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21.初恋〈上〉

ファリザード泉にて憩い、懊悩し、

おのが心をついに定めること


 水場は、砂漠に峨々(がが)たる荒れた山地のふもとにあった。

 というより、椰子の木しげるその泉は谷間にあったのだ。両側に岩山がせまる谷には水の流れた痕跡がある――雨のときだけ水が戻る涸れ川の一部が、つねには泉となって残っているのだろう。

 もっとも、ペレウスとファリザードにとって泉の成り立ちはなんでもいい。ひとつのことだけがかれらには重要だった。


 この岩のプールのような谷間の泉に、賊の姿はなかった。

 弓矢と七彩(ハフト・ラング)を持って慎重に泉に近づき、そのことを見極め――子どもたちは歓声を爆発させて水辺に駆けよったのだ。

 水は命の味がした。


(最高級のぶどう酒より美味しい)


 泉のふちにかがみこんだペレウスは、無我夢中で澄んだ水をすくって飲みながら思った。となりではファリザードが同じ姿勢でわれを忘れてのどを潤している。らくだや黎明号もふたりに並んで口を水面につけ、むさぼるように飲んでいた。

 生命力を補充する快さがあった。軽い脱水症状により煮詰まってどろどろしていた体液が、清らかな水で希釈されてゆく心地。


 存分に水を味わったあと、ふたりはようやく顔をあげてひと息をいれた。

 楽園かと見紛うばかりだった。大岩が転がる泉のふちには、青々とした草木や苔が繁茂しており、日光を漏らす木々の葉は頭上でさやさや鳴っている。

 荒漠とした砂漠ばかりみてきた後では、緑がことに鮮烈に感じられた。ペレウスは心を浮き立たせた。


「緑が多いね、この谷間だけ」


「それこそオアシスたる所以だ。あ、ペレウス」


 ファリザードが上方のナツメヤシのこずえをあおいで嬉しげな声を出した。


「みてみろ。椰子(やし)の実が生っている」


 苦もなくファリザードは木に上り、ペレウスの眼前に黄色っぽい実や明るい赤色の実を落としてきた。砂を洗い落とすのもそこそこにふたりはかぶりつき、しばし無言で腹を満たした。

 ひと心地ついてからはさらに多くの実を落とし、黎明号やらくだにも与える。

 騎獣たちがぼりぼりと果実を噛み砕く音を聞きながら、どちらからともなく笑みを交わした。

 昨夜、「泉は待ち伏せがあるかそうでないかふたつにひとつだが、前へ進むしかない」と悲壮な覚悟を決めたのだったが、どうやら杞憂に終わったようだった。


「もう心配なさそうだね、ファリザード」


「ああ。けれど用心するにこしたことはない。水をくんで椰子の実を集めたら早いうちにここを通り過ぎ、村へ向けて出発しよう」


「そうだね。でも、ちょっとだけ待ってもらっていいかな」


 ペレウスは首をかたむけて自分の服のにおいを嗅いだ。砂漠の乾いた気候では、汗は出る片端から蒸散するためさほど臭わないのだが、やはり数日も同じ服を着ていると異臭がまとわりつく。

 泉に目をむけて、ペレウスはこの地を領する大貴族の娘にいちおうのお伺いをたてた。


「ここで体と服を洗ってもいいだろうか」


 ファリザードが腕を組む。考えているように見せかけているが、いたずらっぽく瞳が輝いていた。


「砂漠の泉は公共物だ。ほかの隊商や旅人がこのあとすぐ訪れる場合を考えたら、沐浴はあまりいただけないな。

 ……でも、たぶんほかの旅人なんてすぐには来ないだろう。いまだけ公徳心を忘れてしまってもいいかもしれない」


 そういいながら彼女は自分のマントを外した。着た切りであったこの数日にうんざりしていたのは彼女も同様だったのだろう――水浴びに大いに乗り気のようだった。


「よし、行ってくる」


 許可されたと判断してペレウスは手早くマントをはずし、ヘラス風の半袖の短衣も脱ぎすて、腰布一枚になり――そこで、息をのんで固まったファリザードに気がついた。

 長袖の胴衣を脱ぎかけて手をとめている少女は、うろたえきった様子で「ば、ばか、乙女の眼前でためらいもなく脱ぐやつがあるか」とかれに背を向けた。ペレウスは瞬間的に彼女と同じくらい頬を赤くし、なにをいうかと腹を立てた。

