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23.獅子の峠で

ペレウス、獅子満ちる谷間にて腹をくくり

「理にかなった道」を選ぶこと

「わたしの誤算だ。わたしは大ばかだ。

獅子(シール)の泉〉のある道を避けただけで獣については安心し、あとは賊のことしか心配しなかった」


 ペレウスを自分の後ろに乗せ、岩だらけの谷間に黎明号を走らせるファリザードは、ずっとこの調子でみずからを責めていた。


「賊どもは、獅子の泉のほうでわたしたちを探したに違いない。すみかを荒らされた獅子たちはそれでこっちに来たんだ」


「ライオンたちは、人間がいなくなるまで獅子の泉から一時退散するだけという話じゃなかったのか?」


 ペレウスの疑問――彼女をなじる意図でいったわけではなかったが、ファリザードは悔いても及ばぬとばかりの苦渋にまみれた声で答えた。


「……あの賊のやり方だ、ペレウス。泉に塩をまいて妖しい力の出口にしていたろう。

 きっと獅子の泉でもそれをしたんだ。飲めないオアシスには獣は寄りつかない。ほかの泉へと移動するんだ。

 そうなることに考えが至るべきだったのに! においに敏感ならくだに、もっと周辺をかぎまわらせておけば……」


「考えたって、この場所を通るほかにどうしようもなかっただろ。地形的にさっきの泉は迂回できなかったんだから」


 ペレウスは彼女をなだめた。

 谷の両側には、さながら両翼のように山脈がそびえている。赤い土と大岩ばかりの不毛の山地であり、本格的に迂回しようとすれば日数がかかるうえ、いまは賊がいるであろう〈獅子の泉〉にまで近づいてしまうという。また、水なしで山地を越えようとするのがいかに愚行かはいうまでもない。泉のあるこの峠道しか選べなかったのだ。


「いまは手綱に集中しなよ。黎明が足に怪我でもして動けなくなったら困る」


 山間にひとすじつけられた峠道といったほうがいいこの谷間の道は、曲がりくねって岩が多く、まちがっても歩きやすい道ではない。そんなところでふたり乗りの馬を走らせるファリザードの馬術はたいしたものだが、限界はある。ゆるやかな勾配とはいえ、足元の荒れた坂道をかけのぼる黎明号の息は徐々に上がりつつあった。

 まだ下り坂にもなっていないのに荒い馬の呼吸に、懸念と胸の痛みがつのった。


(ぼくを乗せていることが黎明の負担になっている。

 ぼくの体重は、ジン族のファリザードより倍以上も重いはずだ)


 そのことをなるべく意識すまいとしながらも、ペレウスはファリザードに提案した。


「馬を壊してしまっては元も子もない。すこし速度を落としてはどうだろう」


 が、ファリザードは「いまは無理をさせても、一刻もはやくこの谷間を抜けなきゃだめだ」ときっぱりいった。


「獅子の群れがいったいどのくらいこの谷に逃げてきたのか予想もつかない。らくだを喰い殺したあの群れだけならいいが、あれ以上いたらまずい。

 ぐずぐずしていれば日が落ちる。その前になんとしても峠を出なければ……

 移動してきたばかりの獅子たちが、白昼から狩りを行うほど飢えているなら、夜にはもっとひどくなる!」


 夜――本格的な狩りの時間。

 ペレウスも獅子の習性をある程度知ってはいた。古代にはヘラスにも獅子が生息していたため、文献が残っているのだ。少年はかつて、生まれ育ったミュケナイの王宮で、百獣の王についての記述を目を輝かせて読みふけったのである。幼いころあこがれていた動物なのだった。

 その野生の獅子に今日、邂逅をはたしたわけだが、自分が狩られかねない状況では童心にかえるどころではない。


(そういえば、たしか文献には「同じ群れをつくる獣でも、犬や狼とライオンでは好む狩りの手法が違う」と書いていたような)


