27.魔帝
武をつかさどるジン決起してファールス帝国を震撼させ
状況はかくて急転すること
なんというあっけなさだ、とペレウスは瞠目していた。
周辺に転がる死体はきっかり二十一体――かしらであるジオルジロスを除く賊たちは、白羊族の男たちに矢を浴びせられて一人残らず絶命していた。
そしてペレウスやファリザードの前には、ジオルジロスが地に膝をつかされている。その背後から、かれを素手で馬上から引きずり下ろして捕らえたクタルムシュが槍の刃をつきつけて目を光らせていた。
ユルドゥズが誇らしげにいった。
「ヘラス人やヴァンダル人には、騎射はファールス人の得意技みたいに伝わっているみたいだけれどねえ。腹立たしいったらないね。
大半のファールス人は練習してやっと騎射ができる。だがあたしら騎馬部族にとっては、馬に乗って矢を放つなんて、子供が駆けっこするくらいだれもが自然にやれることなのさ。
みな、この成果を」
(たしかに無類の軽騎兵かも)
騎兵戦の一部始終をやや離れたところでみていたペレウスは、ユルドゥズの豪語にうなずかざるをえない。
が、黎明に乗ったファリザードがぼそっとつぶやいた。
「雇い主を囮に使っといて、成果あがらなきゃ噴飯ものだ」
「使えるもんは使うさ。なんだい嬢ちゃん、さっきの言葉はべつにファールス人をこきおろしたわけじゃないよ」
ユルドゥズは平然とした様子である。
「先にいったろ、理由あってあたしたち白羊族はジン族には手を上げられないのさ。
だからこのジンの古老はクタルムシュに任せなきゃなんなかった。こいつのそばからひとりでも多く賊兵を引き離したかったのさ。
ま、そんな小細工いらなかったかもね。ちょっと脅かしたら賊どもは面白いくらい逃げ散ってくれたから」
すべては整然と行われた。
最初の一手は、黎明に乗ったファリザードが賊をおびき寄せるところから始まった。
まばらに草のはえた礫砂漠をゆく賊の一行の前方に、ユルドゥズに指示された彼女は偶発的な遭遇をよそおって身をさらしたのである。
ファリザードが慌てたふうをよそおってすぐ馬首をひるがえして逃げる――七名の賊がファリザードを追う――岩山をまわりこんだところで白羊族の分隊三十名が、彼女を追ってきた賊を声さえあげさせず射殺した。
それとほぼ同時に、白羊族の残り七十騎は、獅子の群れが静かに獲物に接近するように、賊本隊の背後に回りこんだ。
それはクタルムシュの術である“隠形”に助けられたのは間違いなかったが、白羊族の騎兵行動の巧みさもまた並外れていたのである。
間近にいたり、血も凍りつかせる喚声をあげて白羊族が殺到したとき、残っていた賊の十五名全員が、恐怖にかられて背を向けた。白羊族はらくらくと追いながらその背をつぎつぎ射抜いていったのである。
手に汗をにぎりながら、クタルムシュさんの姿がどこにも見えない――とペレウスはかれを目で探していた。だが、気がつくと馬を駆るクタルムシュがジオルジロスの馬に並走していた。かれは手槍を繰り出して一撃でジンの古老のつかむ手綱を切り、それから横殴りに馬上からたたき落としたのである。
(“隠形”って、地味だけどすごいかも。
すこし離れたら、白羊族のみんなの姿がよほど目をこらさないとわからなくなった)
ペレウスは最初、クタルムシュが白羊族の隊に“隠形”の効果を及ぼしていると聞いてもいまひとつ実感できなかった――が、このとき術の効果のほどをはじめて実感することになったのである。
『ジンの魔法のひとつである隠形はほんとうに姿を消すわけではない。こちらの姿を相手の意識にのぼりにくくさせる程度のものだ。
それでも、顔のほくろが見える距離に近づくまではそれなりに効果がある』
その説明が、いまなら腑に落ちる。
ふと、ファリザードがユルドゥズにかける懸念の声が聞こえた。
「……気を抜かないことだ。この賊どもは、前見たときの半分以下の人数しか手勢がいなかった」
