この一帯には残っていません」
「残っていない?」ユルドゥズの隻眼がすっと細められた。彼女は、親指で背後のイスファハーン公の皮を示した。
「じゃあなんでそこの、あんたらの主君を早く葬ってやんないのさ?」
その一言は、果物屋の老人および、周囲にできつつある人垣のひとりひとりの胸を貫いたようだった。
蒼白になって視線をさまよわせる者、眉を寄せて脂汗を浮かべる者とそれぞれが落ち着きなくなる。
悲しげに、弱々しく果物屋が言った。
「それは……どうしようもなかったのです、恥じるしかありませぬが。
みな怖いのです。皮剥ぎ公が怖いのです。かれは出て行く前に、市民に対して『今回のみは傷つけないが、反抗に起てば都市ごと屠る』と言い置いていきました。
市壁の門は壊され、衛兵は皆殺しにされました……皮剥ぎ公の軍がイスファハーンに戻ってきたとき、わしらには抵抗のすべがありません。ただでさえこの地は長く平和でわしらは戦に慣れておらず……」
「なるほどね。〈剣〉はたしかに借りを返す男だから、なにかあいつに逆らうことをすればそれは身に返ってくるだろう。旧主の死骸を葬って、恐ろしい新帝の機嫌を損ねるわけにはいかないってわけか。
わかるよ。イスファハーン公は昔から柔和で優しいお方で、そのうえいまは死んでるからね。ちょっとないがしろにしたってかれから罰は受けないさ」
ユルドゥズのいつもより辛辣な物言いには、すでにして怒りがこもっていた。
慙愧の面持ちで無言となった市民たちに、ユルドゥズは隻眼の下をゆがめて言った。
「で、帰ってきた嬢ちゃんにここに居座られて、それを後から〈剣〉の軍に『ファリザードをかくまっていただろう』と追求されるのも怖いってわけだね?
けっこう。いましがた白羊族もちょっと失敗したことだし、あんたらが追い出す嬢ちゃんは、〈剣〉の怒りごとこっちで引き取っていってやるよ」
………………………………
………………
……
イスファハーン市内の隊商宿は、どれも三階建てで中庭を広くとった構造である。
遠路をはるばる訪れる商人や旅人の泊まる場所であり、常ならばそういった客でにぎわいの絶えない場所であった。
しかしいまはペレウスたち以外に人気はなく、市の全域をおおう重苦しい沈黙に呑みこまれていた。
ファリザードの震えは止まっていたが、小部屋の寝台に軽い体を横たえても、彼女は身動きひとつしなかった。ぴくりともせず、空虚な瞳で天井を眺めている。
寝台の端に座って背を丸め、ペレウスは両手で顔をおおった。
(世界のすべてが、逆転した。ヘラスにとっても、この子にとっても)
こうなってはもう、結婚話どころではない。
ヘラスとの和平を推進してきたイスファハーン公家は一朝にして滅びの瀬戸際に追いこまれた。それを行った〈剣〉は人間世界に攻め寄せるために上帝位を奪いつつあり、かれとは微塵の妥協の余地もない。
(この先、どうしたらいい……
いますぐやらなければならないことが何かだけはわかっているけれど)
ファリザードを逃がさなければならない。ジオルジロスの話によると、〈剣〉は侵攻したイスファハーン領各地で、イスファハーン公家の直系の血縁者をつぎつぎ殺害しているという。
(どこへ逃げれば……ミュケナイへ亡命させる?)