 狼は何日かけても執拗に相手を追いつめるやり方をすることが多いが、獅子は……


「ファリザード、大岩や地面のくぼみや頭上にもののあるところにはなるべく近寄らないで」


 注意をうながしてから、ペレウスは馬鹿なことをいったと気がついた。ところによっては幅が四ガズもない細い谷だ。危険な場所を避けようと思って避けられるものではない。

 ファリザードがかれをちらとふりむいた。


「獅子がひそんでいるかもしれないから警戒しろといいたいのだろう? あいつらは猫と同じように身を伏せて獲物に忍び寄るから。でもこんな道では」


 ――そのあとに彼女が続けたかった言葉はペレウスが気がついたことと同じであったろう。

 こんな狭い道では、どのみち避けられなかったのだ。

 一頭の獅子がいきなり、前方に生えていた山ぶどうの木陰からとびだした。飛鳥の影のように低い姿勢で地を疾駆し、そいつは牙を剥いてみるまに距離をつめてきた。


 ファリザードが息をのみ、恐懼にとらわれた黎明が急停止してさおだちになった。鞍の後ろに乗っていたペレウスはぐらりと揺れて身が浮くのを感じた……宙に投げだされていた。


「ペレウス!」


 自分の名を呼ぶ彼女の叫びがいやに明瞭に聞こえた瞬間、肩から大地にたたきつけられた。

 サー・ウィリアムに投げられた肉体の記憶がとっさに受身を取らせ、さいわいにして頭や腰を強く打つことはなかった――が、体の下になった右手の小指と薬指に激痛が走った。


(起きなきゃ――)


 痛がっている暇はないと身を起こしたとき、獅子がかれへとおどりかかってきた。


 だが爪がペレウスにとどく寸前に、その獅子の延髄を飛電のごとく走った矢がつらぬいた。声もあげず兎のようにとびはね、地面に落ちたときには獅子は絶命している。

 まばたきのうちに手綱をてばなして弓へと持ち替え、ファリザードが放ったのだった。


 あざやかな弓術を示しながら、彼女の呼吸は動揺によって黎明と同じくらいに乱れていた。肌にべっとりと冷や汗をかきながら、彼女は早口にうながした。


「はやく乗って!」


 いわれるまま鞍に手を置こうとして、再度指に走った痛みにペレウスは思わず「あっ」と声をあげた。馬に乗りあがるのに失敗し、反射的に痛む指をつかむ。

 愕然とした顔になったファリザードがたずねてくる。


「手が痛むのか? まさか骨が?」


 ペレウスはじんじん火がついたように痛む指をみつめた。胸に引け目と情けなさがこみあげた。


(なんてことだ、こんなときに手負いになってしまった。この右手、刀を全力で振るえるだろうか。

 獅子がそばに来たら七彩をとって斬りつけるくらいが、ぼくのできることだと思いさだめていたのに――)


 せめてぼくの得意な左手使いの円盾があれば。……いや、盾の重さのぶんだけ黎明が疲れてしまうか、とそのような思考をぐるぐる脳裏にめぐらせながら、ペレウスはファリザードに答えた。


「突き指だ、骨は折れてないと思う――まだいる!」


 岩角を蹴り、断崖を跳躍しながら、一頭の獅子がファリザードの後ろの崖をかけおりてきていた。

 かれの背後の崖からも一頭の咆哮がせまり、ペレウスは総毛立った。(はさみうちされた)と頭に浮かんだ。


 ファリザードは、こんどはあわてなかった。猫じみた手の速さで彼女は矢をつがえた弓を上げるやペレウスの背後に放った。


 ついで吊り革で背負った矢筒から抜く手もみせず矢を抜く――つぎの一撃がすさまじかった。

 彼女は馬首をめぐらせるのではなく、自分の腰を柔軟にねじって、完全な真後ろへと射撃を発したのだ。黎明の背後に迫っていた雄獅子の赤い口に矢が吸いこまれた。

 苦痛の猛りをあげてとびはね、転がり、獅子はのど深く刺さった矢の矢羽を前足でおさえて抜こうともがいた。それから徐々に動きを弱めていった。


 ペレウスは肩ごしに自分の背後をみた。急所を一撃で射ぬかれた牝の獅子が、力の抜けた体を崖のなかばに横たえてずるずる滑り落ちてきていた。


(すごい。戦場ではヘラス・ヴァンダル連合軍は、さんざん帝国の騎馬弓術に苦しめられたというけど……)


 ことに真後ろへ放った一撃は、“ファールス人の背面騎射”として名高い秘技であろう。

 ペレウスが落馬していたのはこうなるとよかった。あの技は後ろに誰かがいては使えなかっただろうから。

 そこまで考えたとき、ペレウスはうすうすわかっていたことをはっきり悟った。


(ぼくは邪魔になるだけだ)


 弓術、馬術、刀術、すべてファリザードのほうがかれよりずっと巧者である。


(それなら……)


