26.ジンの愛〈下〉
ペレウス、ファリザードの想いを知って混乱し
ユルドゥズにジンの愛について教えられること
まずかったかも、とペレウスは困惑しきって口を押さえた。
予想もしていなかった告白に度肝を抜かれ、ろくに考えずについ口にした言葉が「ほかに好きな人がいるから」。前向きな返事では絶対にない。
(やってしまった。もっと慎重にいえないのか、ぼく……
ファリザードを傷つけたいわけじゃない)
ファリザードは不意打ちで斬りつけられたような表情になっている。茫然自失して、痛みを打ち込まれながら認識もできない様子だった。
やっとのことで彼女は口を開き、震えた声をだした。
「だ、だめ……そんなのはだめだ……そんなこと許さない……」
ペレウスは、ファリザードのその言葉に悪気がないことはわかっていた。彼女はただ冷静さを欠いているだけだと知っていた。誰からも甘やかされた生まれ育ちゆえにもともと下手に出るのが苦手だということも知っていた。
それでも、「だめ」「許さない」という言葉を聞いたとき、少年は反射的に顔をそむけてしまっていた。
「――急にそういうことをいわれても困る」
自由への干渉を許すなかれ――独立を重んじるヘラス人として誇り高くあれ――故国の宮廷で受けてきた教育が、ファリザードの言い方に反発を生じさせたのだ。
だが、ペレウスもべつに頑迷な誇りだけで生きているわけではなかった。突っぱねる口調になってしまったことを、すぐさまかれは後悔した。
(しまった、まただ。なんでぼくってこうなんだ。こんな言い方することないだろう)
いまの台詞でファリザードをさらに傷つけたのは確実だった。
かれはとっさに謝った。
「ごめん」
――直後に、その一言が駄目押しになったことに気づいた。蒼白になっていたファリザードが、突き飛ばされたように後ろによろめいたのである。
彼女は悲痛に唇をひきむすび、肩をわなわな震わせはじめた。金の瞳に涙があふれんばかりに盛り上がり、こらえながらもいまにも決壊しそうになっていく。
誤解されたことを知ってペレウスはあわてた。
「ごめっ、いや違う、泣くな、さっきのはそっちの意味のごめんじゃ――」
弁解するかれに背をむけて、ファリザードが走りだそうとした。
そこへ横からペレウスに救いの手が差し伸べられた。
「嬢ちゃん、落ち着きな。坊やは『ゆっくり考えるから時間がほしい』といっているだけだよ」
クタルムシュとユルドゥズが岩陰から歩き出てきたのである。
ペレウスは余裕なくこくこくとうなずいた。覗いていたのかと本来なら文句をいうところだが、この局面では純粋に助けがありがたい。
呆れ返った表情のユルドゥズが、二人を交互に見比べた。
「みちゃいられない。あんたら、どうもお互いの種族の事情をろくすっぽわかってなかったみたいだねえ。
ま、どうせ嬢ちゃんのほうが恥ずかしくてジンの秘密をあれこれぶちまけられなかったんだろうけれど。
嬢ちゃん、あんた子宮錠はもう浮いているかい?」
いきなりの問いをユルドゥズから向けられたファリザードがたじろいだ様子をみせる。だが、ちらりとペレウスをみて、彼女は素直にこくんとうなずいた。
「浮いたのは坊やに出会ってから……いや、坊やに対して浮いたのかい?」
今度の問いにはすぐ答えはなかった――が、少ししてファリザードはむっつりと押し黙ったまま、紅潮した顔をうなだれさせるように深くうなずいた。それまでこらえていた悔し涙が下に二粒こぼれた。
ユルドゥズが「そうかい。わかったよ」とため息をつき、半白の頭髪を女性らしからぬしぐさで掻き乱した。そして、
「ちょっくらあたしが坊やに説明しとこう。嬢ちゃんのほうは任せたよ、クタルムシュ」
ペレウスのマントの肩を老女はつまんで引っ張り、歩き始めた。