 つい故郷の浜辺で泳ぐときとおなじように脱いでしまったのはこちらの落ち度だが……


(自分はぼくらの目の前で肌に香油を塗らせていたりしたくせに、いまになってなんだよ、その恥ずかしがりようは)


 だいいち、


「先にマントを脱いだきみにいわれたくないよ!」


「わかった、わかったから離れたところで浴びてこいっ」


「いわれなくとも!」


  ●   ●   ●   ●   ●   ●


 憤然として脱いだ服をつかんだペレウスが泉に踏みこむ。かれが水をかきわけて離れていくのをファリザードは耳をそばだてて確かめていた。かれの立てる水音がじゅうぶんに遠ざかるのを待って、彼女はようやくふりむいた。

 ペレウスの姿はみえない。泉は弓なりに湾曲しており、せり出した陸地の岩石および密生した植物によって、向こう側を一望することはできなかった。

 かれの姿がなくて心細いような、裸で間近に接することがなくてほっとしたような――


(おかしなこと考えるな、はやく汚れを落とそう)


 服を脱いで浅場に入る。

 可憐なつま先からくるぶし、美しい弧を描くふくらはぎ、しなやかで張りつめた太もも、小ぶりなりに柔らかく実った尻と、順次に静謐な水面に浸かってゆく。すべすべした下腹までを浸して、彼女は泉中にたたずんだ。小麦色のみずみずしい若肌が、水滴を弾いて(きら)めいた。


(油と灰からつくった石けんがあればいいのに)と思いながら髪と体を洗いはじめた。


(村へ行き着いたらまず湯を使わせてもらおう。

 石けんで洗えたら、そのあと香油も塗りたいな。……香油はイスファハーンに帰ってからゾバイダに塗ってもらうことにしたほうがいいか)


 数年前から屋敷にいる女奴隷の塗油の手つきを久しぶりに懐かしむ。姉のように優しくていつでも柔和な笑みを絶やさないゾバイダのことを、ファリザードは使用人のなかでも気に入っている。ペレウスと仲良くなる以前、友達にもっとも近い存在がいるとしたらそれはゾバイダだったろう。

 もちろん、ほんとうに友人というわけではない。領主の娘である彼女と、対等な意識で向かい合おうとする召使いなど存在しないのだ。それは屋敷の外の市民たちもおなじことで、果物屋の主のようにファリザードを可愛がる者たちでさえ、彼女へのうやうやしさをつねに忘れたことはなかった。ファリザードもそれを寂しいとなど思ったこともなかった。


 それは(ことわり)なのだから。


 彼女はイスファハーン公の娘であり、ホラーサーン公の姪であり、すなわち帝国五公家のうち二公に連なる血筋の少女だ。世界最大の帝国であるファールス帝国の一公家となれば、蛮族の王国ごときは笑殺してのける実力と権威をそなえている。

 その自分をほんとうに対等な友人として扱う者など、帝国のほかのジン族諸侯はいざ知らず、人族から出てくるはずがない――そう思っていた。


(でも、ペレウスがいた)


 はじめて自分にできた人族の友人のことに考えがいたる。


(そういえばペレウスのやつ、最初からぜんぜんわたしに物怖じしてなかったな。いつだって生意気で不満げで、わたしがヘラスの悪口をいったりしたら、険悪な目付きでこっちをにらみつけていた。ミュケナイというのはヘラスでも古い都市だと聞いたけれど……だからかもしれない、あいつがあんなに強情っ張りなのは)