向きなおり、ペレウスも「そうです」とそれに同意した。
「ヴァンダル風の重騎兵の姿がみえません。あいつらは強かった」
ふむ、とユルドゥズが考えこんだ。
「斥候の話によるとこのあたりにはいないけれどねえ。近くにいるとしたら、あっちにも隠形の使い手がいる場合だ。考えにくいが、万が一そうだと厄介だ――よし、クタルムシュ。ちょっとそこのジオルジロスとやらをくすぐって情報を吐かせられるかい」
末尾の一言の冷酷な響きに、ペレウスはぎょっとした。つまり拷問にかけるということだろう。
(傭兵なんだな、やっぱり)
クタルムシュが妻に「わかった」とうなずいたときだった。
「プレスター……重騎兵の指揮官とはいったん別れて逃げることにしたのだ。ここにはいない」
低い声を出したのは、ひざまずかされたジオルジロスであった。
ユルドゥズが、「おや、素直じゃないか」と冷笑する。
「だけどねえ、それがほんとうかどうか確かめてみなくちゃ。
もちろんあたしら、鎧を着込んだ重騎兵の始末の仕方だって知っているけどね、こっそり近くに寄られて白兵戦に持ち込まれちゃ厄介なんだ。念には念を入れてあんたの体に聞いてみよう」
「やめておけ、この窮地では時間の無駄だ。それよりわたしと協力したほうが利口だ」
「……あん?」
なにをいってるんだ、とばかりの表情をしたユルドゥズに、ジオルジロスは「考えてみろ」と話をもちかけた。
「わたしを生かしておけば役に立つぞ。“扉”を操るわが力によっておまえたちに逃げ道を提供することができる」
一拍置いて、ユルドゥズが首をひねり、ペレウスはまばたきした。意味がわからなかったのである。ファリザードが懐疑的に眉をひそめて訊き返した。
「……なんの話をしている?」
「なんだと?」
今度はジオルジロスが驚きを目に浮かべた。「知らぬのか?」とかれはいい、それから、
「そうか、いまなお知らぬか。知らぬのだな」
不吉に、ほくそ笑んだ。
「なるほどそうか、それも道理だ、知るまいなあ。いまのいままで連絡のつかぬ僻地に隠れていたのであれば!」
ジオルジロスはおかしくてたまらないとばかりに体を折り、身を震わせて笑いはじめた。
その嘲笑に、ペレウスはざわりと身の毛が逆立つような感覚を覚えた。みわたすと、程度の差こそあれ全員の顔に動揺の色が浮かんでいた――みな凶兆を感じ取ったのだとペレウスは気づいた。
「なんのことか話せ、邪教徒」
クタルムシュがジオルジロスの腎臓の上をつま先で蹴った。苦痛にせきこんだジンの古老は、それでも嘲りをのせて声を放った。
「わたしとおまえたちはいまや同じ立場だ。地上でもっとも危険なジンに追討を受ける身だということだよ」
● ● ● ● ●
時をさかのぼること数刻、都市イスファハーンから七十ファルサング(約350km)の西にある都市ニハーヴァンドの近郊――
小高い丘のある原野で、ひとつの合戦が行われた。
一万四千の軍と三千の軍が激突したこの戦に、特筆するべきことはない。
少数でありながら無敗の記録を更新しつつある三千の側が終始、戦闘を優勢にすすめ、当然のように完勝したことを除いて。
また、どちらの側もファールス帝国の正規軍とされる軍勢であったことを除いて。
勝者の三千の軍はホラーサーン公家軍の一部、敗者の一万四千は上帝直属の太守軍であった。
戦闘が終わり、舞い上がっていた砂塵が降りはじめた原野は、敗軍の人馬の屍やうめく重傷者に満ちている。
「皮剥ぎ公、この狂ったジン」
丘の上、斬りつけるような罵声が飛んだ。
罵ったのは敗軍の将――イスファハーン公家の次男にして、上帝直属の都市ニハーヴァンドの太守アクバルである。
血まみれの甲冑姿で縄を打たれたアクバルの隣には、ともに戦った別の都市の太守や、近隣の領主たちも引き据えられている。
かれらは〈剣〉ことホラーサーン公アーディルの前に、戦の捕虜として並ばされていた。