「な、なんです!? どこへ」
「いいから坊やはあたしとこっち来な」
ペレウスが座らされたのは少し離れた砂の上だった。
そう場所を移したわけではない。お互いの会話が聞こえない程度に遠ざかっただけである。
かれの前にどっかとあぐらをかいたユルドゥズが、「覗こうといったのはうちの人だよ。お節介なんだから」とつぶやいた。
「そこをまず説明しとこうかね、坊や。
うちの人があんたらにやたらと親身になるのは理由がある。クタルムシュにとったら、嬢ちゃんは同じ特殊性癖持ちのお仲間なのさ。同病相哀れむってやつさね」
「特殊性癖?」
「人族に惚れたこと」ユルドゥズはまず自分を、ついでペレウスを指さした。「人を伴侶に定めたジンは、仲間内では変わり者飛び越えて変態扱いさ。それでも嬢ちゃんはあんたが好きだと、あんな不器用な言葉でだけどちゃんと表明したんだよ。あんたにしたら一方的に好かれて迷惑かもしれないけどね、もう少しそこんとこを汲んでやってくれないかね」
青ざめたペレウスは、ためらいがちに切り出した。
「でも、それじゃ……ぼくがファリザードの好意に応えたら、彼女がジンの社会で馬鹿にされることになるのでは……」
「そうだね、陰口くらいは叩かれるね」ユルドゥズは間髪をいれず断言した。「だがそれがどうしたってんだい? 一族と絶縁したクタルムシュに比べれば、嬢ちゃんは少なくとも父親には祝福してもらえるじゃないか」
「そんな無責任な言い方っ」
「お黙り。そこらへんがジン族のことをわかっちゃいないというのさ。そのころには嬢ちゃんは同類に軽蔑されるより、あんたに拒絶されるほうをよほど辛く感じるだろうよ。
坊や、いまから話すことをしっかりおつむに刻みな。あんたはいま人生の岐路にいるんだよ。類まれなる幸運か、言語を絶する災厄かのね。
あの嬢ちゃんを、あんたのなんだと思う?」
ユルドゥズの指したほうにペレウスは目を送り、涙を浮かべてこちらを見つめているファリザードと視線が合って動揺した。彼女はクタルムシュの話を聞きながら、悲しげにしおれてかれを見ていた。
ファリザードから目を離せないまま、ペレウスはぼそぼそと話した。
「……ファリザードはぼくの友人ですよ」
「ちがう。さっき答えをいったろう。あの子はあんたにとって、極めつきの幸運もしくは災いになる。あの子があんたを見初めた以上、この先どうしてもそうなってしまう。
このファールス帝国の人族のあいだには“ジンに憑かれた者”という言い回しが古来からある。恋に身を焦がすやつをそう呼ぶんだ。
忠告するが、ジンの恋心をもてあそぶとやばい事態になるよ」
この脅しでようやくペレウスはユルドゥズのほうに顔を戻した。
「どういう事態ですか?」
「その質問に答えるために、もうひとつ“ジンの嫉妬”という言葉を教えてやろう。奇怪もしくは残酷な殺され方のことを、古来そう呼びならわしていたんだよ。
嬢ちゃんの想いに応えるにしろすっぱり振るにしろ、ひとつ間違えたら大変なことになるとよおくわきまえな」
顔がひきつるのをペレウスは感じた。誇張だと思いたいが、ユルドゥズの様子は真剣そのものである。
「……ほんとうに、そんな大げさなことになるんでしょうか?」ペレウスは疑念もあらわに質問した。「ぼくも彼女もまだ十二歳ですよ」
ユルドゥズは「は」と嘲るように笑い、顔をぐっと近づけてきた。隻眼にわずかに怒りの色が浮いていた。そういえばこの騎馬部族長は村にいたときファリザードとよく一緒にいた――とペレウスは思い当たった。自分とクタルムシュ以上に、ファリザードとユルドゥズは親しくなっていたのかもしれない。
「はじめて子宮錠が浮いたと嬢ちゃんはいったんだ。あんたのそばにいるうちにね。