 以前は媚びようとしないその目付きが気にくわず、身のほどをわきまえない蛮人だとしか思わなかった。だがそれは、裏を返せば気骨があるということだったわけである。

 洗った前髪に手ぐしをさしいれて、顔への鬱陶しいしたたりを防ぎながら、「ふふ」とファリザードは笑った。

 ペレウスに気骨がないわけはない。あいつはわたしと戦ったときとわたしを助けたときで、二回もそれを証明してみせた。とくにわたしを助けた今度のことで、父上もかれに注目するようになるだろう――

 浮き立つ気分で自然と微笑していたファリザードだったが、はたと気づいたとき手が止まった。


(ペレウスが父上に認められることで、なんでわたしが上機嫌になる必要が)


 髪を後ろにかきあげた姿勢のまま彼女は黙した。頭上から小鳥の声がとどいてくる。

 ややあって、ファリザードは水をすくって美貌を洗った。顔が熱かったのである。


(あいつは友達、友達だ)


 友達が評価されるのがよろこばしいのは当然じゃないか、と思いこもうとする。だが心はその片端から転々として妙な連想にかたむいていく。


(………………この先も友達というだけで、すむのかな……)


 連想はゆえのないことではなかった。ファリザードは父親から言われている。館に滞在するヘラス人の上流階級の子たちのなかから、相手を選びなさいと。

 そもそもファリザードがこうして砂漠に出てきているのは、単に父親のイスファハーン公に怒られてすねたからではなく、


(ヘラスとの戦で、主戦派である叔父御がとうとう兵をあげて前線へ出るべく西進してきた。

 だから和平派の父上は、焦ってすぐにでもわたしをヘラス人と結婚させて和睦を演出しかねなかった)


 そのゆえに、彼女はイスファハーンの市壁から飛び出したのだ。意に沿わぬ結婚の可能性から逃げ出すために。

 けれど砂漠行がこんなことになってしまった以上、もはやわがままにふるまえる段階ではない。イスファハーンにすぐにでも帰らなければならない。

 つまり、こんどこそ結婚と向き合わざるをえない。


 ではもし現在、選択を迫られて真剣に考えるとしたら。どうあっても選べといわれたら。

 だれを選ぶかはもう問題ではなかった。そんな段階はすっとばしてしまった。


(いま選ばされたら、わたしきっと、あいつを)


 ヘラス人との結婚といわれたら、いまではひとりの顔しか思い浮かばない。

 しかも――必ずしもいやいや選ぶというわけでもない。困ったことに、かつてこの結婚話に抱いていた嫌悪感は、心のどこを探してもみつからなくなっていた。

 ファリザードは情感をたたえた瞳を伏せ、動揺を押し殺すようにつぶやいた。


「ほ……ほかのヘラス人を選ぶよりはましだもの。そうだ、いちばんましだからだ」


 無理に結婚させられるなら、「友達」を選んだほうがまだしもだからだ。ファリザードはそう念じて、あるひとつの予感をどうにかふりはらおうとしている。それはもうほとんど確信なのだが、ファリザードはせめてもの抵抗をしたいのだった。

 脱いだ服を泉にひきこんで、じゃぶじゃぶと乱暴な手つきで洗う。


「人族となんてありえないんだからな、本来」


 自分にいいきかせるように口にだして、


(……でも、宣告のことがあった)


 ファリザードはそれを思いだした。


“黄金の薔薇と黒い剣、ふたつの公家をかけあわせ、産まれる子がもし姫ならば――……”


 彼女の頭上には、生を受ける以前にジン族の古老にかぶせられた〈魔術師の宣告〉(ホクム)の影が常にある。

 その話をファリザードは父に教えられた――ヘラス人使節たちを館に迎えるときに、結婚話の前振りとして。

 イスファハーン公の屋敷に呼ばれた古老は、歓待を受けたのちに礼として三つの宣告を下したという。女児であったならば、といいおいたのちに、


(“命を分けた親の血に濡れる……アーダムの子(人族)に鍵を渡す……いまある争いのかたちを終焉させる因となる……”

