22.初恋〈下〉
妖王の子ファリザードに運命降り
ペレウス、開花せる薔薇姫に惑わされかけること
沐浴の爽快感に、ペレウスは深々と満足の息をもらした。垢と脂をできるかぎり落としきったところである。
全身の力を抜いて、ぷかりと岩のプールにただよい、上方を見上げる。木々の葉のすきまから濃青の空がのぞいていた。谷間を渡る熱く乾いた風すら、濡れた肌にはここちよい。
ファリザードのおかげだ、とかれは浮かびながら思った。
ここまで彼女が計画した通りに進んできたのだ。砂漠では急ぐときもただ急げばいいというものではない、かれはこの数日でそれをファリザードから学んだ。
水の残量とルートと移動速度についてファリザードは細心の注意を払っており、水を飲む時間や飲む量までを事細かにペレウスに指図してきた。
今日、ちょうど革袋の水が尽きた数刻後に泉にたどりつき、その指図が正しかったことは証明された。……いや、いくらか水に余裕をもって着いたほうがいいに決まっているが、誤差の範囲だろう。
(正しい道をたどっているか、いかに飲むか、いつ休むか……ぜんぶ「計画と効率」なんだな、砂漠では)
騎獣をふくめて自分たちがどれだけ水を必要とするか計算し、水を確保できる道を知っておき、つぎの水場への距離にあわせて水の消費量を調節しなければならない。そこに加えて体力の限界や、賊や猛獣を避けることを、ファリザードは可能なかぎり計算に入れていたのである。
(性格的には素直で単純な子だけれど、計画的思考の緻密さは、同年代のヘラス人上流階級なんか足元にも及ばないぞ。ぼくは彼女からも吸収しないと)
ファールス帝国の軍は兵站にすぐれるというが、その理由がわかった気がする。砂漠渡りには否応なしに計画性が必要なのだ。
(帝国はやっぱり、侮っていい相手じゃない。うかうかしているとヘラスは、物量の差だけでなく人材の質でも負けかねない)
イスファハーン公家は軍事にうとく、兵は弱い。内陸部にあって外敵と領土を接せず、ほかの諸侯に守られて平和を満喫してきたためであろうが、おそらく五公家のうち最弱であろう。
そのイスファハーン公家でさえじゅうぶんに潜在的な脅威であることを、ペレウスはファリザードを通じて思い知った。
まして、ヘラスと領土を接して戦いつづけてきた西辺のダマスカス公家や、帝国最強の軍を擁する東辺のホラーサーン公家となれば……
――でも陸上に限ればの話だ。こと海上を舞台とするなら、ヘラスはこれまで帝国に負けていないぞ。
というより、ヘラスが滅ぼされなかった理由はその一点に尽きるのだ。帝国の支配者であるジン族は海が苦手であり、その水軍はさほど練度は高くない。対してヘラス人は、歩くより先に帆をあやつることを覚えるといわれる海の民だ。
陸上戦だけであれば、ヘラス諸都市は連合してかろうじてファールス帝国の一公家と互角というところであろう。だがヘラスと帝国との間には海水の防壁と諸都市の海軍が横たわっており、それこそがヘラスを守ってきたのである。
「砂漠にあっては水は命、か」ペレウスは泉にたゆたいながら、足を動かして宙にしぶきを蹴り上げた。「ぼくらヘラス人にとっても、別の意味で水が生命線だな」
けれどその優位もいつまで続くだろうか? 十字軍の主戦力であったヴァンダル諸王は故国に逃げ帰り、ヘラス・ヴァンダル同盟は大きく弱体化している。
そこへきてファールス帝国側では、帝国中最精鋭のホラーサーン公家軍が、最後の十字軍国家アレッポを攻略するためあらためて西進をはじめているという。かれらがダマスカス公家に加勢して十字軍を片付けたのち、余勢をかってヘラス征服にまで乗り出せば……厄介なことになる、ではすまない。「第三次ファールス戦役」とヘラスで呼ばれているこの戦いは、もはや終わったも同然である。
