18.奔流〈下〉
ペレウス、ファリザードとともに賊の魔手をのがれんとして
活路を求めるべく死地にとびこむこと
ファリザードの腕をつかんでいた軽装の賊兵のかたわれが、怒号して彼女から手を放した。そいつは三日月刀を鞘ばしらせ、ふみこんでペレウスに斬りつけてきた――ペレウスはそれを盾で受けてはねかえしたが、そばにいた別の賊もまたファリザードを放し、抜く手もみせない速さで横手から一刀を浴びせてきた。
無我夢中で体を回し、ペレウスは第二の斬撃もきっちり受け、同時に〈七彩〉をつきだして賊の腹を刺した。
はさみうちで少年をたやすく殺せると確信していた賊兵が、黒布から露出した目に驚愕をうかべ、刀をとりおとして腹を押さえた。
もうひとりの賊兵もたちまちおなじ末路をたどった。背を向けたペレウスの首筋に斬りつけたのに、少年は独楽が回るように身を返してみたび盾で守り、三日月刀で賊兵の下腹をかっさばいたのだった。
サー・ウィリアムによって叩きこまれたペレウスの盾使いの技術は、もはや血肉にとけこんだ技と化している。半年近くにもわたる日に数時間の反復練習と、騎士と相対しての受けの特訓によって、防御に限定すれば並みの大人の兵士をしのぐ力量が身についていた。
賊兵ふたりは、相手を見かけどおりの子供とあなどったために生涯の厄日をむかえることになったわけである。くわえてペレウスの攻撃の拙劣さは、鋭利きわまる宝刀がおぎなっていた。ただ当てるだけで刃が相手の服ごと肉に沈みこむような刀なのだ。
軽装の賊兵ふたりが腹腔を裂かれ、はみだしかけた内臓をおさえてのたうちまわる。その凄惨な情景に、ペレウスはみずから手を下したことながら真っ青になっていた。人を殺したのは今日が初めてだった。ふたたび足が萎えそうになる。
しかしこんどは、震えていられる余裕はなかった。
〈扉〉をくぐらず曲輪にいる賊兵は七名ばかりを残すのみだったが、かれらは続々と白刃を抜きつれていた。かれらはもう驚きの色もみせず、怒声もあげず、ただ刃と同じ冷たい殺意を目に光らせているだけだった。この場に残っていた重騎兵の指揮官、プレスターと呼ばれていたやつが、ダマスカス鋼の両手持ち大剣を、黒水にひたした状態から抜いた。
ゆっくりと円状の〈扉〉は収斂して閉じ、黒い宝玉に戻っていった。
曲輪にいる重騎兵――馬を城外においてきているためいまは重装歩兵だが――の面々は、慌てることなく、脱出路をふさごうと二つの門のまえに陣取った。プレスターみずからが大股で闊歩し、第一門のまえにうっそりとたちはだかり、
「小僧、貴様、その武芸をいったいどこで身につけた?」
懐疑の声をかけてきた。
答えは返さず、血に濡れた〈七彩〉を手にペレウスは腹をくくった。
「立って!」
急いで下穿きの紐を結んでいるファリザードに声をかける。それからすばやく、あることをペレウスは彼女にささやいた。
「……一か八かだけれど、やれる?」
まだその足取りはよろめいていたが彼女はペレウスをみつめ、「やる」と短く了意をしめした。ペレウスはうなずいた。
そうだ、やるしかないのだ。これはそういう状況だ。
(ぼくらはとっくに死の淵を走っている――わずかでも止まれば暗黒が追いついてくる)
大剣を肩にかついだプレスターが、もう一歩ずいと進み出た。
「ちょっとおれと剣を交えてみろ、小僧」あからさまに遊んだ調子での提案だった。「その剣の筋をたしかめさせろ。もしおれに勝てば娘とともに逃がしてやろう。どうだ、悪い話じゃなかろう?」
(なにがあってもこいつと戦っちゃだめだ)