 あのとき聞いたのは、こうだったような)


 記憶をたどってファリザードは一句一句を脳裏で確認した。

 親の血にまみれる――イスファハーン公が怒ってその古老を追い出したにもかかわらず、不幸にもひとつめの宣告は実現した。ファリザードの母は産褥によって腹の子を産み落とす前に死亡した。やむなく刃物によって胎を裂き、その血のなかからファリザードは現世へと出てきたのだ。

 その事実をイスファハーン公は娘に明かしたのである。のこりふたつの宣告が実現しないとはいえぬ、と。


 けれど、ファリザードは信じなかった。というより、頭からはねつけた。それを口実として父親が彼女をヘラス人と結婚させようとしているとわかりきっていたからだ。

 あるいは口実ではなく本気で父はそう信じていたのかもしれない。最愛の妻であったファリザードの母を失って以来、イスファハーン公が神秘主義への傾倒を強めたというのは有名な話だったから。それを思うとファリザードも父を可哀想に感じたが、やはり娘を人族と結婚させようとするのは行き過ぎだ。

 ために「そんなうさんくさい宣告、古老が適当なことをいったに決まっています」ファリザードはそういって抵抗したのである。だがいまは……


「でたらめにしか思えなかったけど、案外、当たるのかな」


 頬を染めてファリザードはぽつりといった。

 もし彼女がペレウスと結婚し、それによって、戦ってきたヘラス諸都市と帝国の両文明間に平和がもたらされるのであれば、一挙にのこりふたつの宣告も成就するのだ。


 しかし問題がある。

 ふたつめの、「人族に鍵を渡す」という宣告――ファリザードはますます肌に血をのぼらせた。


 鍵を渡す。それはほぼ確実にあのことを指しているのだろう。


 要するに伴侶になることであり、同時に肉体上の契りを交わすことでもある。そのことはジン族においては完全に同列であり、「女が男に鍵を渡す」というのだ。

 なぜそのように言うかといえば、それは子をなすために子宮錠(ラヘル・コフム)の解錠を許すことだからだった。


 服を延々と揉み洗いするファリザードは、赤面を止まることなく進行させていく。

 羞恥心を胸中に抱えこめず、とうとうだれに聞かせるでもなく虚空に向けて話しかけはじめた。


「や、やっぱりそんなことまだ決められないな。うん、ペレウスはいいやつだけど、ほら、ジンと人のつがいなんてどう考えても変じゃないか」


 ヘラス人に対する蔑視は、いいかげんに捨てようと思いはじめているが――だが何人以前に、かれは人族なのだ。人族との婚姻など、彼女が妖王の娘でなくただのジン族であったとしても通常はありえない話だ。昔のように侮辱と感じて目もくらむような怒りを覚えることこそないが、真剣にその可能性に向きあってみても、やはりまだ戸惑わざるをえない……ということに自分ではしておきたいファリザードだった。


「そうだ、ほんとうなら相手は厳格に選ばなければならないはずなんだ。イスファハーン公家は征服時代以前からあまたの英傑や覇王に妃を提供してきた家として、結婚に関してはほかの氏族より伝統と格式を背負っているんだぞ。和平のことばっかり気にして、父上はそのあたりのことを軽くみすぎているんだ。いまだってすでに、娘を差しだそうとしている弱腰の妖王といい笑いものになっているじゃないか。それに、もう四百年も生きている妖王(マーリド)のくせに、軽々しく古老の宣告にふりまわされるなんて、わが家の名誉というものをなんだと思って……