ジンの女にとっては、そうなるともう取り返しがつかないんだよ。
あんた、もしかして、時間を置けば嬢ちゃんの熱も冷めるかもしれないと期待しているかい? もしそう目論んでいるならとんだ勘違いだ。
五十年で吹っ切れたならジンの恋としては短いほうだよ」
「……五十年?」
耳を疑い、ペレウスは聞き返した。
ユルドゥズが、ほうらやっぱり知らない、といいたげに目を細め、言葉をつむいだ。
「ジンは一度相手に想いを寄せると、簡単に心変わりできないのさ。百年でも二百年でもひとりの相手にこだわり続ける。あたしら人族の時間感覚からするととほうもなく長い時間だね。
あの子の心をずたずたになるまで傷つけでもしないかぎり、あんた一生嬢ちゃんに好かれたままだよ。そうしてでも突き放したいなら止めないけどね」
「ずたずたって……そうまでしたいわけがないでしょう!」
「そうかい。じゃあ次は幸運のほうの話もしてやろう。
いったんこちらに惚れれば、ジンは理想の伴侶になる。子が生まれにくいことは除いてだけどね。
……自分でいうのも照れるが、クタルムシュはあのとおり暑苦しいくらいあたしにべったりだろ? だがね、あのくらい深く、しかも長続きするのがジンの愛なのさ。
嬢ちゃんはまだ意地を捨て切れていないけれど、この先はどんどんその深みにはまるばかりだよ。愛した者を喜ばせるためならどんなことでもやろうとする。どこまでも尽くしてくれるし、けっして裏切ることはない。こっちが先に裏切らないかぎりはね。
こちらが老いようと顔に醜い傷がつこうと気にとめず寄り添ってくれるし、そのひたむきな情熱は人間の一生くらいの時間では冷めることはない。
足の爪を歯で噛み切って整えてほしいとあんたが求めれば、嬢ちゃんはあんたのつま先を唇に含むだろう。そういう献身的な妻をあんたは手に入れるだろうよ」
最後の例はさすがに冗談ですよねとペレウスは確かめたくなった。見栄っ張りのファリザードがそんなことをするようになるなど信じられない。
しかし、ほんとうだとしたら。
「ユルドゥズさん、それって、理想というよりは……」
重い。
冷や汗を浮かべているペレウスに、ユルドゥズは渋い面持ちでうなずいた。
「何をいいたいのかはわかる。少々疲れるし、愛情にときどき胸焼けするんだよねえ。でもまあ、慣れたらそう悪くもないよ」
「待ってくださいよっ、いろいろ聞かせていただきましたがいまの話はおかしい!
世の中、うまくいく恋のほうが少ないって聞きますよ。
どれだけ異性に好かれても振り向かない者……たとえばほかに相手がいる者だっているわけでしょう。ジンがそういう望みのない相手に好意を寄せれば、そのつど血の雨が降るわけですか」
「うん、それがねえ。
どうもジン同士だと、そういう想いのすれ違いはめったに起こらないらしいんだよ。好意を向ける相手は、自分のことを愛している、もしくは愛してくれる相手であることがほとんどなんだと。
“運命の相手”を本能的に嗅ぎ分けて恋しているんじゃないかって思うくらいさ。
そういうわけで、ジンの恋は片恋で終わることはほとんどない。だから嬢ちゃんもあんたに初っ端から振られそうになるとは思わなかったんだろ。人族相手だと本能も狂うのかもね、やっぱり。
で、坊や、嬢ちゃんの恋にはほんとうに望みがないのかね?」
ユルドゥズが指でペレウスの胸をつついてくる。
「あんたがさっき突っぱねちゃったのは、ジン族のこういう事情を知らなかったからと思っていたんだけど。それとも嬢ちゃんがどうしても嫌いかね?」
「違います! ……でも……」
「ふんふん。後でじっくり考えてみようか。
さあて話を続けよう。あんたが嬢ちゃんを受け入れた場合、輿入れにともなって以下のものをあんたは手に入れることになるだろう。
