25.ジンの愛〈上〉
ペレウス、ファリザードに呼び出され
遅まきながら彼女の気持ちに気づくこと
「坊や。向こうで嬢ちゃんが呼んでいるよ」
ペレウスがユルドゥズに告げられたのは夕方近く、馬群が大岩の陰で足をとめて休憩しているときのことだった。意図のつかめない種類の笑みを浮かべ、彼女はさらに付け加えた。
「見せたいものがあるから、音を立てないようにして静かに歩いて来いってさ」
夕食の干したアンズを咀嚼していたペレウスは、なんだろうと首をかしげながら立ち上がった。指し示されたほう、人気のない大岩の裏側にまわりこむ。
ファリザードはそこにひとりで立っていた。彼女はかれの姿を見てどうしたわけかびくりと目を見開き、それから含羞の面持ちで顔をそらした。たおやかな少女めいたそのしぐさに、ペレウスはなぜか気後れを感じた。
彼女とふたりきりという状況は獅子の峠以来である。いや、ほんとうの意味では泉以来であった。
あのときの、裸のファリザードの艶めかしい風情を思い出して、ペレウスは頬を赤らめそうになった。
(泉でのことを深く考えるのはよそう)
「見せたいものってなんだい」
声にしてたずねたかれに、ファリザードは静かにというように唇の前に指を一本たて、それからその指で離れた地面を指さした。
ペレウスはそれで気づいた。彼女が示した地面の一部分が、鮮やかな赤や黄色に染まっていた。
「蝶の……群れ?」
(すごい、何百匹いるんだろう)
音もなくファリザードがそばに寄ってきて、ささやき声でペレウスに教えた。
「地下水が地表のくぼみにほんのわずかながらしみ出しているのだ。蝶たちはその水を吸っている」
いわれてみれば、じゅうたんのように地の一部を覆う絢爛な羽の合間から、きらきらと宝石のような輝きがのぞいていた。水たまりが夕陽を反射しているのだ。
ペレウスはこの奇観にすっかり感じ入った。
「きれいだね」
「う、うん」とファリザードがうなずき、「砂漠の蝶たちは水を嗅ぎつけてやってくる。群れで砂漠を渡り、水場にこうして降り立ちながら旅をするんだ」固い口調で説明したのちに「……ちがう、こういう話をするために呼んだわけじゃない」とうめいた。
「じゃあぼくにどういう話が?」
「うわ、いきなりこっちに近寄るな! ……待って、ちょっと待って」
後じさったファリザードは胸をおさえて深呼吸をはじめた。みてて飽きない子だなあと呑気にかまえていたペレウスに、ようやく呼吸をととのえた彼女は切りだしてきた。
「イスファハーンに帰ったのちのことだ」
「うん」
「……ペレウスにはなにか、この先の目的はあるのか?」
ペレウスは面くらった。いきなりそんな質問をされるとは思わなかったのである。だがファリザードは真剣な表情である。かれは「そうだね」と考え始めた。
砂漠の賊への復讐はかならず行わなければならない。重要度は格段に下がっているが、アテーナイのセレウコスへも借りを返したい。それに死んだパウサニアスの話では、セレウコスが代表する民主政都市の少年たちに対抗すべく、王政都市の少年たちが連合を組むという。ペレウス自身が盟主にかつぎあげられるという話はさておいても、まったく関わらないわけにはいかないだろう――
(けれど、それらはぜんぶ些事だ。大切な本質はひとつだけだ)
「ヘラスを守るために尽力する」
ペレウスは口にした。故国ミュケナイと、その属する文明であるヘラスを守る。それは王族であるかれの願いであり、使節としての存在意義でもあるのだ。
ファリザードは半ば予期していたらしく、「そうか。おまえらしい答えだな」とうなずいて「具体的にはどうする」と二度目の問いを発した。
「さしあたり、わが帝国とヘラスとの間の戦争を終わらせるということになるか」
「……そうだな。このまま帝国とやりあっていたらヘラス諸都市は劣勢になるばかりだろうから」
劣勢どころではない。帝国五公家のひとつ――現在の主な敵手であるダマスカス公家ひとつとっても、ヘラスはこの先互角を保てるかどうかというところである。
