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24.クタルムシュとユルドゥズ

ジンと人の夫婦、ファリザードの護衛となり

ペレウス、魔法の理をかれらに聞かされること

 獅子の峠で助けられた直後、騎馬部族の野営地にペレウスとファリザードは連れてこられた。

 族長のものである大きめの移動式天幕に入り、床にじかに座らされる。らくだの乳のヨーグルトとレモン水という軽食を与えられる。

 隻眼の老女ユルドゥズは、そこで経緯をペレウスにざっと説明したのである。


「あたしらは部族ぐるみで傭兵稼業をやっているのさ。

 この谷の出口近くで夜営してたらそこの嬢ちゃんが駆けこんできて、雇われたってわけだよ」


 彼女の名乗りに、ペレウスはうさんくさげに眉をひそめた。

「……傭兵?」その一言で警戒心が増大したのである。ジオルジロス率いる砂漠の賊たちもみずからを傭兵と名乗っていたことを、かれは覚えていた。

 隻眼の老女はペレウスの目つきに失笑した。


「あんたが傭兵ときいてなにを連想しているのかはわかるさ。じっさいひどいやつらが多いからね。

 だがあたしら白羊(アク・コユンル)族を、すぐ盗賊に化ける寄せ集めの狂犬どもと一緒にしてほしくないね。

 あたしらは戦をしていないときは隊商の護衛をやったり、あたしら自身が隊商になることで口を糊しているよ」


「あ、すみません、これは失礼……」ペレウスは顔を赤くした。命の恩人相手にいましがたの態度はない。かれはきちんとひざをついて向きなおった。


「お礼をいわせてください。ぼくはヘラスの都市ミュケナイのペレウスです」


「ああ、いやいや、お礼なんていいんだよ」


「そういうわけには――」


「用心棒代十万ディーナールもらえるそうだからね。笑顔と弓矢はいくらでも提供するよ」


「なにい!?」ペレウスは礼儀をかなぐり捨てて目を剥いた。十万ディーナールといえば、砂漠の賊がファリザードの身代金で要求したのと同じ額である。それはけっきょく油断させるための罠の一環だったのだが。

 いずれにしろペレウスのなかで白羊族への不信感はたちまち急騰した。


「なんだってそんな額になっているんです!?」


「そこの嬢ちゃんに値段交渉をもちかけたら『いくらだって払う』と快諾をいただいたんでね」


 指さされたファリザードがなんとも微妙な顔になった。抗議したいが大きな声で主張ができないといったもどかしげな表情。彼女はごにょごにょと不満げにいいつのりはじめた。


「あれは快諾したという状況ではないだろう。交渉している暇がなかったから、やむなくこっちは……」


「おうおう、助けてやったのに、口約束だからとばっくれる気満々かい。イスファハーン公家で教える帝王学には信義という項目は含まれていないようだね」


「は、払わないとはいってないだろ!?」


 ファリザードが思わずといった調子で叫んだ。

 なんでこの子はときどきこんなにちょろいんだろう、とペレウスは横で頭痛を覚えた。だが、それまで黙っていたクタルムシュというジン族の男が苦笑とともに場に割って入ってきた。


「ユルドゥズ、子供をあまりからかうものではない。

 まさか本気でイスファハーン公家から十万ディーナールをむしりとる気でもあるまい」


 夫の言葉にユルドゥズは静止し、真顔で「ん?」とフクロウのように首をかしげた。

 笑顔でそれを無視したクタルムシュは、「ペレウス君だったか」と少年へ話しかけてきた。


「……はい」


「その子は敵味方判然とせぬわれわれの夜営にとびこんできた。そしてユルドゥズがはったりで出した金額を聞いてもためらいもせず、とにかく早かれと峠へわれわれをひっぱっていったのだよ。