ヘラスの平和。
それを実現したという栄誉。
小国の国家予算に幾層倍するであろう額の持参金。
以降、帝国との外交の窓口役となるであろうイスファハーン公家縁戚の立場。
ついでにいえば嬢ちゃん自身もあと十年、いや五年もすればこの地上で指折りの美女になっているだろう。いつまでも若く、あんたに心底ぞっこんの花嫁だ。子供のあんたには実感わかないかもしれないけど、美しい女を手に入れるためだけで命を賭けた英雄の話はいっぱいあるんだよ。
どう? 幸運と呼ぶにはまだ足りないかい、ミュケナイのペレウス?」
ペレウスは喉元をやんわり絞められて息がつまる錯覚を覚えた。
ファリザードを魅力的な女性という目でみることに実感がわかない――とはいいきれなかった。すでに泉のときに、ペレウスは彼女が異性であることを意識させられていたのだから。
ユルドゥズがまたかれの胸をつついた。
「それともなにかい、あんたの想い人とはもう将来を誓い合っちゃったわけかい?」
「……そういうのじゃないですけど……」ペレウスは口ごもった。そもそも好意を伝えたことさえない。
「それなら、その女以外は選べないと固く決心しちゃってるわけかい?」
「そ――」そうですと続けるはずが、言葉が出てこなかった。その理由もわかっていた。
そんなこと、考えてもいなかったからだ。
黒髪のゾバイダはかれにとって、過酷な環境における安らぎだった。ペレウスはゾバイダを姉のように慕い、あこがれてはいたが、彼女へのほのかな想いをそこまで発展させてはいなかったのである。
それはファリザードが自分にぶつけてきた想いとはまったく違う種類のものように感じられた。
(ぼくのほうが、ファリザードより子供だったんだろうか)
苦悩しているペレウスに、ユルドゥズは首をかしげて決定的なことを訊いてきた。
「その女のことはさておいてさ、どうにも妙だねえ。
坊や、あんたはもっと果断な性格と思っていたんだけれど、やたら優柔不断じゃないか。
やっぱりなにか別の悩みがあるのかい?」
もう隠してはおけない。ペレウスはやむなく口を割った。
「……宗教です」
親しくなったとはいえ唯一神の信徒であろう帝国人に話すのは気が進まなかったが、こうなれば打ち明けるしかなかった。
だが、
「――そうか、やはりね」
予想に反してユルドゥズはすんなり納得した。
戸惑いながらも、ペレウスはさらに細かく心情を打ち明けた。
「ファリザードは帝国人で、唯一神の信徒です。
以前、彼女に宗教のことを教えてもらったとき、しきたりについても聞きました。
この宗教の女性は、同じ宗教の男相手でなければ嫁げないんでしょう? だとしたら、ぼくは結婚の前提条件として、唯一神の教えに入信させられることになります。ヘラスの神々を偶像崇拝で多神教だと切り捨てる教えに」
結婚と戒律の話をするときファリザードがぎこちなかった理由も、ヘラスの多神教をかたくなに否定しようとした理由も、いまならわかる。ペレウスは唇を噛んでつづけた。
「ミュケナイはヘラス最古の都市国家です。とうに没落しましたけれど、神々を敬うことだけは廃れていません。代々の王は神官もつとめてきたんです。
その王家に生まれたぼくが、ヘラスの神々を捨てるというのは……
それに想像もつかないんです……帝国の唯一神のまえに額づき、断食や、日に五回の礼拝を行っている自分の姿が……」
「まいったね、そこまであたしらと同じか」
ユルドゥズの慨嘆に、ペレウスは「え?」と顔をあげた。老女は曇った顔で話した。
「あたしもこの帝国では異教徒だよ。坊やに最初に自己紹介したとき、あたしとクタルムシュは正式に結婚したわけじゃないっていったろ?