「いま戦っているダマスカス公家だけじゃないな。これ以上和平締結が遅れれば、ホラーサーン公の軍までが前線に来る」
ペレウスは〈剣〉ことホラーサーン公アーディルの凍えた雰囲気を思い出して顔をしかめた。
「……ファリザード、ぼくはかつてきみのお父上から、ホラーサーン公を評する言葉を聞いたことがある。
かれはファールス帝国でもっとも偉大なジンのひとりであり、同時にもっとも狂っているひとりだと。そしてかれはヘラスを含む人間世界を征服したがっているのだと。
それならぼくは、かれのようなジンから故国を守らなきゃならない」
「……伯父御は、私欲のためにそうしたいわけではないんだ。かれは地上を管理するのは人族ではなくジン族であるべきだと信念をもっているから」
「私欲だろうがかれなりの正義だろうが同じだ。〈剣〉の意図がぼくらを征服して管理下に置くことにあるなら、それは絶対に受け入れられない」
ペレウスはぎっと奥歯をかみしめ――所在無げに黙っているファリザードに気づいて謝った。
「ごめん。きみにいったってしょうがないことだね」かれはもどかしさのこもったため息をついた。「和戦いずれにしろ、ぼくはまだ誰かに影響を与えるような力はない。偉そうなことをいっても滑稽なだけだとわかってはいるんだけど」
「そういうわけでは……」ファリザードがいいかけたが、彼女は結局それをひっこめた。彼女は少し考えたのち、ペレウスを安堵させるようなことをいった。
「ペレウス、あまり心配しなくていいと思う……伯父御が今回出陣したのは、あくまでも十字軍の根拠地アレッポを攻めるためのはずだ。
現在の上帝およびその実家であるダマスカス公家は、ヘラスとの和平案に大きく傾いているらしい」
その朗報にはっと息を呑み、蝶が逃げるかもということを忘れて「ほんと!?」とペレウスは彼女に詰め寄った。
「以前に父上から聞いたことだ」とファリザードはうなずいた。
「上帝にしろ戦の最前線にいるダマスカス公家の者たちにしろ、ヴァンダル人の『十字軍』どもは一掃するということで一致しているが、ヘラス諸都市についてはまた別の考えがあるらしい。
『征服して管理する』よりも、『服従させて交易する』ほうを選ぶおつもりとのことだ。損得だけ突き詰めて考えれば、ヘラス諸都市を残しておいたほうが帝国にとっても利益になるそうなのだ。
だから伯父御の目論見は実現しない。伯父御には、ヴァンダル人どもを最後のひとりまで殲滅することで満足してもらうことになる。
父上はそういっていた。まだ決定的ではないけれど、上帝の意は和平にあるのだと」
「そうか、それはよかっ……」
サー・ウィリアムのことが思考に引っかかり、ペレウスは喜色を消して言葉を切った。みつかれば、あの騎士もやはり殺されることになるだろうか。
黙然としたかれの様子に気づかず顔を伏せたファリザードが、「あ、あの、それで、本題なんだけれど」とにわかに口ごもった声を発した。
「本題?」顔をあげたペレウスに、急速に余裕がなくなったファリザードは自分を指してとっぴなことをいった。
「わ、わたしは薔薇の公家ことイスファハーン公家の女児だ。おまえはわたしに気安く接してくるけれど、だからといってわたしの価値を甘くみたらだめだぞ」
「……うん」甘くみるなと自己主張されてもどうすればいいかわからなかったが、ペレウスはとりあえず合わせた。こういう子だとわかっているので、気安いだのなんだのいわれてももう腹もたたない。
両手の指先をつつきあわせながら、ファリザードはへどもど何やらいい続けている。
「前に話したように、イスファハーン公家の女は本来、その時代最大の権力者や英雄、偉人に侍る存在なんだからな。
歴代のファールス上帝も、イスファハーン公家の女性を後宮に輿入れさせるよう求めた者は多かったんだぞ。伝説上の人物たちと並べられて箔がつく存在になるからな」
そうと教えられて、ペレウスはまじまじと彼女をみつめた。
「へえ。それじゃあきみもいずれ、上帝の妃になるのか」
興味と一抹の寂しさに似た情動――友達が結婚する話ってこう感じるんだ、とかれは納得しながらいった。だが、ファリザードはがばと顔を上げ、あわてた様子で否定してきた。