 だれのためだと思うかね?」


 そのジンの物柔らかな視線は、しかしはっきりとあることを伝えてペレウスの目を射ぬいてきた。

 はたと悟り、ペレウスは慙愧の念にとらわれた。

 かれはファリザードへと向きなおり、その手をとった。突然の接触にびっくりしている彼女に確かめる。


「十万ディーナールの額を承諾したのはぼくのためだね」


「あ……う……し、しかたがなかったからな……」


 うつむきながらそういった彼女に「ありがとう」と誠意をこめてかれは礼を告げようとした。

 だが告げることはできなかった。

 頬を染めてうつむいたファリザードが、かれの右手の傷に目を止めたのである。血のにおいで獅子を誘うために樹上でみずからつけた傷を。


「刀で切った傷……」


 そうつぶやいた彼女は無表情になっていた。ペレウスはぎくりとして手を引こうとしたが、今度は彼女がかれの手をつかんで離そうとしなかった。


「……ペレウス。自分でやったろう、この傷」


 ファリザードの声は不自然に平坦だったが、瞳の奥に感情の波が荒れていた。


「やっぱりわたしを逃がすために残ったんだな」


「違う。その傷は不注意で切ったんだ」考えるより先に嘘がペレウスの口をついて出ていた。だがその否定をかけらも信じない様子で、ファリザードはかれの右手を両手のひらで包むように握った。

 それから柳眉をはねあげてペレウスをにらんできた。


「今度やったら、許さない」


「だから違うといってるだろ……」


 ペレウスは嘘を重ねたが、その声は尻すぼみに小さくなっていった。

 ひるみを覚えたのは、彼女の怒りの表情そのものではなく、その裏にあるものだった。

 こちらをみつめる瞳、そこに溜まった涙、声の奥底にこもる哀切な懇願の響き――そこから伝わる真摯な情に気圧されたのである。

 右手を大切なもののように胸前で抱かれているのが、なんともこそばゆい。


「互いに礼くらいいえばよかろうに……初々し……だねえ」


「しかたあるまい、ユルドゥズ。こういうときは胸がいっぱいになって……ものだ。わたしにも……のような覚えがある」


「なんだ、もしかしてあんた嬢ちゃんを昔の自分に重ね……のかい」


「同病相哀れんだら悪いかね? おまえもなかなか……くれないやつだったしな」


「あたしゃ簡単に落とされてたまるかと肩肘はってたから……気づいてもいなさそうな坊やといっしょにしないどくれ」


 背後の夫婦がなにやらひそひそとささやき交わしている。

 かれの耳にはところどころが聞こえずよくわからなかったが、ファリザードは真っ赤になってペレウスの手を離し、かれらへと怒鳴った。


「め、夫婦漫才はどこか別のところでやれ!」


「いやいや、あたしたちの天幕で雰囲気出しはじめたのはあんたらだよ、嬢ちゃん」


 ユルドゥズが平然と返す。ペレウスはとっさにいい返せず歯ぎしりしているファリザードの袖をひいた。


「ファリザード、ぼくが気づいてもいなさそうって聞こえたんだけれど、何のことだろうか」


「気にする必要はない! 何でもない! それよりっ」


 ぶんぶん首をふってファリザードが無理やり話題を軌道修正した。彼女は深呼吸し、いくぶんか冷静になった表情でユルドゥズをみすえた。


「白羊族は傭兵だといったな。

 では、わたしの護衛としてあらためておまえたちを雇おう。わたしたちを無事にイスファハーンに送り届けてもらいたい」


   ●   ●   ●   ●   ●


 五日後――

 砂塵をまきあげて平原を進む百騎ほどの一団があった。

 そのなかにペレウスとファリザードは混じっていた。周囲の騎馬隊は、むろん白羊族である。


 獅子の谷でかれらに助けられてより数日。目的地であった村にほんの三日逗留して心身を休めたのち、早期にイスファハーンへと帰還することを決めたのである。

 当初の計画では、村でじっくり隊商を待つか使いを出して護衛隊を編成するはずだった。砂漠の賊に備える必要があったためだが、白羊族の武力をひきつづき借りたことにより、問題は解消されたのである。