白羊族は古代ファールスの炎の神を奉じていまに伝えてきた。だから、クタルムシュとあたしの結婚を認めてくれる聖職者は存在しなかったんだよ。
それでもあたしらは、お互いの信仰を尊重したままこうしていっしょにいられるけれどね……イスファハーン公家の結婚ともなると、そこらの問題をゆるがせにするわけにはいかないか」
「はい。そうしなければ、帝国内部の反発を買って結婚そのものが成立しないと思います」
「なるほどね……」
ペレウスとおなじく沈んだ面持ちで老女はうなずき――ふっと肩の力を抜き、一転してにこやかにいった。
「じゃあしょうがない。坊や、あんたは唯一神の教えに入信してきな」
「ええ!?」
「だって、そうするしかどうしようもないだろ。じゃあ悩むだけ時間の無駄さ。
まあ、この問題にあたしらがあまり口をはさむわけにゃいかないんだけどね、ここはあえて仮定して話してみようじゃないか。
あんたが嬢ちゃんと結婚すれば、あんたの国のみならずヘラス全体が救われるわけだ」
「……結婚話はあくまでも交渉全体の一部だと思います。それがなくても和睦は成り立つはずです」
「そうかもしれないが、平和に向けての努力はどこから壊れるかわからないからねえ。結婚は結びつきを確固たるものにするよ。ないよりましという程度にはね。
そうそう、もう一度強調しとくよ。王族が帝国の名門イスファハーン公家と縁戚関係になれば、あんたの国ミュケナイは戦後、ヘラスの中でも飛び抜けて利権を確保するだろう。
あたしがあんたの国の人間だったら、王子一人くらいは帝国に差しだしてもいいんじゃないかとそろばん弾くね。信仰はほかの王族が守ればいいじゃないか」
「じゅうぶん口をはさんでいるじゃないですか、ユルドゥズさん」
進退窮まったペレウスは恨みがましくこぼした。ユルドゥズはすまし顔である。
「とんでもない。事実を述べただけさ。
嬢ちゃんの気持ちも国の利益も、あんたが覚悟決めるだけで八方まるく収まるって事実をね」
………………………………
………………
……
ペレウスたちが戻ったとき、ファリザードはいまだクタルムシュに懇々と説き聞かせられている最中だった。
完全に迷いが吹っ切れたわけではなかったが、ペレウスは砂を踏みしめて彼女に歩みよった。
かれの接近はわかっていたはずだが、ファリザードは顔を向けてもこなかった。
「ファリザード……」
ためらいながらかれが話しかけても、ファリザードは目を合わせず「……人族は」と低い声をだした。
「人族は、愛の対象をすぐに取り替えることができるのだとクタルムシュ卿から聞いた」
「それは、その……」
「そんなの不潔だ」
涙ぐんで子供っぽく片頬をふくらませた彼女にそっぽを向かれ、ペレウスは言葉に困って立ち尽くした。
クタルムシュとユルドゥズが、あちゃあとばかりにひたいを押さえている。お馬鹿娘、とユルドゥズがつぶやき、横の夫とひそひそ声で口論をはじめた。
「ちょっと、あんたなにを余計なこと話してんだい」「気落ちするには早いとはげましたつもりだったのだが」「相手が多感な年頃だとわかっとかなきゃだめだろ。だいたいあんたがそんなこといったらあたしが移り気だったみたいに思われるじゃないか」「ユルドゥズが移り気なのは事実ではないか。よその騎馬部族の若い族長から、おまえの美しさを称える言葉を彫った琴を贈られて『いい男から褒められるのは悪くない気分だね』などと頬を染めていただろう」「ええい、しつこいね。三十三年前の話にいつまで妬いてんだよ」
漫才のような夫婦喧嘩は放置し、ペレウスは言い返すことなくファリザードに背を向けた。
彼女の神経が昂っているなら、もうすこし後から話そうと思ったのである。
――が、マントの裾をぐっとつかまれた。