 下馬したファリザードが、七彩を抜いて獅子三頭にとどめをさして回っていた。矢はちょうど三本しかなかったのである。

 雄獅子ののどに手をつっこんで最後の矢を回収すると、彼女はペレウスへむけて手短にいった。


「鞍にのぼるんだ。わたしが下から押しあげるから」


「いや、いい」


 ペレウスは彼女に背をむけ、獅子のとびでてきた山ぶどうの木へと近寄った。それは歳経た大木で、こずえは高く、枝が幾本も張りだしていた。


(やるべきことはこれだ)


 かれは枝に手をかけ、息を吸ってぐっと力をこめ、身を引き上げた。足を太い枝にかけてつぎの枝に手をのばす。

 右手の薬指と小指が猛烈に痛んだ……が、手をのばすたびかならず訪れるとわかっている痛覚を覚悟するなら、右手も七割程度の力を使えるようであった。


「なんだ? ペレウス、なにをやってる?」


 とまどいの声を背に、脂汗をにじませてじりじり上がっていった。指は腫れはじめていたが、ペレウスは奥歯が砕けそうなほどかみしめて耐えた。

 とうとう体を木のてっぺん近くへとおしあげたとき、ファリザードの心細げな声が下から届いた。


「高いところからみたって地形が複雑だから、獅子がいるかどうかははっきりわからないと思うぞ……怪我した手では危ないから降りてこい」


 息を切らせながらペレウスは葉のあいだから顔をだし、おろおろしている彼女を、笑いもせず感慨をこめてみおろした。この子のこんな表情、前には決してみられなかったな、と思った。


「ぼくは残る」


 告げると、ファリザードの瞳が大きくみひらかれた。かれのいった意味をはかりかねるように、彼女は「なんだって?」といぶかしげな声を出した。ペレウスは手早く説明した。


「ぼくがいなければ黎明の負担は軽くなる。きみはいそいで峠を走りぬけろ。そのあと、村から助けをよこしてくれ」


「ばか!」かれの真意を理解したとたん、激高するようにファリザードは叫んだ。「ふざけてる場合か! 下りてこいっ、はやく後ろに乗れ!」


 主の動転が伝わったように、黎明が足踏みをつづけていた。もの狂おしげにかつかつと馬蹄が鳴っていた。


「ふざけてなどいないよ」噛んで含めるようにペレウスはしっかりいい切った。


「馬術弓術に長けているのも、道を知っているのもきみだ。ここから逃げるとき、ぼくがいなきゃならない必要はどう考えてもない」


「必要!? そんなことどうだって……!」


「ぼくはジン族のきみよりずっと重い。無理にふたり乗りでいけば、さっきみたいに黎明の動きが鈍る。獣の襲撃があった場合に機敏に対応できず、もろとも死ぬ確率が高くなるだけだ。

 きみと黎明がこの峠を突破し、ぼくは助けをこの樹上で待つ。そのほうが合理的だ」


 だが、彼女は納得せず声を上ずらせた。


「ここから村まで本来なら二日の道のりだぞ! 馬を飛ばしに飛ばしても丸一日かかる、戻ってくるまで往復で二日だ! そのあいだこの谷間にいるつもりか!」ついで、約束をたがえる不実を責める台詞。「昨夜、わたしとおまえとでイスファハーンに帰ろうって話したじゃないか!」


「……帰れるよ。あのとき、きみはこうもいったろ。『少しでも、生の可能性が高いほうに賭ける』って。

 このやり方が、ふたりで生き延びられる可能性がもっとも高いんだよ、ファリザード。

 こっちの心配は無用だ。きみがやらなきゃならない峠の突破にくらべれば、何日か木の上で待つほうがずっと簡単なはずだ。

 行くんだ、ほら」


 こんどこそ、ペレウスはファリザードが納得しただろうと思った。彼女が黎明に乗ってかけ出すのを見送るつもりで待つ。

 ファリザードは――動くことなくとどまっていた。その瞳は琥珀の鏡のように呆然とかれを見つめていた。失うことへの恐怖がそこにありありと浮かんでいた。

 怒鳴り声から一転し、小琴の弦が細かく震えるようなかぼそい声で、彼女は拒んだ。


「だめ……いやだ」


「……行けったら」


「こんなのはいやだ……いっしょに行こうよ、ペレウス」


 手を差し伸べてくる彼女に、業を煮やしてペレウスは怒鳴った。


「行けよ、早く!」


………………………………

………………

……


 あのわからずやめ、とペレウスは木の上で腹を立てていた。

 鞘におさまった〈七彩〉(ハフト・ラング)がその胸に抱えられている。一度登ってきたファリザードが、その名刀をかれにわたしていったのだ。木のそばを離れようとしない彼女を怒鳴りつけ、なだめすかし、情理を尽くしてどうにか説き伏せた直後のことだった。