落ちてきた水滴が顔を打つ……ペレウスは深刻に眉根を寄せている自分に気がついた。
(違う違う、戦いのことから考えてどうする。これからは和平を結ぶことを優先するんだろ)
ホラーサーン公家軍が対ヘラスの最前線に出てくる前に、イスファハーン公家のとりなしによって帝国と和睦すればよいのだ。
聞くところによると上帝は、十字軍は最後のひとりまで滅ぼすことを唯一神に誓約したというが、ヘラス相手には妥協する考えがあるらしい。
(たぶん、これが最後の機会なんだ。ヘラスを破滅から救うための。
ファリザードを助けておいてほんとうによかった。彼女も手伝ってくれそうだ)
もし平和がもたらされたら、十字軍が首をつっこんでくる以前はそうであったように、ヘラスと帝国の両文明間に交流が戻るだろう。旅行として気軽に行き来できる日もくるかもしれない。
そうなったら、と口の端に微笑をきざむ。
好きになったファールス人たちにまた会える――いまのところイスファハーン公、ファリザード、それにゾバイダの三人だけれども。
(そうだ、ゾバイダ。イスファハーンに戻ったら、できた最初の自分の時間で真っ先に彼女に会いに行こう)
ペレウスは頬をゆるませた。
これまでのところ、かれとそのオリーブ色の肌の奴隷娘との関係には、なんら進展はみられない。
サー・ウィリアムとの剣術修行があった期間は、正直なところそちらが楽しくてたまらず、興味と体力のほとんどを修行にそそぎこんでいた。日暮れて屋敷に戻るころにはへとへとであり、ゾバイダと顔を合わせる頻度は低下して、たまに会うときも語学を教えあうだけで終始した。
ファリザードの子どもっぽさを笑うかれ自身も、この方面ではまだまだ幼いのだった。
だがサー・ウィリアムはもうおらず、そうなるとかれの興味は武術から恋に戻ってくる。久々に彼女のとなりに腰かけて談笑したいな――と、ペレウスはあの癒される時間を懐かしんだ。新しい武術の師範はそのうち探すとして、それまではゾバイダと距離をつめることを考えていてもいいだろう。
(いまはゾバイダにとってぼくは「ちょっと親しくしている異国人の賓客」くらいにしか認識されていないだろうな。よくて弟のような子というくらいか。
でも、ぼくはゾバイダの主であるファリザードと仲良くなったことだし、ファールス語ができることももう隠していない。これからはこそこそ会う必要はないんだ)
セレウコスとその取り巻きのやつらが冷やかしにくるかもしれないが、いまさらかれらを相手にするつもりはペレウスにはなかった。
以前は復讐にこだわっていたものだが、かれは砂漠で本物の悪党どもの悪行に接したあとだった。それに比べれば、受けたいじめなどどうしようもなく小さなくだらないことにすら思える。セレウコス本人への意趣返しは忘れたわけではないが、そんなことはほかの私事の後でいい。
「きみの主とぼくとは友達になったよ、とゾバイダにいってみよう。砂漠にいるうちになにがあったのかと驚かれそうだなあ」
想像するだけで愉快だった。
胸のうちは温かかった――だが、ふと、ぶるりと震えが水面に横たわる体に走った。
(そろそろ体が冷えてきたし上がるかな)
ペレウスは洗ってある服をつかみ「もうそっちに行っていい、ファリザード?」と声をあげた。
返事はなかった。
さらに二度聞いてみて、なんの声も返ってこないことにペレウスは怪訝におもった。ついで、不安が胸に兆した。
(なにかあったのか?)
