10.予兆〈上〉
ペレウス、サー・ウィリアムの家名を知り、
かつファリザードの言葉に狼狽させられること
砂漠を行く旅では、食事の時間が最大の楽しみである。
涸れた川にそって夜営することがきまったのち、ファリザードの護衛隊の騎兵たちが、イスファハーンからともなってきた一匹の羊をみるみるうちに解体していった。
夕食はたっぷりの干し果物やらくだの乳にくわえ、パンに羊肉の細切れをはさんだもの、香辛料をふった羊の腸のシチュー、それに串にさした羊のあぶり肉が出ることになろう。
にぎにぎしい夕食の準備に背をむけ、ぽつねんと大きな岩に腰かけて、ペレウスは地平線のかなたを見つめている。
岩と礫砂と地表に結晶した塩――その大地が砂漠である。砂ばかりの砂漠よりも、こうした「荒れ地」といったほうがふさわしい砂漠が多い。どちらも不毛の地ということでは似たようなものだが。
そんな荒涼たる風景も、ひとつの取り柄があった。漫然とながめながら考え事をするには向いている。
(サー・ウィリアムはちゃんと逃げたかな?)
ペレウスのとっさの思いつきは、できすぎなほどにうまくいったといっていい。
里帰りした乳母のもとにいこうとするファリザードにくっついて検問を抜け、騎士を逃がすというその計画は、なんの引っかかりもなく進行した。
そう、不自然なくらいになんの問題も起こらなかった。
あのあと、かれは「ぼく個人の荷物運びを探してくる」という名目で市門のまえでファリザードを待たせ、最後の小づかいで人夫の着るような安い服を購入した。
それがすむと今度はサー・ウィリアムの隠れ家にかけつけてそれを頭からかぶせ、適当な荷物をもたせて大急ぎで市門にむかった。
荷物運びの人夫といつわったサー・ウィリアムの身元をあらためられることを怖れていたのだが……その心配はなかった。三十人の兵士をふくめ、五十人ほども人が増えていたのである。兵士たちの水や糧食やテントをはこぶらくだ使いや人夫がどっと増えたので、ペレウスの連れてきた人夫にも、さほど注目しようという兵はいなかった。
イスファハーン公が、家出する娘のために護衛を増やしてさしむけてきたのであった。
あのかた、ちょっとばかり娘に甘すぎやしないだろうか、とペレウスは思う。
街を出て最初の夜に、騎士とは別れた。
『これでさよならですね、サー・ウィリアム』
野営のテントから離れた満天の星の下、ペレウスが握手のためにだした手を、騎士は強くにぎっていったものだ。
『おまえは望外なほど良き従士だった、ミュケナイのペレウス。まさかこうも早くイスファハーンとおさらばできるとは思わなかったぞ』
それからにやりと口のはしを吊り上げた。
『あの街にはよろこんで尻をむけてやるが、おまえの特訓を半ばで打ち切らなきゃならんことだけは惜しいなあ。もうすこし剣を伝えてやれたらよかったんだが。
そのうちまた会うこともあろうさ。そのときやりのこした稽古をつけてやるよ。
あと、きちんと名のっておこう』
せき払いしてかれは最後に告げた。
『オーモンド家のウィリアムだ。サー・ウィリアム・オーモンドがおれの名前だ』
背を向け、水袋と食糧のはいった袋を肩にかつぎなおし、かれは岩と砂のかなたに歩み去っていった……
(かれが砂漠に最近出る賊とはちあわせしたりしませんように――)
「どうした、一人きりで」
少女のせせら笑いが聞こえてきたので、祈りを断ち切ってペレウスはふりむいた。
イスファハーンを出てから数日、すっかり調子をとりもどしたようにみえるファリザードが、腕を組んで背後に立っている。
「飲み物、食べ物ごと荷かつぎ人夫に逃げられるなんてやっぱり情けないやつだな。
あわてて市場で日雇いを選ぼうとするからそういうことになるのだ」
逃げられたんじゃない、逃がしたんだ――ペレウスはファリザードに聞こえないようにひとりごちた。そののち、顔をしかめてぶっきらぼうに彼女にたずねる。
「……なにか話が?」
この数日、妙なことになっている。
かれの視界を、ひんぱんにファリザードの姿がうろちょろしていた。
ペレウスが隊から少し離れて歩いていれば、横に馬を並ばせてちらちらと横目でみてくる。休息や食事のため腰を下ろして一息つけば、離れたところからもの言いたげにこちらをじっとみつめていたりする。
居心地がわるいことこの上ない。
このジン族の大貴族の娘が、意外なほど単純な性格なのだとわかってから、前のように嫌ってはいないが、敬遠したい気持ちは変わっていない。
そしていま、ついに話しかけてきたジンの少女は、「はん」とばかにしたように唇をつりあげた。
「話なら、おまえのほうにこそあるんじゃないのか。これから水と食べ物はどうするつもりだ。わたしの乳母の故郷まで、あと三日は砂漠を行くぞ」
ペレウスはぐっとつまった。
去るサー・ウィリアムにうっかり持たせすぎて、自分のぶんが今日、底をついたのだ。このままだとファールス人たちに「わけてください」と頼むことになるだろう。
