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2.挽回開始

王子ペレウス、ゾバイダから紹介を受け

市において出会いを果たすこと

 イスファハーン公の庭園は常識はずれに広く、しかもいちいち(ぜい)をこらしてある。

 木立がひらけた場所に置かれた、紅玉髄をあしらった黒檀の長椅子。足元には花々が咲きにおい、小鳥たちの歌が降ってくる。

 そこに、ペレウスとゾバイダはとなりあって座っていた。


 放されているノロジカの群れがペレウスの目の先でぱっと散って逃げた。


 木立の中からのそのそ歩いてきた一頭の雄ライオンが、ペレウスとゾバイダの前にねそべってあくびをしはじめた。


獅子(シール)の泉」から、イスファハーン公の娘のために連れてこられたというライオンの牙は長く鋭かった。だが、ペレウスは怯える気にはならなかった。

 この一年で、いいかげんファリザードのペットには慣れてしまっていた。それにそのライオンが、赤子のころから飼われているうえ去勢されているため、非常におとなしくて人馴れしていることも知っていたのだ。

 猫のように芝生でごろごろ転がっている獣を指さして、長い黒髪を後ろでたばねたゾバイダがたずねてきた。


「ヘラスにも、いますか、ライオン?」


「いたと聞くね、昔は。古い壺に、絵が、描かれてるよ」


 となりあって腰かけたペレウスとゾバイダの会話は、ややたどたどしいものだった。

 なぜかというと、ペレウスはファールス語を使い、ゾバイダはヘラス語を使っているからである。


 ペレウスは、この十五、六歳ほどの女奴隷とはたがいに言葉を教えあっていた。

 当たり前だが、ジンも人間も含めたファールス人は、自分たちのことば……つまりファールス語で話す。

 ただ、少年使節たちを応接する役目を任されているというファリザードだけは、流ちょうなヘラス語で会話している。が、ペレウスにはそれはむしろ、ヘラス人たちにファールス語を覚えさせないためではないかと思うときがあった。

 なお、セレウコスとその取り巻きたちは、かれらなりにファールス語をいくつか覚えていた――「やろうぜ」「酒をもってこい」「おれたちはヘラスの重要人物なのさ」などなど、奴隷や娼婦に向けていう言葉を。


 ペレウスはそれよりはずっと役にたちそうな言葉を学んできた。奴隷であるゾバイダの知識のかぎりではあるが。


(気づかれないうちにファールス語を完璧に覚えて、必ずヘラスのために役立てなければ)


 なんといっても敵国の重要地域のひとつなのだ、ここは。街角のささやきや風聞からさえ、貴重な情報がはいるはずだ。その意味で、ゾバイダのレッスンは貴重だった。

 だが、この秘密のあいびき自体をいつしか楽しむようになっている自分がいるのも確かだった。


(すべての蛮族(バルバロイ)は死に絶えればいい、でも……)


 ゾバイダだけは別だ。


 同じヘラス人少年たちに嫌がらせや殴打を受ける日々のなかで、ペレウスの心の支えになっているものがあるとしたら、それは故郷への愛と、ゾバイダの示してくれる親切だった。

 こっそり言葉を教えてくれることだけでなく、彼女はことあるごとにペレウスのために便宜をはかってくれた。

 たとえば、ペレウスを食事の席につかせまいとセレウコスが努力していた時期があった。口での嘲弄や挑発のほか、食卓の下であざができるほど足を蹴ったり、隙をみて虫や汚物を皿になげこんできたりという子どもじみた嫌がらせ――だが、人を心底うんざりさせるときに、大人びたやりかたである必要はない。ペレウスはじゅうぶんにうんざりして、セレウコスが飽きるまでおなじ食卓につかないことにしたのである。

 そのときも、ゾバイダが食べ物を差し入れてくれたので、ペレウスは飢えずにすんだのだった。


 ペレウスがゾバイダを見ていると、彼女はそれに気づいて、風に流れる髪を後ろで紐にまとめながら首をかしげた。肉感的にぽってりした唇が微笑をつくった。


「どうしました?」


「あっ……いや……」


 いつも世話になっているね、と礼をいえばよかったのだが、あやうく「きみの笑顔ってきれいだ」と痴れ者じみたことをいいそうになってしまい、ペレウスは顔を赤らめた。

 足元のキンポウゲをサンダルの先でつつきながら、照れ照れと考える。

 いつかミュケナイに戻るときに、どうにかして彼女にいっしょに来てもらえないだろうか。彼女をゆずってもらえるなら、あの憎らしい性悪わがまま娘のファリザードに頭を下げたっていい。