その男の一挙手一投足に細心の注意を払いながら、ペレウスは下がった。直感的に悟っていた。この相手はまずい。不意をつけたとしても、一太刀いれられる気がまったくしない。〈剣〉に覚えたすさまじい戦慄ほどではないが、肌が粟立ちそうになっている。
さっきささやいたとおりやるぞと、ファリザードに目配せする。無言でうなずき返した彼女が死んだ賊兵の刀を取る――鞘を拾い、呼吸をあわせてくるりと重装歩兵たちに背を向け、ふたりで駆けだした。
(その重い甲冑では疾走はできないだろう)
もっとも危険な剣士であろう敵から離れ、ペレウスたちの走る先は、ジオルジロスのもとだった。
そのジンの古老は子どもたちが突っこんでくるのに対し、「わたしを人質にでもとるつもりか?」と阿呆らしそうに瞳を細めた。かれはひざをたわめたかと思うと、面倒を避けるように一息に胸壁にとびあがった。ジン族ならではの身ごなし。
「その子犬二匹をさっさと捕らえなおせ」
物憂げな命令が曲輪にふってくる――ペレウスはかれをみあげなかった。最初からそのジンは目的ではなかった。
ジオルジロスのいた場所の後ろに、黒い宝玉が転がっている。
『……閉じこめた力を呼び覚ます方法も、別のダマスカス鋼との接触だ……』その一言を覚えていた。
(〈七彩〉だって、ダマスカス鋼だ!)
しかしながら、そう甘くはいかなかった。拍車をかけて、横から速足で突進してきた騎馬の兵がいた。子供ふたりは度肝を抜かれて、馬蹄にかけられぬようとびすさった。重騎兵は馬首をめぐらして、ふたりと宝玉のあいだに馬体をもってたちふさがった。
そいつが乗っている馬は、ファリザードの愛馬、黎明号だった。
しまった、とペレウスは計算ちがいで脳裏を真っ白にしかけた。
重騎兵たちは城外にじぶんの馬を置いてきたようだから、とっさにすばやい動きができないはずと思っていたのに。
(奪われたファリザードの馬を使われることを想定していなかった。どうしよう? 十数える間に残りの兵が殺到してくる)
しかし、意外な形で救いが来た。
「黎明!」
少女のあげた呼び声につづいて、かん高い音が鳴りわたった。
ペレウスはふりむいた。ファリザードが指笛を鳴らしていた。
それに応えて、それまで賊の重騎兵におとなしく乗られていた黎明号がとつぜんさおだちになり、主でない者をふるいおとした。馬の尻の後ろにころげ落ちた賊兵は、うめいて立ちあがろうとし……黎明号に兜のうえからではあるが頭を蹴りとばされ、昏倒してつっぷした。
ペレウスはつい黎明号をまじまじみあげた。
(おとなしい牝馬だと思っていたんだけど)
主人以外の者が乗れば合図でふるいおとすよう馬を調教する技術が、ファールス人にはあるときく。今のはそれだろう。
ここまでで数瞬――ペレウスはすぐにわれに返った。そんなことを考えている余裕はない。子供たちの目論見に気づいた賊兵が鉄靴を鳴らしてやってくる。
「手綱をとって!」
ファリザードにうながすと、ペレウスは黒い宝玉に駆け寄り、〈七彩〉を突っこんだ。
宝玉が崩壊するようにぐじゅっと溶け、黒水が広がり、円状の〈扉〉がふたたび足元に展開した。それは人間の体液にも似た粘度と温かさで、たちまちペレウスたちを引きこんだ。重い黎明号が真っ先に沈む。ひきつった表情のファリザードが馬の首に抱きついてともに消えていった。ペレウスもすぐに首まで沈んだ。
「馬鹿か、小僧? わがほうの主力はその先に行っているのだぞ。どのみち逃げられはしないぞ」
ジオルジロスの呆れ声を聞きながら息をつめ、本能的なおぞましさと不快感にペレウスは耐えながら頭まで一気に潜り――
そして、位相が反転した感覚があった。