「この逆賊め、今日の勝利を得ようとも貴様はこれで終わりだ。
なにを考えて裏切ったかは知らぬが、これからファールス帝国のすべての氏族がきさまに敵対するぞ!」
赤塗りの鈴のように血走った眼球を剥き、縛られたアクバルが絶叫する。
〈剣〉は甲冑を着けず、床几にまたがっていた。無表情のかれは雲をながめるように天へと目を向け、アクバルの怒声になんの反応も返さなかった。周囲に、鎖かたびらに身を固めたホラーサーン兵たちが物言わぬ彫像のごとくたたずんでいた。
さらに怒鳴ろうとしたアクバルを黙らせるように、タカの影が上空に兆し、直後になにかがぱらぱらと降ってきた。
それは切り取られた指。
耳。鼻。
二枚、べちゃりと濡れたものがアクバルの前の地面に落ちた――それがかれの弟たちの血まみれの顔の皮だと気づき、アクバルはめまいを覚えて下唇を噛み破った。
〈剣〉がやっと視線を下ろし、声を出した。
「戦場に着く前にイルバルスは仕事をしてきたようだ」
「はい。イスファハーン公家五男ハイダル、八男クバードの死亡もこれで確認されました。次男アクバルはいま御前でわめいている者です」
〈剣〉に合いの手を入れたのは、ホラーサーン兵たちの先頭にいる、かれの副将であるジン、アルプ・アルスラーンだった。青い鎧を身につけ、吠える獅子を模した兜をかぶった、髪の長い厳しい顔のジンである。
「さすがに上帝直属の太守軍に回されたジン兵。この者どもの屍の心臓からは上質の魔石がとれました、アーディル様」
アルプ・アルスラーンが合図すると、兵のひとりが陶器の大皿に盛った魔石を運んできた。大皿の縁からはぼたぼたと血がしたたっている。
ジン兵たちの血をまといつかせて煌々と輝く魔石――世にダマスカス鋼と呼ばれる金属の原石。
それを〈剣〉は受け取るや、大皿ごと持ちあげて口に流しこんだ。
ぼりぼりと噛み砕いては嚥下する音がひびく。〈剣〉の頬はリスのごとく滑稽にふくらんでいる。だが、笑いを誘う光景では決してなかった。魔石をむさぼる口元が赤く汚れていく。
口がふさがった主に代わり、〈爪将〉ことアルプ・アルスラーンが敗軍の面々へ、冷たく重い鉄鋼のような声を発した。
「無能を恥じろ、若造ども。
これらの勇猛な戦士たちを無為に死なせたことについて、かれらを率いたおのれらが責めを負え」
それを聞き、アクバルは秀英な眉目をゆがめて歯をむいた。
アルプ・アルスラーンの言葉は辛辣であったが、アクバルはけっして手をこまねいて敗北を迎えたわけではなかった。
ホラーサーン公によるイスファハーン陥落とその軍の接近の報せを聞くや、アクバルはすぐさま太守として動かせる兵を動員した。さらに近隣の太守や領主に即座の援軍をたのんで、短期間で一万四千ちかくの兵をかきあつめたのだ。
また、敵のホラーサーン軍が散らばり、〈剣〉がわずか三千の部隊に混じってこちらから攻撃可能な距離にいると知るや、時をおかず果敢に討って出もした。
その即断に通常なら誤りはなかった。
本来ならばホラーサーン軍は三万の兵数をかぞえ、練度も高い。その強敵が補給の問題からか、散らばって別個に行動しているのだ――ザイヤーン、カーヴルト、イルバルスなどのホラーサーン諸将は〈剣〉とその副将から離れているという。
軍学上、「敵軍が分散しているところを叩け」というのは鉄則である。いまなら敵の五倍の兵力で各個撃破できるはず、あわよくば〈剣〉を討てるはずという甘い誘いにアクバルは乗った。
不運は、予想をこえて敵軍の練度が異常な水準に達していたことであった。
三千名のホラーサーン軍は〈剣〉その人と、副将をつとめるアルプ・アルスラーンがみずから率いており、両名の指揮能力はアクバルの軍を圧倒した。
アクバル軍の騎兵による側面および背面への攻撃はことごとく先手をとられて撃退された。優勢な歩兵兵力を叩きつける正攻法はかわされ、丘の地形を利用して翻弄され、あげくに正面から押し戻された。五分の一の敵に押し負けたのである。