「ジンの魔法は大別すると二種に分かれる。肌の呪印によるものか、魔具によるものかだ」


 馬上のクタルムシュの講釈に、かれと馬を並べたペレウスは一心に耳をかたむけている。

 この数日で、ペレウスはクタルムシュとユルドゥズの夫婦に完全に信を置いていた。ことにクタルムシュには体術や役立つ知識を教わったことで、親しみと敬意を感じはじめている。かれはイスファハーン公ムラードと同じく温和な性格のジンであるうえ、サー・ウィリアムに似て面倒見が良かった。


「まず肌への呪印を説明しよう。

 通常、それは生まれつきそなわっていて時が満ちれば浮かんでくるものだ。ただし浮かぶ時期や浮かぶ種類には個人差があり、けっして一様ではない。

 とはいえ、種類についてはいくつかの定型がある。戦闘に役立つ呪印には“変化(へんげ)”“剛力(ごうりき)”“隠行(おんぎょう)”などがあるな」


 この新しい情報に、ペレウスはいたく惹きつけられた。


「剛力……ですか」


(たぶん、名のままの能力だな)


 失った耳のあとを撫でる。

 かれの左耳は〈剣〉ことホラーサーン公アーディルの命令で、妖士(イフリート)イルバルスに引きちぎられたのだ。紙でも破りとるようなたやすさで。

 あのときの苦痛と屈辱を思いだし、ペレウスはわずかの間だけうつむいた。さいわいクタルムシュに不審に思われることはなく、かれの話は続いた。


「また、すべてのジンの女性の持つ呪印として子宮錠(ラヘム・コフル)の存在がある。これは封印紋の一種といえる。

 封印紋は、ジンが血をもちいて他者や器物へ刻むことができる呪印だ。能力や機能を封じる」


 封印紋の話題になったとき、ペレウスと反対側でクタルムシュに並んでいるユルドゥズがぴたっと鼻歌をやめた。それだけでなく、近くにいたほかの白羊族の面々もある者は表情を消し、ある者はぷっと口中のアンズの種を吐き、それぞれがなんらかの反応を示した。

 それを怪訝におもったペレウスだったが、深く考えるまえにクタルムシュがたずねてきた。


「ところで、ファリザード殿からはこうしたことを聞いていなかったのかね?」


「それが、ファリザードもあまりくわしくは知らないようで」


「悪かったな、役立たずで」黎明号にまたがって斜め前を闊歩していたファリザードがふりむき、むうっと膨れた。「父上はわたしを赤ん坊扱いして、大人になって呪印が浮くころに教えてやるなんていっていたんだもの」


 ペレウスはじろっと彼女に一瞥をくれた。


「いや、それだけじゃない。きみ、知っていることもぼくには隠しているだろう。

 肌への呪印で多少の知識はあったんだろ、子宮錠とやらのことは知っていたんだから」


「だ、だからそれは、未婚の娘が話すことじゃないからと以前にいったろっ!」


 いまにも黎明号を走らせて逃げ出しそうになったファリザードに、ユルドゥズが「変にいかがわしいものみたいにいいなさんな」と苦笑いした。


「単になかなか身ごもらない効果があるってだけだろ。

 ……ああ、ひょっとして、その効果のせいで他種族より子作りをかなり頑張らなきゃならないことを恥ずかしがってんのかい」


 ファリザードが逃げた。

 騎馬部族の馬群にまぎれこもうとする彼女の背を見送ってユルドゥズがけらけら笑う。その後ろで、呆れた視線を妻に注ぐクタルムシュと、さすがに赤くなったペレウスが沈黙している。

 ふたりの視線に気づいたユルドゥズが、ごまかすようにペレウスにむけてつけくわえた。


「ジン族が淫乱だと陰口たたかれるのはそういう事情があるからだそうでね」


「はあ、その、それではクタルムシュさん、魔具のほうについても教えてください」


 ペレウスの督促に、クタルムシュはうなずいた。


「魔具のほうはダマスカス鋼が要となるのだ。通常の材質の器物には封印紋くらいしか刻めない。

 だが、ダマスカス鋼であれば、魔術紋様を刻印することによって、特殊な機能を付与することができるのだ。

 そうだな、なにか一例を――」


「あっ……ひとつならすでに例を知っています」


 ジオルジロスの使った“悪思の扉”のことを思いだし、ペレウスは青ざめた。「それは黒い玉で、空間をべつの空間とつなぐ力を持っていました」黒雲のようにあの恐怖がよみがえるのを感じながらかれはクタルムシュをみあげた。


