11.予兆〈下〉
妖王の娘ファリザード、ミュケナイの王子に悶々として
一方で暗雲たちこめはじめること
走るように足早に離れながら、ファリザードは胸を押さえて思った。
これでもうあいつのことで悩まずにすむ。
この数日、いつなにを要求されるかと、不安で胸が高鳴ってたまらなかった。砂漠に出てから……いいや、かれがファリザードに勝ったときから。
恨まれているならきっとひどいこと、とんでもないことを突きつけられるだろうと思った。耳をちぎられたペレウスが、彼女の手をふりはらったときの目つきが忘れられなかった。
彼女は、強烈なさげすみと敵意のまじった目を向けられたことが、あのときまでなかった。
それまで知っていた人族とかれはぜんぜん違う、と彼女には思えた……彼女の愛する領民たちも、館のほかのヘラス人少年たちも、ファリザードの機嫌をとろうとこそすれ、そんな突き放す目で彼女を見たことはなかった。
夜ごとに毛布をかぶって震えた……うとうとすればすぐ、ペレウスのあの目つきが夢に浮かび、すぐ目覚めた。
いつか来るはずのしっぺ返しと、その内容のことを考えて、まんじりともできなかった。
もし、もしあいつが体を求めてきたらどうしよう。
ううん、どうやら真面目なやつみたいだからそんなことはいわないかもしれないが、「帝国とヘラスとの講和交渉をまとめるために、結婚に納得してもらう」とはいわれるかもしれない。自分の名誉の範囲では高潔でも、国のためとなればそういうことを平気でいってもおかしくないのだもの。
それを面とむかってあいつに切り出されたらどうしよう。
負けたときみたいに強引におさえつけられたうえで、きみはぼくと結婚しろ、なんて正面からはっきりいわれたら。
想像すると怖くて、心臓がどきどきうるさくて、頭がぼうっとしてしまうくらい血流が速まった。
怖くてたまらないのに、毛布がいらないくらい顔が熱くなって、何度も寝返りをうつうちに、明け方をむかえる夜が続いていた。
その苦悩が、こんなにあっさりと終わった。それにあいつはファリザードがヘラス人のだれかと結婚させられるという話すら知らないらしい。
深い安堵のなかに、拍子抜けしたというようなおさまりの悪い感覚がある。
少女は左の胸を強くつかむ。動悸はなかなか終わらなかった。
● ● ● ● ●
同時刻。
列柱そびえる砂色の大広間――襲撃者たちに占拠された、砂漠のなかのひとつの城。
領主プレスターの持つ長大な両手持ちの黒剣が、横殴りにぶうんとうなった。
そのダマスカス鋼の大剣は、受けようとしたジン族の戦士の三日月刀をへし折り、鎖かたびらを裂いて、細い木に斧をうちこむよりたやすく胴体をはね切った。
傭兵をひきいて砦を攻め落としたアングル人は、黒い兜の面頬のなかから、くぐもった黒い嘲笑をひびかせた。
「四人目――
『生き残りの五人のうち、だれか一対一でおれに勝てば、城の者の命を助けよう』と名誉にかけて誓ってやったのに、片っぱしから死んでいくとはどうしたわけか?」
それに死体は答えず、落下した上半身がみがかれた石の床にぶつかり、血と臓物の汁をふりまいて転がり伏す。ほかの屍たちと同じように。
一部始終をみとどけていた砂漠の城の城主は、ひくひくと頬をひきつらせた。その左腕は城が陥落したときの攻防で切りおとされ、きつく巻かれた包帯は赤黒く変色しきっている。
出血でいまにも倒れそうになりながら、気丈に足をふんばって決闘をみまもっていた城主は、ついに憎悪の声を発した。
「賊め、息子を……ヴァンダルの犬めが……殺してやる」
「『殺してやる』? そのファールス語はおぼえてしまった。十字軍なんぞをやっていたときから聞きあきている」
甲冑とマントにおおった肩に大剣をかつぎ、アングル語で、プレスターはさらに笑う。相手が理解するかどうかはおかまいなしに。
「男も女も、みんないう。助けてくれ。殺さないでくれ。おまえたちになんでもくれてやるから。
ときにはこうくる。『家族だけは』と。わたしはどうなってもよい。わが夫だけは妻だけは、息子だけは娘だけは生かしてくれと。
そこで目の前で、そいつが助命を懇願した者を刻んでいると、そのうち叫びはこう変わる。殺してやる。殺してやる。犬ども、ぜったいに殺してやる、と。
だれひとり実行できた試しはない」
血をきるために振られた大剣の尖端が、砂漠の城の城主の胸に向いた。
「さて、ジンの貴族よ……五人目となり、息子たちと兵どものあとを追え。
高貴な者に対する礼儀として、おなじ城持ち領主のおれが首をはねてやろう。平民の首をはねる斧ではなく、名誉あるわがダマスカス鋼の剣で」
言葉はつうじなくとも挑発はつうじる。
怒号をあげて城主はすすみでた。のこった片腕で、息子の三日月刀を拾いあげて。
広間の壁沿いに観戦している、五十人ばかりの襲撃側の兵たちが、にやにやしながら賭けをはじめている。どちらが勝つかという賭けではない――ジンの城主が何合もちこたえるかという賭けだった。賭けの賞品となるのは、城にいた女たちをみなで味わうときの順番である。
ひとりだけが冷めきった声をかけた。襲撃者側にくわわっている、長衣をまとったジン族の男。
「そろそろ遊びすぎだ、プレスター。気をひきしめろ、その城主は妖士だ。あなどっていると片手でもおまえの首を引きぬくかもしれんぞ」
それに応えて、みたび嘲笑が広間に放たれた。
「こんなやつらをあなどるなと?
あの悪魔のような〈剣〉とその配下の戦士どもは避けざるをえなかったが、ここいらの……イスファハーン公領のファールス兵は、ぬるすぎる」
ロード・プレスター・オーモンド――アングルの地の真夜中城の城主――は、ジン族の城主を「さあ来い、来い」とあざけった。
「おれは夜だ。きさまの上に夜が来たぞ」
夜には翼があるという。世界をおおう黒い翼が。
そしてだれの上にも、舞い降りる。