さらに途中から、鳥に“変化”するホラーサーン将イルバルスの遊撃隊までもが、空を翔けて急速に戦場に合流し、アクバルの軍の後方をかき乱した。
敗色濃厚となった戦闘終盤において、アクバルは一か八か〈剣〉との刺し違えを計った。
かろうじて統率のとれている身辺の騎兵を集めて二百騎の決死隊をなし、矢のようにホラーサーン軍の中核を衝こうとしたのである。――本来、数で優っていた側が取るはずのない作戦だった。
そうまでしても、戦局はくつがえらなかったのだ。
「恥を知れだと、よくもほざいた。卑劣な背信者がどの面さげてその言葉を吐く」
噛み切った唇から血をしたたらせ、アクバルは逆上の声をはりあげた。
だが威勢よく応酬しているのはかれひとりであり、ともに拘束された太守や領主たちは、嵐をやり過ごそうとするかのようにうなだれて沈黙していた。
アルプ・アルスラーンは軽蔑のまなざしで、一族を殺されつつあるアクバルを見下ろした。
「背信者はアーディル様ではない。イスファハーン公ムラードだ。そしてダーマードの愚か者だ」
アルプ・アルスラーンがそのふたつの名を敬意のかけらもこめず言い放ったことに、怒り狂うアクバル以外の敗将一同は動揺を覚えた顔になった。その武将はイスファハーン公の名だけでなく、ダーマードという名さえ呼び捨てたのだ。
それは上帝の実名であった。
ひざまずいた領主のひとりが、あえぐように〈剣〉にむけていった。
「ホラーサーン公、あなたは征服時代以来、長く帝国の守護者でした……上帝にもほかの公家にも民にも、畏敬をもって頼られていたお方だったではありませんか。
それがなぜこのような反逆を……上帝を廃したてまつり、イスファハーン公家を滅ぼすとなどおっしゃるのです。どのような意図があって……」
〈剣〉は領主の問いに片眉を上げもしなかった。地平を見晴るかしながらアーモンドの実をむさぼるかのように魔石を噛み砕いている。
アルプ・アルスラーンがまた代わって答えた。
「今しがたいったではないか。アーディル様は裏切りを受けたのだ。
五公の誓いを知らぬのか、小僧ども。
六百年昔の征服時代、アーディル様はこのファールス帝国を煙と灰燼のなかに築きあげて他の四公に分かちあたえた。
だがそこで他の四つの公家はさらなる進軍を拒否した。『われらはもう戦いを続けられぬ。ひとまず得た領地で傷を癒し、長年をかけて新しい国の力を養おう』と。しかし、そのかわりとしてかれらはアーディル様に誓約した。『いつの日か、かならず征服を再開し、人族が荒らした大地をわれらの手に取り戻す』と。魔石と塔と薔薇と太陽と月の家々が、おのおのの紋章にかけて剣の家に誓ったのだ。
……四公家が日輪と月輪にかけて誓ったゆえに、アーディル様はそれをひとまずお信じになられた。信じたゆえにアーディル様は、みずから築いたこの帝国と五公の制度を守ってこられた。他国の侵略をことごとく退け、何度も起きた人族の反乱を鎮定し、背信帝の軍を打ち破った。
どのような扱いを受けようとも耐え忍ばれた。他の四公家が持ち回りで上帝位を占め、結託してアーディル様に玉座をけっして渡さないようにしていても。
すべて『いつの日か』といういにしえの誓約を信じておられたゆえだ。
信じておられたのだ――イスファハーン公家とダマスカス公家により、ヘラスとの恒久和平締結の話が持ち上がるまではだ」
鉄鋼のような声が、いちだんと重量を帯びた。
「イスファハーン公ムラードには、アーディル様は御妹をくれてやった。だがムラードは真っ先に人族との融和という世迷い言をほざきはじめた。
ダマスカス公ダーマードは、アーディル様が上帝に押し上げてやったようなものだ。背信帝の起こした内乱をアーディル様が鎮めたことによってだ。それにもかかわらずダーマードは、人族との交易の利に目がくらんでムラードの甘言に乗り、一、二年のうちにもヘラスと和睦するつもりであった。