「あの……聞いてください」


………………………………

………………

……


「ジオルジロスか、その名は知っている。あの邪教徒、まだ生きていたのか。とうに唯一神に仕えるジンに殺されたと思っていたのに」


 詳細を聞いたクタルムシュが嫌悪感をこめて古老の名を吐き捨てた。ターバンの下の涼しげな目鼻立ちがしかめられる。


「災難だったな、あの性悪な古老に出会うとは。

 よかろう、イスファハーンへの道中でもしジオルジロスの一党と出会ったら、わたしがあれに引導を渡そう」


 あまりに簡単なそのいいように、ペレウスは頼もしさより先に危惧の念を抱いてつい口にしていた。


「でも……あの賊どもは一筋縄ではいきません。ヴァンダル人の重騎兵とファールス人の軽騎兵が連携して攻撃してきたんです。お話しした“扉”の魔法だってあるし……

 とにかく気をつけてください」


 が、おなじく馬に乗った老女ユルドゥズが、はんと鼻を鳴らした。


「かつては大陸に名をとどろかせていたうちの部族が、消滅寸前とはいえだいぶ舐められたものだねえ。

 坊や、イスファハーン領の弱っちい兵とあたしらを同列に扱うんじゃない。

 話を聞いてりゃその殺された兵たち、斥候の役目もまともにこなせてなかったんじゃないか。死んだのは半ば自業自得というもんだ」


「……ユルドゥズ」


 いつのまにかそばに戻ってきていたファリザード――イスファハーン公家の娘――が、短くとがめる声をだした。死んだ兵たちを悪くいわれたことで、彼女はきつく眉根を寄せている。

 だが騎馬部族の女族長は、ファリザードの顔が険しくなったことを意に介さず、ずけずけとつづけた。


「おっと、ごめんよ嬢ちゃん。でもおたくの兵がなってなかったのは事実さ。

 通常は最低でも一ファルサング(約五キロメートル)は斥候が先行して念入りに周辺を調べるものさ。そこでもし異常が報告されれば隊を止めるのが常識だよ」


「この隊だって先を急ぐばかりで、そんなひんぱんに斥候を出しているようには見えないぞ」


「だから舐めすぎだってのさ。現在は二人一組で六組十二人、進行しながら側面や後方にまで送り出して警戒させているよ」


 ファリザードのいちゃもんをユルドゥズは一蹴した。


「一定時間でふたりのうちひとりを交代させて、この本隊にいる予備と入れ代えている。

 そしてうちの連中は全員が斥候予備軍さ。岩や砂丘の陰をつたって、味方のあんたでさえ気付いてないくらいさりげなく、忍びやかに馬を進めることができる。敵がこちらの存在を知ってよほど警戒していないかぎり、接近を気づかれやしないさ。ましてやこっちが敵に奇襲をくらうことはありえない。

 わかったかい、白羊族より優れた軽騎兵なんて地上に存在しないよ。総勢五十名ばかりの賊なんて敵じゃないね」


 豪語したユルドゥズは、「それにね」といってジン族の夫をあごでしめした。


「クタルムシュが“隠行(おんぎょう)”をすでに本隊にかけてある。さきほどこの人が語っていた肌の呪印による力のひとつさ。

 上空の鳥でさえ、よほど間近に来ないかぎりあたしらには気づかないよ」


 実感がわかないがそういうものなのかとペレウスは素直に感服したが、ファリザードは驚愕の面持ちになった。


「“隠行”の力を部隊丸ごとに及ぼしているだって?