 そこで、顔をひきしめた。


(いけない、こんな浮ついたことを考えていたら。

 ぼくはセレウコスみたいな人間にはならないぞ)


「そうだ。ゾバイダ、たずねなくちゃならないことがあったんだ」


 ペレウスはヘラス語に切り替えた。互いに、相手の母語を話すとなるとまだたどたどしいが、聞いて解するほうはかなり上達している。特訓のことを考えなければ、会話の効率はこちらのほうがよほどよい。


「ゾバイダ、だれか知らないかな? 戦い方を教えてくれる人を。もちろんないしょでだよ」


「ないしょで? 戦い方をですか?」


 同じくファールス語にもどしたゾバイダは、唐突な問いに面くらったようにのけぞり、それから視線を宙にさまよわせた。


「……ファリザード様は勇ましい行いにあこがれておられますので、この館には刀術や弓術の指南役がおられますが」


「ジン族にはちょっとでも知られたくない。ほかのヘラス人にはなおさらだ」


 すこし強い調子でペレウスがいうと、ゾバイダは、かれがなぜそんなことをいいだしたかの理由を悟ったらしかった。「……すみません、わたしのせいで」彼女は申し訳なさそうに肩をちぢめた。


「いや、それは……あいつらが悪いんだよ。きみのせいじゃない。

 この話はやめよう。それより、心当たりはあるかな?」


 驚くべきことに、即答された。


「あります」


「……ほんとに?」


「うってつけの人がいるんですよ」


 こんどのゾバイダの笑みに合わせるかのように、視界のはしでライオンがまたあくびをした。


…………………………………………

……………………

……


 イスファハーンの街中は、市場の立つ日とあってにぎわっていた。

 ファールス帝国の大貴族はのきなみジン族だが、平民のほとんどは人族である。人間の特徴として、長命の種族よりずっと生きいそぐようにあくせく働くという点があり、それはヘラスも帝国も変りなかった。


 乾いたほこりっぽい熱風がかけぬける、日干しレンガをしきつめた路地には、いくつもざるや器が並べられていた。

 露天商が、みずみずしげなイチジクや瓜をこれみよがしに置いて「さあ果物だよ、新鮮なキュウリだよ」と叫んでいる。焼かれる仔羊や鳩のにおいが香ばしくただよってくる。

 取り引きされる水牛や馬やらくだのいななきもどこかでひびいている。

 馬具のほかにらくだ用鞍や鞭、針や糸やひもや麻縄、羅紗に更紗に絹の布、陶器に玻璃器に銀の器、塗り薬、飲み薬、回春剤、グールよけのまじない札……

 値引き交渉の声がかまびすしい。


 モスクから礼拝の時刻を告げる鐘が鳴ると、交渉中の人間をのぞく全員がひざまずいて祈りをささげだす……そのなかにあって立っている異国人、つまりペレウスは、この風景のなかで自分がいやでも浮き彫りに目立っていることを意識させられた。


 街中に出るのははじめてというわけではなかったが、異国情緒の強い情景に、帝国へきて一年経ったいまでもペレウスは完全にはなれることができていない。


(それでも、このファールス人たちがなにをいっているか多少わかるんだから、いままでの日々がまるきり無駄ってわけじゃないな。ゾバイダのおかげだ)


 そうは思いながらも(早く目当てを探さないと)とペレウスは見回した。


(ゾバイダのいうことでは、たしか、サルを連れてうろうろしている男を探せばいいんだった)


 注意してあたりを確かめていたペレウスの目に、そいつはすぐに見つかった――といってもサルのほうだが。

 ……いまだ値下げ交渉で店主相手にがなっている欲深い客に、そっと尾の長いサルが近寄り、手をのばして気づかれないように衣服をまさぐっている。店主には獣が見えているはずだが、なにもいわない。

 なんだあれ、とあっけにとられてから、ペレウスは気づいた。


(サルにすりをやらせてるんだ。店主とぐるなんだ)


 そのほかのファールス人は拝跪してかれらの神をあがめており、気づいていない。気づいていたところで、ひざまずいていない不信心者に注意してやろうとは思わないのかもしれなかった。サルの飼い主はなかなかうまく考えているらしい。