(刀があれば万一ライオンに接近されたとき役立ったろうに。弓矢は三本しかなかったはずだろ)


 だが受け取らざるを得なかった。そうしなければ先に行かないと彼女がごねたのだ。

 このどうしようもない強情っ張り、と途中からファリザードは泣いていた。


(強情なのはきみじゃないか。

 わかっているのか。きみが逃げられなければ、どっちみちふたりとも死ぬんだぞ)


 内心でひとしきり彼女を責めたのち、ペレウスは蒼白な顔をうつむけた。


「……ファリザードに文句をいえた義理じゃないんだけどな、ほんとうは」


 ペレウスは彼女に嘘をついたのだから。

 かれが優先したのは、最大限に追求したのは、「ふたりで生き延びる」ことではない。

 ファリザードが生き延びることだ。


 七彩の鞘をはらい、ペレウスは右手の指の腫れた箇所に刃を当ててかるく引いた。


()……」


 ぽたぽたと血のしたたる指をだらんと下げる。血は葉に落ち、葉から木の根元に落ちていった。


(血のにおいをただよわせていよう。そうすれば、ファリザードを追いかけるかもしれなかった獅子をすこしでもこの場にとどめられるはずだ)


 それこそが残るほんとうの意味だった。


「こうすることが正解なんだ、ヘラスのためには」


 ファリザードを死なせるわけにはいかない。

 ファールス帝国内における和平派の重鎮イスファハーン公の、その最愛の娘――彼女を失えば、イスファハーン公は悲嘆にくれるだろう。ことによると和平交渉を進める意気を失うかもしれない。


 ――だがもしぼくが死んでもファリザードさえ生き延びていたならば、イスファハーン公はきっと負い目を感じ、最後までヘラスのために尽力してくれるだろう。


(ぼくの命はたかだかひとつの命というだけだ、もし失われてもそれほど影響はない。父上だってまだ若いんだから、跡継ぎはいくらでも作れる。

 けれどファリザードの命は、ヘラスとファールス帝国の平和に関わるんだ)


「だからこれでよかったんだ、後悔なんかするものか」


 ぶつぶつとつぶやいたのち、ペレウスは細いあごを強く食いしばった。そうでもしなければ、ひっきりなしの震えはどんどん強くなるばかりだった。

 ちらと横目でみおろす。

 眼下の地面で、やってきた獅子が二頭ばかり、首をかしげてかれをじっとみあげていた。好奇心の強そうな、たてがみも生えそろわないまだ若い雄二頭で、尻尾の先がゆるやかに左右にうねっていた。


………………………………

………………

……


 強い好奇心。群れる習性。

 骨でも砕く頑丈なあご。固い木の皮に深々とひっかき傷を残す爪。

 四ガズ(メートル)もの信じがたい跳躍能力。

 夜になっているとはいえ月が煌々と明るかったため、ペレウスはすべてを間近でつぶさにみることができた。


 とりわけかれの神経を圧迫するのは、その獣の木登りの能力だった。体重が重いため山猫や豹には及ばないが、人よりはうまいのだ。


「寄るな」


 なるべく高い枝に横たわり、右腕をのばして、七彩の切っ先を可能なかぎり下に向ける――みしみし枝をたわませながら登ってきた一頭の鼻先に、それを突きつけた。

 その牝の獅子は獰猛なうなりをあげ、前足の一本をあげて七彩を払おうとした。ペレウスにとって幸いにも彼女が叩いたのは刃のほうであったため、鋭利きわまりないダマスカス鋼は獣の足裏を傷つけることになった。


 牝獅子が怒りと苦痛の声をあげてとびおりたのちも、獣たちは木の下から去る様子をまったくみせず、底光りする瞳をペレウスに向けてそこらを徘徊している。その数はいまや二十頭にせまるかと思われた。

 泉かららくだの残骸の一部をくわえてきたのか、闇のどこかから骨をぼりぼりとかじる音が聞こえる。いっそ目も耳もふさいでしまいたいとペレウスは思った。


(くそ、ライオンが木に登るのがうまいなんて文献には書いてなかった。七彩をファリザードが残してくれていなければとうに食い殺されていたな)