立ち泳ぎで、彼女のいる岸辺付近がみえる位置まで移動する。
ふくらはぎまでしかない浅場にせりだした岩に、ファリザードが腰かけているのがみえた。上体をかがめて腕で腹を抱き、彼女は微動だにしていない。
ペレウスは背筋が冷えるのを感じた。ファリザードの様子は妙だ――具合が急に悪くなりでもしたのだろうか。
彼女が裸であるがゆえに刹那のあいだ迷ったが、ペレウスはけっきょく接近することにした。首を振ってくせのある黒髪から水をはねとばし、歩いて近寄っていく。
服は岸に放って、声をかけた。
「ファリザード、どうした!? どこか――」
ファリザードに顔を向けられ、ペレウスは言葉を止めた。
かれの知らなかったファリザードがそこにいた。震えて乱れた呼吸、哀切的に潤んだ瞳、息づいて熱を帯びた肌――それまでかれが知っていると思いこんでいた「子供」はどこにもいなかった。
彼女の泣き出しそうな表情にもかかわらず、少年がそこに感じたのは、おぼろめくような妖しい艶めかしさだった。
「おまえの、せい、だ……
おまえがいなければ、子宮錠の呪印が浮くのはもっと後になっていたのに……」
ファリザードが懊悩にじむ声でかれをなじる。なにをいわれているのか理解はできなかったが、ペレウスはなにもいえなかった。
「わたし、これで、赤子を宿せる体になってしまった……大人になっちゃったじゃないかぁ……」
わななく身を抱く彼女の腕のあいだ――その下腹に、赤い紋様が文身のように浮いているのがかいま見えた。
ペレウスは反射的に目をそらした。
けれど、ファリザードのほうが体を起こす気配があった。水音がぱちゃりとかれのほうに一歩をふみだす。また一歩。
「ペレウス……わたしの初めて、人族相手に浮いちゃった……おまえがあんなに、わたしに触ったから……あんなにぎゅってするから……」
心細いのか動転しきっているのか、ペレウスのせいといいながら、足取りおぼつかなげに彼女は近づいてこようとする。声にはすがるような響きがあった。
ペレウスは後じさりながら心中でうめいた。
言葉の端々から察するに、あの紋様がはじめて浮いたというのは、人族でいう初潮が来たようなものなのかもしれない――が、それがわかったところで「ではどうすればいいか」など、かれにわかるわけがない。わかっているのはかれは腰布一枚で彼女は全裸ということである。
じりじり後ろに下がりつつ、手をつきだしてかれは制止をかけた。
「落ち着いて。ま、まず止まって」
ファリザードがいわれたとおり立ち止まったのち、身を抱いて「ぅ……ぅ」と、違和感をけんめいに押し殺すうめきを漏らした。やむなくペレウスは顔を向けた。
「いったいどうしたの? 痛い?」
そう訊いてまともに彼女をみたペレウスの目に今度こそはっきり、彼女の下腹の紋様がとびこんできた。
六芒星だった――ファリザードの縦長のへその下から恥丘にかけて、魔方陣じみた六芒の星が鮮やかに浮きあがっていた。それは血の紅色をしてうっすらと光を放っていた。
(これがラヘム=コフル? あれ……でもこの星のような形、どこかで)
記憶をさぐるほうに集中してこれ以上動揺すまいとしたペレウスだったが、答えるファリザードが努力を無にした。
「痛くは、ないんだ……でも、胸の奥もおなかの奥も、ぎゅうっと締めつけられてるみたい……」
少女は、耐えるように目を閉じてぶるりと腰をよじった。彼女は隠すというより押さえこむ感じで腰の前に手をあて、無意識に両ひざをすりあわせた。濡れた全身が茹でられたように色づいて、葉漏りの光にまだら模様となっていた。芳気たちのぼる裸身が切なげにあえぐたび、ほっそりと優美な稜線を水滴がいくつも伝い落ち、ふくらみかけの胸の谷間やなめらかな太ももの上で宝石のようにきらめいた。
思わずごくりと固唾を飲んだあとで、ペレウスは愕然とした。自分が見入ってしまっていることに気づいたのだ。
(そんなはずない、これはファリザードだぞ。ぼくはこいつの裸や薄着姿なんか見慣れている)
男勝りで、皮肉屋のくせに単純で、意外に泣き虫で、まるきり子供の、「女の子」としてはぜんぜんかれの好みでないはずのジン族の友達。