たしかにそこまで行けば当面は安全かもしれないが、極めて難しい。
ここイスファハーンからヘラスのかれの故国までは西におおよそ五百ファルサング――砂漠と海水、大河と山脈、そしてなによりホラーサーン軍が立ちはだかっている。
扉の開く音がして、ペレウスは目を覆っていた手をどけた。
「……ユルドゥズさん」
小部屋の入り口で、騎馬族長はファリザードに一度視線を投げ、それからペレウスに告げた。
「日が暮れたら出発する。夕食時に起こすからいま寝ときな。
ったく、十万ディーナールの稼ぎどころじゃなくなったね」
「ぼくの国ができるかぎりの御礼をします。ですからお願いします」
ペレウスは思わずすがるような声を出していた。
ふんと鼻を鳴らす音が返ってくる。
「言わなくていい。
ジオルジロスの野郎じゃないけどね、白羊族は〈剣〉の味方にだけはならない」
ユルドゥズは戸口の柱に背をもたせかけ、片脚をあげて反対側の柱にかけた。
「――その昔、ね。古代ファールスのホラーサーン地方には、白羊族の国があった。
征服時代になり、〈剣〉がやってきてその王朝を滅ぼし、ホラーサーンを支配した。けれど百年後、あたしらの誇り高いご先祖は大反乱を起こしたのさ。奮闘して、〈剣〉に傷までつけたんだよ。残念ながらかすり傷だったらしいけど、実は先祖たちはなかなかいいところまでいってたんじゃないかってたまに夢想する。
なにしろ、反乱を鎮定したあと、〈剣〉は白羊族の大人を皆殺しにして皮を剥ぎ、それを敷き詰めた家畜小屋に白羊族の孤児たちを放りこんだんだから」
小部屋に流れるユルドゥズの声からは感情が欠落していた。
「けどね――何度も言ったけど、あたしらはジン族には手出しできないよ。〈剣〉と戦うなら、はやくあたしら以外に味方の軍を見つけな」
「なぜですか!?」
寝台から立ち上がってペレウスは質疑の声を上げた。
「そこまでされた恨みがあって、なぜ〈剣〉に逆らえないんですか!?」
「理由なら、これさ」
言うやユルドゥズはどこに隠し持っていたのか小型の弓矢を取り出し、一瞬で寝台のファリザードへ狙いを定め、弦を引こうとした。
驚愕したペレウスがファリザードの身をかばう寸前に、「ぎっ」と呻いてユルドゥズは弓を取り落とし、自らの手首を押さえた。
「……ほら、見なよ」
彼女は、上着の袖をまくりあげて、ペレウスに見えるように手首をむき出しにした。
手首の肌に刻まれた、剣の紋様――傍目には文身に見えるそれが、虫のようにぎちぎち動き、皮膚に潜り込みかけていた。切り口が開き、つっと手首から血が幾筋も流れた。
「昔話の続きさ。親の皮の上で育ち、発狂することなく無事に成人を迎えられた子らを放逐する前に、〈剣〉は手ずから強力無比な封印紋をほどこした。子々孫々の呪縛をね。
“決してジン族に手を上げることはできない”という縛りなんだよ、これは。やろうとすればごらんのとおりだ。嬢ちゃんに……ジン族に向けて本気で放つつもりだったなら、いまごろこの手を切り落とされているよ。
白羊族の生まれてくる赤子には、みなこの呪印がついている。わかったろう、坊や。ジン族同士の内乱では、あたしらはまともな戦力になれないんだよ。
たとえ、それがどれだけ悔しくてもね」
語り終えたユルドゥズは、弓矢を拾って出て行った。血を点々と床にこぼして。
ぼすんと寝台にふたたび座り込み、ペレウスは長嘆息した。
マントの裾を、背後から引っ張られた。
死んだようになっていたファリザードが、ペレウスのマントをつかんでいた。
後ろに手を伸ばし、ペレウスは彼女の手に触れた――今度は手をぎゅっと握られた。強く、強く、骨が軋むほどに。
胸を衝くすすり泣きが、かすかに聞こえた。
それが次第にむせぶように強まる。絶望が凝って音に変わったかのようなファリザードの嗚咽に、ペレウスは自分も頬を濡らして聞き入りながら、少しほっとしていた。
どんな悲惨な泣き方でも、泣けるようになったのならばそのほうがまだ良い。
正気に戻っても、彼女の向き合わねばならない現実は黒々とした奈落だけれども……
――いいや。
ふいに、ペレウスは強烈に思った。ぼくはこの子を助けたい。
――どのみち〈剣〉は倒さねばならない。絶対に。
ぎり、とあごを食いしばる。
古代より常勝を誇る最強のジンであっても、〈剣〉には敵が多い。力を結束させれば討てないはずはない。誰かがそれをやらねばならない。
「そうだ、ヘラス諸都市は」ペレウスはつぶやいた。「〈剣〉への対抗戦線を、帝国のほかの四家と組めるはずだ」
第一章了。