 イスファハーン公の屋敷でも、広大な庭で獅子を放し飼いにしていた。あの獅子が木に登るところをみたことはないが、庭に姿が見えないとき、ひょっとしたら樹上で憩っていたのかもしれない。


(あれは赤子のころから飼い馴らされたうえ去勢されていた。いわば大きな飼い猫でしかなかった。ここにいるのがあのぶくぶく太った獅子なら安心していられたのに)


 眼下の獅子たちは、生粋の野生だった。あばらの浮き出た体には、絞りこまれた筋肉が蔵されている。

 犬や狼のように木の下で吠え立てるのではなく、沈黙してうろつきまわる。こちらに関心がないように寝そべってあくびなどしていながら、唐突に身を起こすや跳躍や木登りで急迫してくる。気まぐれで行動の予測がつかず、片時も気を抜くことができなかった。


(まだ一夜目……)


 恐怖と疲弊が精神力をすりつぶそうとしてくる。ペレウスは憔悴のあらわれた表情をひきしめるように鼻にしわをよせて獅子たちをにらんだ。

 せいいっぱい心を奮い立たせる。


(だいじょうぶだ、この枝はあいつらの跳躍が届かない程度に高い。よじのぼってきたら刀を突きつけてやる。

 眠らず追い払いつづければいいだけだ)


 助けが来るまであと二日二晩。こうして樹上で耐えていればいい。

 ――ファリザードが無事に峠を抜けていたとしての話だが。


(それは考えるな)


 最悪の事態――彼女がとうに亡き者となっている場合、いつまで耐えようが無駄になる。

 ペレウス自身もかならず獅子の食卓に引き出されるだろう。

 みずからの死に様を連想してしまう。

 獅子が大きな獲物を殺すときは、のどに噛みつき、気管を圧迫して窒息死させる。しかし、しばしば四肢の骨を噛み砕いて自由を奪っただけで、獲物にとどめを刺さずむさぼり始めることもあるという。獅子は好物である腸から食べることが多いため、その場合、獲物の苦しみは長時間にわたるのだとペレウスは書物で知っていた。


(考えるなったら。余計な知識を思いだすな。あのぼろぼろの書物の著者、こんな悪趣味な雑学より、ライオンが木に登るほうを記しておいてくれればよかったのに)


 幼年時代の思い出がつまったミュケナイ王宮の書庫――かびくさい空気の記憶に触発されて、ペレウスは故国のことを強烈に思った。


「ヘラスの神々、助けてください」


 意識せず、怯えた祈りが口をついて出ていた。

 なるほど、祈りはこういうときにしぜんと出るのかと、ペレウスは苦い笑みを浮かべた。


(そういえば、願えば神々のだれかが応えてくれる「かもしれない」といういわく付きの神器を、いっしょに来た少年使節のだれかが持っていたな。持たされた家宝とかで)


 ペレウスはそんなことを思いだした。たしか仇敵同然である民主政都市の少年のだれかだったと思うけれど……


(それがあれば役立ったかも。イスファハーンに戻ったら念のために調べておこう。賊だのライオンの群れのかたまりだの、つぎはこんな窮地はごめんだぞ)


 過酷な現実ばかりを見つめていては発狂しそうになる。ペレウスは未来の予定を考えはじめた。現実逃避というより、生きなければという気力をふるいたたせるためである。

 だが、木がみしりと揺れた。

 獣の体臭が鼻に、息づかいが耳に届く。獅子という現実がまたも近づいてくる。それもこんどは、とうとう複数で登ってきたようだった。


「怖くなんてないぞ。ぼくの持つ爪はおまえらの爪より鋭くて長いんだから」


 ペレウスは七彩を右手でにぎりしめ、下の枝にあらわれた捕食者の顔をみつめて吐き捨てた。


「おまえたちなんかちょっと大きな野良猫というだけだ」


 いうや、かれは七彩を獅子の脳天めがけて突き下ろした。

 避けられた。

 真上からの刺突を首をひねって最小動作でかわすや、その「大きな猫」は七彩の刀身をくわえたのだ。はっとしてペレウスは獅子の口から刀を抜こうとした――が、傷をおった人の子の右手では、獣のあごの力に抗しえなかった。

 七彩はやすやすとペレウスの手からもぎとられ、獅子が口をはなすと木の下へと落ちていった。麻痺したように動けなくなったペレウスは、重低音の複数のうなり声をこれまでになく近くに聞いた。


(これから死ぬのか)