(素肌をくっつけて体温を分かち合ったこともあるけど……そのときだって特にどうとも感じなかったじゃないか)
だが現に、はやく視線をそらせと理性が警鐘を鳴らしている。ファリザードの目覚めかけの危うい色香に、惹きこまれそうになっていた。
『薔薇の紋章がつかさどるのは、美、愛、複雑さだ』とっさに想起したのは、彼女に聞いたその言葉だった。ペレウスは息をつめた。ではこれがそうなのか。
十重二十重に重なる花弁が象徴する、いくつもの姿のそのひとつ。
(この子は信じられないほどきれいだ)と、ペレウスは認めなければならなかった。
結局、目を離せないまま立ち尽くすペレウスの前で、金の瞳がゆっくりと開き、茫洋とかれを見つめた。先ほどよりさらにもやを帯びた瞳が、蠱惑的にとろけていた。
「おねがい、ペレウス……わたしは……ちゃんとおまえが言ってくれたら、わたし、おまえとなら……」
盛大な水しぶきが上がった。
岸から飛びこんで乱入してきた馬の勢いに、驚いたファリザードが「きゃ」と後ろに尻もちをつく。
妖しい雰囲気はその時点で霧散した。
黎明号はたてがみをふり乱し、浅場で足をふみならして水をはねとばしている。狂乱に近い有り様だった。
「な――なんだ? どうした、黎明?」
ひざを立てて浅い水底に座りこみ、夢から醒めたようにぱちぱちとファリザードがまばたきしている。
ようやくペレウスもぎくしゃくと首を回して、火が出そうな顔を彼女からそらすことができた――すでに、ファリザードが尻もちをついたはずみにいろいろと目に焼き付いてしまっていたが。
「あ……きゃああああ!?」
ファリザードが、いっぺんに理性がもどってきた様子で悲鳴をあげた。彼女はものすごい勢いで前を隠し、がばっと足を閉じた。
「みた!? みたなっ!?」
ほとんど泣き声の詰問をうけて、ペレウスはあさっての方を向いたまま怒鳴りかえした。
「偶然だっ! ぼくが意図したわけじゃない!」
「嘘でもみてないって言え――!」
ふたりとも羞恥が沸騰して、目を回すほどに混乱している。いつのまにかファリザードの下腹からは、あの赤い六芒星が消えていた。ぎゃあぎゃあと騒ぎ、さっきの淫靡な情緒は微塵も残していない。
黎明号が、どちらもいますぐ黙りなさいとばかりに息の荒い鼻で小突いてきた。
尋常でないその馬の様子に、肩を押されてよろめいたペレウスはけげんに思った。同じことをファリザードも感づいたようで、彼女は洗っていた服を引き寄せ「何があったの、黎明?」といいながら水中で素早く身に着けはじめた。同時に耳をぴんと立て、鼻をくんくんと鳴らす。
その顔色が変わった。
緊迫した表情で、ズボンだけ穿いた彼女は岸にあがり……ぽたぽた水を垂らしながら、忍びやかに身をそばめて大きな羊歯の陰に伏せた。葉を慎重に分けて、黎明号の走ってきた方角を見る。
それきり、彼女は身じろぎもしなくなった。
声をかけることもできず、ペレウスはなるべく半裸の彼女の姿を気にしないようにしながら、みずからも上陸してそのそばに這いよった。
その光景をみたとき、ファリザードが動かないわけも理解した――動けなかったのだ。
酸鼻な饗宴がくりひろげられていた。
離れた木の下につないでいたらくだが、金色の獣の群れにとりまかれて倒れている。悲鳴すら漏らせないほどのどを噛み絞られていた。全ての脚とこぶと尾に、金色の獣が一頭ずつとりついていて、押さえこみながら牙を肉に食いこませていた。らくだの腹には三頭がむらがり、柔らかい皮膚を裂こうとしていた。
虫の息のらくだの腹がとうとう食い破られると、うろうろ周りを歩いていたほかの数頭も、争うように傷口をめがけて鼻先をつっこんだ。
とっくにこちらに気づいていたのか、血をすすっていた一頭の牝が顔をあげてペレウスたちを無感動に見つめた。赤い粘液にべとつく鼻面、むきだされる牙――
だが目先の獲物にとりあえず専心することにしたらしく、その牝は仲間とともにらくだの腸を引き出しにかかった。
「獅子の群れだ」
慄然とつぶやくファリザードの表情からは血の気がすっかり失せていた。自分の顔もそうであろうことを、ペレウスは疑わなかった。