目を開けると水中に逆立ちした姿勢になっており、足元に揺れる水面がみえていた。そばで馬の足が水をかいている。賢い黎明号は、さっさと体勢をなおして首を水面に突きだしたようだった。
ペレウスは自身も体勢をいれかえ、顔から浮上した。
視界に入るのは泉の淵をとりまくナツメヤシの木々――
(朝に通過してきた泉だ)
唇をなめると水は塩辛く、やはりあの飲めなくなっていた隊商路の泉だと思われた。
ペレウスは首をめぐらして、愛馬にしがみつくファリザードを確認した。動揺して水を飲んだのか、彼女ははげしくむせていたが、無事ではあった。岸にはいあがり、ペレウスは手綱をとって彼女と馬をもまた泉から出した。
(ほんとうに移動した。なんてことだ)
ひとまずあの城を脱したにもかかわらず、ペレウスは扉の宝玉のことを思ってぞっとした。
あの賊たちが内陸部にこつ然とあらわれることができた理由、イスファハーン公領の警備隊に追いまわされながらなかなか捕まらない理由、ファリザードの一行に先回りすることができた理由を、かれは知ったのである。
(なんとしても賊の得体の知れない力のことを、イスファハーン公に伝えないと)
そう考えながら〈七彩〉を彼女に返したとき、泉がごぼりと沸き立つように揺れた。
はっとして子どもたちは身をすくめた。
(城のほうから追ってきた)
ファリザードがとっさに鞘に入れた〈七彩〉を鞍につけ、「あぶみに足をかけて上がれ!」とペレウスの背を押した。まだ持っていた盾を捨て、ぎくしゃくと慣れない動きでペレウスが鞍によじのぼったとき、濡れねずみとなった賊が数名、獰猛なうなりをあげて泉から頭をつきだした。
ジンの身軽さで馬上にとびのったファリザードが、ペレウスの前におさまって手綱をとった。少年が少女の胴に腕をまわすや、泉のまわりにめぐらされた木立と柵のすきまをかけぬけ、黎明号は喧騒のなかにとびこんでいた。
そこにも流血が待っていた。
周囲の砂漠は戦場……いや、殺戮の場に変じていた。先に通りぬけてきた軽騎兵たちが、川沿いに逃げてきた人夫を待ち伏せて殺している真っ最中だったのだ。
川が轟音をあげて流れるそばを、賊の軽騎兵が駆けまわり、哀れな人夫たちの乗った馬群を水辺へと追いたて、逃げまどうその背を矢で射ぬいていた。
「人夫たちが……」
黎明号の手綱をさばきながら、やっとのことでファリザードがつぶやいた。彼女はどうしようとばかりに悲痛に表情をゆがめてペレウスをふりあおいだ。少年はむっつりと首をふり、「とまっちゃだめだ。逃げなきゃ」といった。
ファリザードはそれでも思い切れないようだった。
「か……かれらはわたしの気まぐれでここにきたんだ。
それにわたしは領主の一族だ。領民を保護する責任だってあるのに、そのわたしが死んでいくかれらを見捨てて目の前で逃げるなんて――」
「いまのぼくらに、逃げる以外のなにができるんだよ? 人夫たちといっしょに殺されてやるか、あらためて生け捕りにされて賊どものおもちゃになるくらいしかない。
貴種の誇りはけっこうだが、こっちのほうが弱ければ、強がろうとしてもなんにもならない現実はさっきわかっただろ!」
声を荒らげてペレウスは叱咤した。
ファリザードの愚かな優しさ、もしくは無駄な責任感に腹が立っているのではなかった。怒りは、矮小な正論をふりかざすしかない自分の小ささに対してであり、最善の道をほかにみつけられない無力さにだった。
かすかに嗚咽めいた音をのどから漏らし、ファリザードは顔を伏せて川沿いに馬を走らせはじめた。
けれど、逃走に専心したからといってそれで逃げられるわけではなかった。すぐさまこちらに気づいた賊の数騎が、馬首をめぐらせて追いすがってきた。