 …………でも、ほかにどうしようもなさそうだし……

 こうなったら、あきらめて親孝行してみるのもいいかも……

 そうだな、百歩ゆずるとして、せめてペレウスのほうから求婚してくるなら、それなら考えなくもないかもしれないけれど」


 ファリザードはいいわけじみた口調で、途中からつぶやきの内容をそれまでと真逆の方向に変えた。

 ぽーっと水面をみつめて胸の前で手をもじもじさせる。結果として揉み洗い中の服がごしごしこすり合わされる。


「うん、あっちからどうしてもって求められたなら、よく考えてから返事する。それにしよう。そういう条件ならなんとか。

 とにかくぜったい、結婚のことはあっちからいってもらわなきゃ」


 そうでなければならなかった。

 彼女は薔薇の公家のファリザード、広大なファールス帝国でもっとも価値の高い女児なのだから。

 伝説の魔導師王スライマーン・ベン・ダーウドや、ジャムシード賢王級の人物ならまた別だが、いくら支配階級だろうと小国の人族ごときにこちらからやすやす嫁いだりすれば沽券にかかわるのである。


「それに、男から求めてくるのが正しい作法なんだから。そういう手順はきちんと踏んでほしいし」


 揉み洗いの摩擦が加速した。

 人族のことはよく知らないがジン族では古来、男が求め、女がそれを許して「鍵を渡す」ことで伴侶となる。今日では形式と化している面もあるが、やるなら正式に踏襲してほしい。

 そうやって求婚されたなら――と思考を続け、


「そうなったらその、ペレウスの体面を傷つけたら悪いし、父上に外堀を埋められてしまっているんだから娘としては為すすべもないし、これはもうしょうがないんだと世間にも親族にもわかってもらえるだろうし」


 もじもじ。ごしごし。

 最上級品である絹胴着の繊細な刺繍が、無残にもすり切れそうになっている。


 しかし、ファリザードがぴたりと口をつぐむや、おもむろにその手の速度がおとろえた。

 彼女は洗っていた服を水面に手放し、腕をだらりと垂らして、服が水底にゆるゆる沈んでいくのをみつめた。

 ふわふわ浮かれていたさきほどとは打って変わって、心も腕も鉛と化したようにファリザードは肩を落とした。


「……ばかみたいだ、わたし」


(体面も矜持も捨てきれないけれど、それよりも、ペレウスに正面からわたしを求めてほしいって思ってる)


「こんな考え、『友達』相手のものじゃない……」


 自分の心がどこへ向かおうとしているのか、彼女は理解したのである。

 ファリザードは認めた――かれに惹かれだしているのは、わたしのほうだ。


「ジンが人に懸想するなんて、こんなの、いい恥だ……」


 押しつぶされそうな声をだし、少女はきつくまぶたをつぶった。

 もう一度、冷たい水を両手にくんで顔面に浴びせる。それでもなお、顔も頭の中も熱かった。赤熱した顔をおおって、泉のなかで立ちすくむ。自分の胸の高鳴りが大きく聞こえた。

 愁いと艶のいりまじるため息をついたのち、


「あっ……そうだ」


 はっとしてファリザードは下腹をみおろした。

 つかの間の緊張ののち、ファリザードは安堵したような肩透かしを食らったような複雑な心情を味わった。へその下の褐色のすべらかな肌にはなんの兆候も浮かんでいなかった。


(子宮錠の呪印は出てきていない)


 張りつめた精神が一気にゆるみ、反動で虚脱感がおとずれる。なにごともなかった下腹を無意識に指でなでながら、少女は思った。


(いずれにせよひとつは確実に喜べる。子宮錠がまだ現れていないならば、『鍵を渡す』ことで悩む必要はすぐにはないわけだから)