 そう思ったときだった。

 獅子たちが一様に耳をそばだて、さっと首をめぐらせた。谷間の道の一方へと。

 ペレウスも気づいた。


(だれかが大勢で接近してくる)


 それがわかったのは、樹上からみおろす谷間の道に、松明のものらしき明かりがいくつも見えてきたからである。

 人の足ではありえない速度からして、間違いなく馬に乗っていると思われた。


 あっさりとペレウスのそばの枝から獅子の気配が消えた。

 みると、群れたむろっていた獅子の大半がすでに姿を消していた。


 やがてペレウスの耳に、無数の馬蹄が固い地を打つ音がとどいてきた。

 そしてついに、数人ごとに松明をかかげた騎馬の一団が姿をみせた。

 名残惜しげにというよりは好奇心からその場にとどまっていた数頭の獅子がいたが、かれらから矢を射かけられてぱっと崖を駆け上がっていく。


「それでいい。よし、それでいいんだ」


 最後の一頭を見送って、安堵のあまり真顔で変なことを口走る。体の力が抜けてずり落ちかけて、あわててペレウスは枝にしがみついた。せっかく食い殺されずにすんだのに墜死するなどたまったものではない。


 獅子たちが追いちらされて消えると同時に、騎馬の一群のなかからだれよりも小柄な騎影が飛びでてきた。その一騎はぶどうの木の下にかけよってきて叫んだ。


「ペレウス、無事か!?」


(ファリザードだ)


 気の遠くなるような安堵が再度、身をつつんだ。(ずいぶん助けが早いな)というささやかな疑問も感じたが、いまはどうでもよかった。

 地面に降りるや、そこにファリザードがマントをひるがえしながら正面から抱きついてきた。体重は軽いが勢いがついている。ペレウスはよろけてへたへたと尻もちをついた。かれの胸に顔を埋める彼女の温かさと震えが伝わってきて、それがふたりながらに命を拾ったことを実感させた。


「しばらくは町中の猫もみたくないよ、ファリザード……」


 抱擁されながらペレウスはげっそりやつれた顔で息を吐き、それから、騎馬の一群に目を向けた。

 ファールス人だと最初は思った。じっさい、砂よけの布を体に巻きつけたその格好は、ファールス風の砂漠渡りの衣装と変りないようにみえた。

 けれど細部に微妙な違和感があった。ファールス風だと顔にも布を巻きつけることが多いが、かれらは顔をむき出しにしており、髪を一本の太い三つ編みにして後ろに垂らしていた。


 先頭にいた者がひらりと馬から下りて、大股に歩み寄ってきた。顔が月明かりにはっきりと照らされる。

 隻眼の、老境にさしかかった人族の女だった。とはいえ背筋はぴんと伸び、身ごなしは若者のごとく軽やかであったが。


「その嬢ちゃんがあたしらの夜営を見つけたのは運がよかったね、獅子の腹におさまりそこねた坊や」


 白一色の男服。左目には眼帯。

 ほとんど白髪と化した髪は男たちとおなじく編みこんで後ろに垂らしている。いくつもの皺の刻まれた顔。

「ま、侠気があるのは認めるよ。蛮勇ともいうけどね」その老女は歯をむきだして唇の両端を大きくつりあげ、どこか牝獅子を思わせる笑みをうかべた。


 坊や呼ばわりで大いにペレウスは気分を害していたが、ともかく相手は命の恩人である。かれはくっついて離れないファリザードの背を軽く叩いてうながした。


「この人たちはだれなのか、紹介してくれないか」


 が、ファリザードが身を離すまえに、ペレウスの言葉を聞きつけた隻眼の老女は自分から名乗った。


「あたしらは白羊(アク・コユンル)族、騎馬の部族さ。

 あたしはユルドゥズ、女だけど族長をやってる。それでこっちが、んん……まあ、連れ合いのクタルムシュ」


 老女が、背後にいる背の高い男を指ししめす。ほかの者とちがって三つ編みの髪型ではなく、ターバンを頭に巻いているその男は、ペレウスたちに微笑んだ。

 ずいぶん若いんだな、とペレウスはその男の整った顔をみて何気なく思い――目を丸くしてよくよく見なおし――最後には完全にあっけにとられた。

 クタルムシュというその男は、ジン族の風貌をもっていた。


「じ……ジン族と人族のご夫婦ですか?」


「正式な結婚はしなかったけどね」騎馬部族を背後にしたがえた老女は肩をすくめた。


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