「な、なんでそうなる……いや、それはない。たぶんない。
現在の上帝は妃とことのほか睦まじいそうだし、見栄を張る御方でもないというから、わたしはお呼びでないと思う。
と、とにかくわたしは、いまのところだれと結婚するかは決まってないんだ」
「なんだ、そうなのか」
「そうだ、そういうことだ……わ、わたしともし結婚できたらとても幸運だということがわかったか!」
目をきつくつぶったファリザードが叫ぶようにいった。
「えっと、うん……?」
話の着地点が見えず、ペレウスはそろそろ困惑しはじめている。
もうちょっと要領を得た話をしてほしい――そう思ったとき、ファリザードの声に驚いたのであろう蝶群がとうとう地面から飛び立った。
幾百枚もの色とりどりの羽がいっせいに空気を打つ。一部の蝶は飛翔するときペレウスたちをかすめていった。その美しい虫たちは四散したのち、宙の一点でふたたび集まって舞い上がっていった。
だがペレウスは途中から蝶に目を向けられなくなっていた。
「ペレウス」
ファリザードの雰囲気が変化していた。
あの泉でみた蠱惑的な雰囲気をただよわせる彼女がそこにいた。熱慕の情をこめてうるんだ視線を真正面から受け、ペレウスはう、と後じさりかけた。
彼女はいまだためらう声で、三度目の問いを発した。
「父上がヘラス人有力者の子息たちを、使節としてイスファハーンに招聘したわけを知っているか?」
「実質上の人質だろ」ペレウスは即答し、しばしためらって、「それはしょうがないといまなら納得しているけれど」
だが、ファリザードは静かに首をふった。
「それもあるかもしれないが……父上のほんとうの目的はそこにはない。
わたしを、使節のうちのだれかと結婚させようとしていたんだ」
晴天の霹靂――あんぐりとペレウスは口をあけた。
そういえば以前、ファリザードが「この先、おまえと結婚しろといわれたってしないからな」などと口走ったことがあったが……
(あれはこういう裏の事情があったからか)
思い当たるふしに愕然としているかれの前で、ファリザードがもじもじしながら続けた。
「だからわたしはおまえたちの応接役を命じられたのだ。だれに嫁ぎたいか見定めて選べと。
父上はいった。ヘラスの次世代の指導層とわたしとの婚姻が、和平の象徴になるのだと」
一語ごとにはにかみ、顔をますます紅潮させながら、
「わたし……当初は、死んでもいやだとしか思えなかった。そのくらいならヘラスとの戦争が続いたほうが良いと。上帝が和平に傾いていると聞いたときは、伯父御を応援したくなったくらいだった。
でも……その……いまは……結婚も、そう悪くないかもって……
つまり、お、おまえとなら……」
ここにいたって、ペレウスはようやく話の流れを悟った。
その瞬間に、心臓がはねた。
(まさかこの子、ぼくのことを)
予感をそんなばかなと一蹴しかける――
彼女にみつめられてそれができなくなった。
ごくりと固唾を飲む音は彼女のものか、それとも自分のものだっただろうか? この方面には敏感とはいえないかれにすらも、ファリザードの心はもう明らかだった。
彼女は勇気をしぼりだそうとするかのようにみずからの服の胸元をつかみ、
「ペレウス、前にいったことは撤回する……結婚しろといわれたら、お、応じなくも、ない……
おまえにであれば、もらわれてやってもいいっ!」
しどろもどろながらファリザードはそういいきった。
そのときの愛らしくも真っ赤になった表情に、ペレウスは思考も動きも停止しかけた。
くすぐったく甘く、赤く熱い困惑が、思考をぐらぐら揺さぶる。
混乱のうちになんとか理性の手綱をひきしめようと試み、手を挙げて思わずいってしまっていた。
「でもぼく、好きなひとがいるんだけど」
心臓を刺された瞬間のようにファリザードが固まった。
場が切り替わったように、死のような沈黙が訪れる。
残っていた一匹の蝶を、近寄ったトカゲがぱくりとくわえて飲みこんだ。
依頼して描いていただいたファリザードのキャラデザ絵を第一話冒頭に貼りつけました。