 ジン族の少女の胎が赤子を宿せるようになったとき、血の色をした紋様が肌にあらわれる。

 その呪印を子宮錠という。

 まだ胎の準備がととのわない子どもであるうちは子宮錠は表われない。逆にいえば、呪印が浮けばその娘は妊娠できるようになったということだった。

 子宮錠は通常、体が成長すれば自然と浮いてくるものだが、そうでない場合も多い。


 ジン族の少女がはじめて男性に魅力を感じ、かれを慕い欲したときに、誘発されるようにそれは出てくる。つまりは、初恋と連動して子宮錠は浮くのだ。かならずそうなる。――予期せぬ妊娠の可能性を徹底してはばもうとするかのように。


 そしてファリザードは、話には聞いていたが、これまで子宮錠が表れたことはなかった。

 みるかぎりいまも表れていない。その事実を頼りに、少女は最後の悪あがきを試みた。


(子宮錠がでていないならわたしのこの感情は、恋ではないってことだ……

 そうか、ほんとうにあいつを好きではないのかも)


 ペレウスに対する感情がほんとうに恋かどうか、ファリザードには確信がもてない。

 なにしろ初めてなのだ、こんな想いは。


(きっと、ちょっとのぼせちゃっただけなんだろう。しばらくのあいだふたりきりで危地を旅してきたのだもの。そういう状況では錯覚が起こりやすいと聞くし)


 たしかにかれに笑いかけられるといまみたいに顔が熱くなるし、かれの声を聞きながらそばにいるだけでも不思議に満ち足りた気分になるし、夜寝るときなどにくっつかれるとどきどきと心臓が破裂しそうになるし、眠るかれに不意打ちで抱きしめられたり顔を近づけられたりすると胸が苦しくなってぼうっとしてしまうが――


(……恋じゃあないだって?)


 悪あがきを、自分から放棄した。

 なるべく冷静に分析しようとする。

 胸打つ早鐘も肌の火照りも、やはりそれとしか思えない。なにより、と切なく揺れる瞳を伏せる。ペレウスに抱きしめられた感触を呼び起こすように、自分の胴をぎゅっと抱いた。

 目を閉じても、あいつの顔ばかり浮かぶのだ。


 だがそれならなぜ子宮錠が出ないのか。


(もしかして、人族相手の懸想だと子宮錠は浮いてこないんだろうか)


 ジンと人とのあいだで、子は作れただろうか?

 そうでないなら、子宮錠は浮かばなくてもかまわないということにならないだろうか。この呪印は、妊娠を妨げてジン族の出生数を低下させるためにあるのだから。


「そうか、子どもができないんだ。だからはじめから浮かないんだ」


 砂をかみしめているような心地がした。ファリザードは、すこし遅れてそれが失意だと気がついた。


(――――え)


 苦い失意のうちに、はっきり恋情を確認した瞬間、それがおとずれた。


 最初は、水銀が血管を流れたかのような突発的な悪寒だった。

 ついでそれまでもうるさかった心悸が乱れた。はねあがり、胸を内側から壊そうとするかのように暴れ、胸苦しくなり、


「あっ!?」


 雷が流れたようなびりっとした刺激が脊柱に走る。

 それから肌の表面に強烈な痛みが生じ、ファリザードは苦痛の声をあげて上体をかがめ、下腹に手をあてた。その押さえている部位をみて目をみひらく。


「うそ、そんな」


 ――子宮錠。

 炎の針で皮膚の内側から文身(いれずみ)をほどこされているように、じわじわと赤い紋様がへそ下に浮かんでいく。


「こんな、いきなり、こんな……来るなんて……」


 人族相手では浮かないのだと思いこんだばかりだったのに。


 熱い。汗が噴きでる。寒い。総身がわななく。蛇のような鎖が体の芯に巻きつき、ぎりぎりと締めつけている気がする。

 自分の肉体の内側が永遠に離れない鎖に縛られていくのを、ファリザードは呆然としながら耐えるしかなかった。

 少女の内側で渦巻いた――泣きたい気持ちと苦痛へのおののきと、恐怖と狼狽と底の底にある歓喜が。


 血の色をした六芒星が、下腹に鮮やかに浮かびでていた。


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