彼我の速度をはかり、(ふつうに走っていれば追いつかれる)とペレウスはみさだめた。
黎明号は体格が小さい。かしこく優美な馬だが、力強いほうではないのだ――それゆえ、ふたり乗りではおのずと足が鈍る。遠からず賊の馬に並走され、ペレウスたちは鞍から引きずり落とされるだろう。
(馬を走らせやすい川沿いをはなれて、高地に逃げる? いや……だめだ)
隠れるにちょうどよい岩陰が都合よくみつかるならいいが、そうでなければ坂をかけあがることで黎明号が早くへたばるだけだ。
やはり、たったひとつしか、この窮地をのがれる道はない。
「ターバンをもらうよ!」ペレウスはファリザードの頭の濡れた布を取り、右手と歯をつかって器用にほどいた。
その長い布で、彼女の胴と自分の胴を手早く結びつける。「な、なにしてるんだ?」と馬を駆りながらファリザードが疑問を口にした。それにていねいに答えるかわりに、ペレウスは指示をとばした。
「馬ごと川にとびこんで!」
「――川!?」
仰天したファリザードが横手をむいて泥の色の水流をみやる。横に流れる滝のような川の勢いに、彼女はおののいて首をふった。むき出しになったはちみつ色の短髪が振り乱され、飛沫が飛ぶ。
「むり――ぜったい無理! わたし泳げない!」
内陸部のファールス人は騎馬は巧みでも、泳ぎを知らない者が多い。それゆえに足の立たない水はかれらにとって死に直結するものであり、恐怖の対象だ。だからこそ、賊の軽騎兵も、ふたりや人夫たちを川に追いこむかたちの半包囲をかけてくるのだ。
だが、ペレウスは、二の足をふむ様子の少女に強くいいきった。
「ぼくは泳げる! ヘラス人は海の民だ」
かれにとって、荒れ狂う水は活路にみえていた。
都市ミュケナイは島にあり、王宮は海に面した丘の上にあったのだ。ペレウスは多くのヘラス人とおなじく、幼いころから水に親しんでおり、泳ぎは取り柄のひとつといってよかった。といっても故国ではだれもが当たり前にこなすことなので、自慢にもならないのだが。
「だいじょうぶだから川に入って対岸を目指せ! きみはただ静かにしていればいい! いいか、焦るな、水に沈みそうになったら息を吸って、目を閉じて、体の力を抜いておとなしくしているんだ。
ぜったいにもがくな、取り乱すな!」
「そ、そんなのできない……溺れたらきっともがいてしまう……!」
「溺れても苦しくても暴れるな、そのばあいはすみやかに意識を失ってくれ。ぼくが対岸まで連れて行く。そのために布で連結したんだ。
ぼくを信じろ、蘇生法だって知ってる。岸に引き上げたあとでちゃんと生き返らせるから!」
勢いで無茶なことをいっている自覚はあった。
それでも、怖じけづきながらもファリザードは従ってくれた。やけになったように川にむけて矢のように馬を走らせ、乗り入れ――
奔流の勢いに足をすくわれ、黎明号が最初の数歩でいきなり転倒した。
巨大な力が横殴りにぶつかってくる。少年が水練の技能を発揮する余地などなかった。馬体ごと波濤に揉みくちゃにされ、なすすべなく押し流されていく。岸で馬をとめた賊兵たちの姿がみるまに遠ざかっていった。
少女の体ごと馬の首に腕をまわして必死にかじりつきながら、ペレウスは目元をひきつらせた。もしかしてこれはまずくないだろうか。
泳ぎの達者だろうがなんだろうが、人が渡れるような水勢ではない。
完全に濁流に呑まれる寸前に思った。
(いささか考えが甘かったかも)
次の十九話「ふたり旅」との間にEX1「小夜の寝覚め」が入るため、時系列通りに読みたいという方はそちらからどうぞ。
目次の下のほうにEX1が載っています。