ファリザードの心細げな声が背後から聞こえた。
「怒ったのか?」ついで、「ごめん。嫌わないで、ペレウス」
愕然としたペレウスの耳に、ぐすっと鼻をすする音が届いた。
「わたし、これからおまえの好みの女になるように頑張る。気に入らないところがあったなら、教えてくれれば直す。わたしのことを誰より好きにさせてみせる。
だから、選ぶ女はわたしにして」
媚びるというよりただ必死な、涙声の懇願だった。
場が静かになっていた。
そんなこと頑張らなくていい。ペレウスはそういおうとしたが、からからになった喉は言葉を詰まらせた。
“嬢ちゃんはまだ意地を捨て切れていないけれど、この先はどんどんその深みに――”ユルドゥズの声が脳裏に響く。
(下手に出るのが苦手な子だったのに)
「ファリザード」気がつけば、中断していた言葉を再開していた。
「時間をぼくにくれないだろうか。
いまはまだ……聞いたばかりで心の整理がつかないんだ。無理に決めようとしても打算でしか決められそうにない」
マントをつかんでくるファリザードの小さな手が震えるのが感じられた。
「打算でもいい」
「ぼくがいやなんだ」
ぼくはおかしなことをいっている、とペレウスは心情を吐露しながらぼんやりと考えていた。
(王族の結婚は損得を第一に考えて行うものだと、そのくらい知っているのに)
国の利益となる結婚を父王に決められ、それが見知らぬ相手だったなら、ペレウスは文句ひとついわず王族の義務を果たすつもりで結婚しただろう。
けれど、こうまで好意を寄せてくれたファリザード相手に、打算のみで向きあうことは、なぜかどうしてもいやだったのだ。
だから、かれはきっぱりと告げた。
「ちゃんときみに気持ちが向いてから、こっちから申しこむ」
振り向いて彼女をみつめる――ファリザードはかれの言葉の意味をはかりかねて、八割の不安と二割の期待のないまざった表情になっていた。
「……わたし、希望をもって待っていていいのか?」
その問いに、ペレウスはやむなくこくんとうなずいた。
じわじわと薔薇が開くように、ファリザードの顔に深い安堵と喜びが浮かんでいく。目尻に残る涙もさながら花の露のようだった。
「選んでくれるなら、一生後悔させないから」喜色をあらわに、彼女は軽やかにペレウスの手をとり、そこで興味津々の観客ふたりに気づいてがちんと固まった。
「ああ、いまごろこっちのことを思い出さなくていいよ」気にせず続きをどうぞとユルドゥズが手ぶりで示す。
「うっ……く……」みる間にファリザードの顔に羞恥の赤が上っていく。
そのままいけば限界に達した彼女が逃げ出して幕となったろうが、事態が動いた。
四人のいた岩陰に、白羊族の男性が報告にきたのである。
「ユルドゥズ様、一・五ファルサング先で斥候が賊らしき一団を見つけました。
二十二騎で、みなファールス人軽騎兵の格好です。ジン族がひとり混じっており、布をかぶせた玉らしきものを一頭いるラバに背負わせているそうです。
周囲をひどく気にしていたそうですが、斥候は気づかれなかったと申しております」
四人全員が交互に顔を見合わせた。
(布をかぶせた玉。まちがいなくあいつだ)
ペレウスはファリザードと緊張の視線を交わした。
と、クタルムシュが喉の奥で奇妙な音を立てた――それが獰猛な笑い声だとペレウスは気づいた。
「ジオルジロスか、ほんとうに出くわすとはな。おおいによろしい。
ユルドゥズ、イスファハーン公に贈るご令嬢結婚の前祝いを調達しようか」
「ちょっと血なまぐさ過ぎやしないかねえ、凶賊の首の山ってのは。
でもいいか。あたしらは軽騎兵を始末する。ジンの古老とやらは任せたよ、クタルムシュ」
夫に合わせ、隻眼の雌狼のような笑みをユルドゥズが浮かべた。