腑抜け。誓約破りの裏切り者ども。人族から攻められておいてさえ、恒久的な和平を望むだと。
アーディル様以外、当時の五公家の当主は代替わりしたとはいえ、一度誓ったことを破棄するとは許しがたい。
誇り高き生粋のジンは裏切りはけっして許さぬ。
五公制度などもういらぬと、アーディル様は決められたのだ。もとよりファールス帝国の玉座は、この地を征服したアーディル様に帰すべきだったのだ」
アルプ・アルスラーンの獅子吼のごとき宣言は、原野を揺るがすかと思われた。
「われらはもはやホラーサーン公家軍ではない。
アーディル様こそがこのファールス帝国にふさわしい唯一の帝であり、われらホラーサーン兵こそ帝室の近衛軍であり、なんじら逆らう者らこそ逆賊に他ならぬ。
われらは上帝アーディル様の意に従い、逆賊を討っているのだ」
こんどこそ、敗将のだれもが絶句した。
「……簒奪というのだ、それは!」
すぐに声を荒らげたアクバルすら、気を呑まれた様子をその面から払拭することはできなかった。
〈剣〉ののどから、ごくん、と音が聞こえた。噛み砕いた最後の魔石をのみくだした音であった。「アクバル」と〈剣〉は甥の名を呼んだ。
「なんだ、簒奪者!」
「ファリザードがどこにいるか知っているか」
身構えていたアクバルは、予想外の質問に面食らい、「し……知らぬ。妹は行方がわからないのか?」と逆に問うことになった。
「そうか」
淡々と〈剣〉はいったのち、質問を変えた。
「アクバル、わしに仕えるのと、殺されるのとどちらがよい」
むしろその問いを待っていたとばかりに、アクバルは血混じりの唾を吐きかけた。
「だれが貴様なんぞに! 貴様がすでに殺したわが薔薇一族の者たちのように皮を剥ぐなりなんなりするがいい、伯父よ」
「そのいさぎよさを称して斬首にする。アルプ・アルスラーン、アクバルを連れて行って首をはねろ」
「御意に」
縛られたアクバルをつれてアルプ・アルスラーンが退出してゆく。
牙旗の“黒い剣”の紋章がひるがえる下で、〈剣〉は上空をあおいで別の臣下によびかけた。
「イルバルス」と。
翼を広げたタカの群れが旋回しながら舞い降りてくる――そのうち一羽の猛禽が〈剣〉の眼前に降り立つかとみえたとき、その姿は変じ、まばたきのうちに甲冑姿となっていた。片膝を地についた、屈強な体格のジンの将がそこにいた。
〈剣〉はいいわたした。
「ひきつづき各地の薔薇の根を切れ。ただし成人しておらぬ者、特にファリザードは生かして連れてくるように」
〈剣〉の命令に、イルバルスは声らしい声を発して答えはしなかった。
かれは猛禽が鳴くような軋り声を歯のすきまから押し出し、地を蹴ってふたたび天へと戻っていった。
最後に、〈剣〉は両腰に差した一対の三日月刀――“世界の覇者”と“世界の王者”の柄に手を置き、「イスファハーン公家の者以外の太守および領主らよ、聞くがよい」と敗将たちへ声を発した。
「一度だけは許す。人質にも取らぬ。
ただし次にわしに弓を引けば、一族もろとも皮を剥ぐ。
帰ったら、ここにいない近隣の領主や氏族の代表者にわが言葉を伝えよ」
血みどろの口元が物憂げにつむぐ、ぼそぼそとした低く小さな声――にもかかわらず、だれもが戦慄の面持ちで固唾を呑んで沈黙した。
ターバンの下からのぞく金の瞳には感情はなく、代わりに静かな古代の狂気がたたえられている。
「かく伝えよ。わしは取り戻す。
六百年間、他の四公家にあずけおいていた帝都バグダードの玉座を取り戻す。そこなわれたわが力の大半を取り戻す。いずれは、群れはびこる人族が占拠する大地のすべてを取り戻す。
わしに従え。これよりわが言葉こそが上意なり。われスルターン・アーディルは、このジンの帝国の支配者なりと」