 この不正義を見ているぼくはどう対応するべきだろうか、とペレウスが迷って立ちつくしたときだった。

 後ろから、ぷんと異臭がにおったかと思うと、いきなり口をふさがれた。驚きに目を見開いたとき、頭上からファールス語がひびいた。


「ここはひとつ見逃してもらおう、子供。おれたちも食わなきゃならんのでね」


 肩ごしに見上げた――ペレウスがこれまで見た内で、もっとも汚い乞食がそこにいた。


 頭にまきつけたターバン(エマーメ)は茶色っぽくなっていて、ぼろぼろの服は半ば腐っている。ひげは手入れなど一切されず伸び放題、肌には黒い垢が三層にもつもっていて元の色がわからない。そしてその体臭たるや、野良犬並みだった――犬はまちがいなくこの男より清潔にしているであろうけれど。


 ただ、すらりと背が高く、その目は澄んだ空色をしていて、落ち着いた低い声は美しいといってよかった。

 口をおさえる乞食の手をはがし、ペレウスはいった。


「『よき卵が六個、腐った卵も六個』」


 ぴくりと男の眉が動いた。男はにわかに用心するように、空色の瞳でペレウスをつくづくと見つめた。


「……その合言葉、だれから聞いた?」


 ファールス語をどうにか駆使して、ペレウスは聞いた。


「ゾバイダですけど……あの、ゾバイダの遠い親戚ですよね?」


「……なんの用だ」


「武術を教えてくれる人がいるかと聞いたら、こちらを紹介されて」


「は――はあ?」


「お願いします。強くなりたいんです」ペレウスは真剣に頼みこんだ。とにかく、すぐにでも力をつけて、セレウコスやファリザードを見返してやりたかった。


「そうだ、ゾバイダから手紙を持ってきています」


 サルにすりをやらせていた乞食の男は、疑念に満ちた目でペレウスの出した手紙――陶片のかけらに炭で書いたもの――を受け取り、読み始めた。

 それを待ちながら、ゾバイダのことがちょっとわからなくなった、とペレウスは頭の隅で考えていた。奴隷なのに文字が書けるのは珍しいし、市中の者と通じるおかしな合言葉を知っているのも不思議といえば不思議だった。

 といっても、深刻におかしいこととはあまり思わなかった。このときは。


 読み終わると男はペレウスを一瞥し、きびすを返して「こっちに来いよ」と路地を戻り始めた。サルが駆けてきて男の肩にするすると登った。

 歩くことしばし、ほどなく男は、街路とおなじ種類のレンガでできた、崩れかけたひとつの人家の戸をあけて入っていった。

 そのあとをなんの疑問もなくついて入っていき――そして、ペレウスはいきなり壁におさえつけられた。


「ゾバイダがなにを考えておまえをよこしたか知らんが」ペレウスに汚い顔を近づけ、男は一節ずつ区切るようにいった。「おまえの行動いかんでは、おれの命にかかわるんだ。できれば、考え直せ」


「……あの、どういう……」


「おれの教えられる戦い方は、この市中では使えん。ファールス人に見られたら困るんだ」


「別に……見せびらかしたいわけではありません。身を守るすべを学びたいだけです」


(もしくは、ただ、嫌なやつらに復讐してやりたいだけだ)


 男は、長々としたため息をつき、「いくつか約束しろ」と念を押した。


「習い覚えたものは実際には使うな、よっぽど必要があるときだけだ」


「はい。必要があるときだけにします」


「おれは剣術しか教えられないぞ。いいのか?」


 これにはとまどった……できれば拳闘や格闘あたりを学びたかったのだ。だが、剣はそれらより実際的だし、どのみちいつかは学ぶ。

 なにより、考えてみれば、身体の大きいセレウコスに勝つには、拳闘や格闘ではたぶんだめだろう。剣ならまだ望みがあるはずだ。セレウコスに決闘をいどむときは互いに木剣でやれば、重傷までは負わないだろう。

 ペレウスがうなずいたのをみて、男は腹をくくったようだった。


「おれのことはだれにもいうな。ゾバイダにも迷惑がかかるぞ」


「はい、けっして」


「……あと、おれがこのくそったれた街から出ていくのも手伝ってもらおう」


「え?」


 意味がわからずとまどった少年にかまわず、男は、「エル・シッド、水をもってこい」とサルに命じた。

 忠実なサルが、部屋のすみの水がめに飛びつき、ひしゃくに水をくんで男にさしだす。

 男は、ペレウスをおさえつけたままターバンを脱いだ。


 ひしゃくを受け取り、水を見つめてしばしためらったあと、それを自分の頭にぶっかけ、ひしゃくを放り出して、顔までごしごしと手でこすった。


 ペレウスはあんぐりと口を開けた。

 黒くなった汚い水がぽたぽたとひげから落ちていく。水をかけた箇所に現れたのは、茶色い髪、そして白い肌……ヘラスのさらに西方や北方に住む人種の肌の色。


(――ヴァンダル人!?)


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