 そんなことができるのか? 父上の兵士にこっそり訊いたときは、個人で使う魔法だと聞かされたぞ。せいぜい身の回りの数人を隠す程度の……」


「クタルムシュはこの能力がけたはずれに強いのさ。

 隠行という域を超えて、“掩蔽(えんぺい)”の領域にまで昇華させたといわれるジンはこの人だけだよ」


「いや、待て。にわかには信じがたいんだけれど。

 そんなことができるならクタルムシュ卿は上帝の近衛隊にだって入れるはずだぞ」


「その近衛隊の長だったのさ。それを大過なくつとめあげたのち、十七人の太守(アミール)のひとりに抜擢されたんだよ、この人は」


「うそ……」息をのんだファリザードに、ユルドゥズは感情のはかりがたい平坦な声で答えた。


「太守として派遣された任地で醜聞を起こして、官職をなげうって野に下ったけどね」


「醜聞?」横で聞いていたペレウスは、そこに立ち入るべきではないと思いながらもつい訊いてしまっていた。

 当のクタルムシュが明るく笑った。


「なに、人族の娘に求婚してしまったというだけのことさ」


「ふん、極めつけのばかな男だよ。二百年かけての地道な栄達を、それで棒に振りやがった」


 ユルドゥズの声にかすかに当時の苦衷の残滓がにじみでた。複雑な想いをそこに感じとって、ペレウスたちはしんとした――が、クタルムシュのどこまでも温かみのある笑い声がそこにかぶさってきた。


「わが伴侶はいまだに惜しんでくれるが、これほどわたしたちの心情が乖離している件はそうそうないのだよ。

 太守であったときのわたしが何度いいよってもユルドゥズはつれない態度であった。それが、わたしが太守の地位を捨てたと告げた日のうちに求婚を受けてくれたのだ。

 それで、そのときのわたしは踊り出す寸前だったのだが、ユルドゥズときたら対照的に悲壮な顔でね」


 噛み付くような勢いでユルドゥズが突っこんだ。


「笑える要素がどこにある!? あのとき浮かれてたのはあんたひとりだけだ。

 よーく周囲の顔を思いだしな。うちの連中ですらどん引きしていただろ。そのうえ、怒り狂ったあんたの一族が攻めてきそうだったので、みんなあわてて遠くの地への逃げ支度にとりかっていただろうが」


「すまない。喜びのあまり周囲の顔はよく認識できていなかった。

 ともかく太守を捨てたことに対する痛恨の念は、もっと早く捨てておけばそれだけ早く結ばれていたのにということだけだな。

 しかし任地におもむかねばユルドゥズに出会えなかったのだから、その意味で太守となったのは無駄ではなかった」


「へーえ。帝都の風観やら上帝のご尊顔やら、折にふれてあれだけ懐かしげにかつての勤務風景を語っていたくせに。

 それでいながら失った栄光の日々に思い入れがないとでもいう気かい」


 なにかの言葉を誘うようにぷいとユルドゥズがそっぽを向いた。クタルムシュが真面目な顔になって告げる。


「懐かしくはあるが戻りたいとは思っていない。

 たしかに帝都バグダードの“大円城”の大広間において、上帝みずからの手で太守に任じられたときの喜びは大きかった。そのときはそれがわたしの生涯でもっとも晴れがましい日だと思えたよ。

 ただしその喜びは、革の天幕のなかでおまえの夫の身分を手に入れた日に上書きされたのだよ」


 かれの台詞をそばで聞かされるペレウスおよびファリザードは、さっきから熱い顔をうつむけ気味にしている。

 照れ隠しなのかわりと本気の辟易なのか、うんざりした表情のユルドゥズがふたりに向けてぼやいた。


「……あんたら、しっかり聞いたね? この四十年、この馬鹿は毎日こういうこっぱずかしい調子だ。

 口説かれるようになったころはそりゃもう全身がむずかゆくて耐えきれなかったね。求婚に応じてやればこの歯の浮くような台詞が止むかと思ったが……けっきょく、こいつが恥を知る前にあたしのほうが慣れちまったよ」


「……ごちそうさま……」


 ほかにいいようもなく、ふたりは小さな声でかろうじて答えた。


村に滞在していたときの話が「EX2.手袋」として目次の下のほうにあります。

なるべく時系列どおりに読みたい方はそちらもどうぞ。

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