(いや、でも、飢えくらいなんとか村まで耐えられれば……おなじファールス人でも村人の慈悲にすがるほうが、ファリザードの護衛にものを乞うよりましだ)
水については、一日先のところに湧き水があるというので、かわきに苦しむことはあってもどうにか耐え切れなくはないだろう……
だが、ペレウスの考えを読んだファリザードが先回りしてきた。
「いっとくが、湧き水だって確実じゃないんだぞ。年によって涸れていたり湧いていたりする。涸れていたらどうする? 水は食べ物とちがって、三日断つのも危険だぞ。とくに砂漠を行くときなんかはな。
なお、近くに父上の旗手があずかっている城があるけれど、そこに寄るつもりはない」
「……それで、きみはぼくになにをさせたいんだ?」
どうせ「ほしければ頭を下げてたのめ」とか、そのあたりの意趣返しだろう。こちらをひんぱんに気にしていたのも、荷物の量を確認して、ペレウスに恩を着せる時期を測っていたにちがいない。
はたせるかな、彼女は口にした。
「わたしの衛兵の荷駄のなかから水と食べものをめぐんでやる。だから……」
(ほら来たよ)
「だから?」思ったとおり、屈辱的な条件をつけられそうなので、ペレウスはうんざりした。
しかしペレウスの色眼鏡での予想ははずれた。
ファリザードは勇気をかきたてるように息を吸い、一息にいったのである。
「『勝者の権利』とやらをひっこめろ」
「……え? ひっこめる?」
「そっちが勝手にいいだしたことだろ。一回負けたくらいで、おまえの思うがままにされるなんて、そんな一方的な話……わたしは受け入れるつもりなんてない。だから、これで全部差し引きにしろといってるんだ」
「えっと……」
ペレウスは噛み合わないものを感じた。
「イスファハーンを出るならいっしょに連れていけ」という要求を彼女に呑ませることで、かれは「勝者の権利」をとっくに駆使している。サー・ウィリアムをともなって市壁を出た時点で、ペレウスの目的は達成されたのだ。
だが、どうやらファリザードは、大きな誤解をしつづけていたらしい。
少年が、人気のない砂漠まで強引についてきたのは、つまりそこで要求をつきつけるつもりだと。
「こ……こんなところまでついてきてわたしになにを要求するつもりか知らないが、もうこんな脅迫は終わりにしろ……でなきゃ水はやらない。それにここにはわたしの兵もいるんだぞ、忘れるなよ。なにかしようとしたら痛い目みるのはおまえだからな」
そういう彼女はよくみれば腕を組んでいるというより、優美な細身をしっかり抱いて震えを押さえていた。強気なことをいいながら声が弱々しくなり、とがった耳が落ち着きなく上下して、内心のおびえがあらわになっている。
ペレウスは憤慨をつきぬけて虚無感と哀愁を抱きはじめた。
かれ自身、「どうせ水と食糧のないぼくの足元をみて、かさにかかった物言いをするつもりなんだろう」と直前まで思っていたので、ファリザードのひどい思いこみに文句をいえる立場かは微妙なのだが、それにしても……
むきになって訂正する気力もなくなり、あっちへいってとばかりに力なく手をふる。
「わかった。わかったから。きみはそれをすみやかに忘れていい」
「ほんとだな!?」
歓喜の声がややしゃくにさわり、じろりと彼女をにらんで、「じゃ、そういうことで、さっそく水をわけてもらうかな」とペレウスは手をだした。ほんとうをいえば、のどの渇きは、すでにかなり耐えがたかったのである。
いそいそとファリザードが、革紐で首からさげていた吸い口つきの革袋をはずして手渡してくる。
ふたをあけ、ぐいとあおる――生ぬるくなっていたが、節約を考えずに飲む水はとても美味かった。
「……あ、もうひとつだけ」ふと思い出して、口元をぬぐいながらペレウスはつけたした。
「夜が寒いけどぼくにはいっしょに寝る相手がいないので、毛布――」
とたんにファリザードが「やっぱり」とばかりに恐怖をありありと顔に浮かべ、腰を落としてかかとを浮かせ、いつでも飛びのける体勢をとった。
「いやだ、おまえとど、同衾なんてしない!」
さすがにペレウスのひたいに青筋が浮きかける。これでも故国では王子として敬意を払われながら育ってきたので、強姦魔のごとき扱いをされて立腹したのだった。
「毛布っていっただろ、その長い耳はまさに『無用の長物』なのか、おいっ!?」
「い、いっしょに寝るなんていうから」
「砂漠の夜営ではたがいの体温であたためあうのが普通なんだろ!
ぼくはそうじゃないから凍死しそうなので、きみの毛布をわけてくれっていってるだけだよっ」
砂漠の夜の寒さをなめていた。いちおう革の天幕はあるが、明け方などは骨に沁みそうなほどなのだ。
ファリザードはたっぷりの毛布にくるまってぬくぬく寝ているらしいが、隊の全員がそんなかさばる荷物を持っていくわけにもいかないので、原始的な保温方法でやりすごす。つまり、それぞれの天幕では兵たちが同僚と身をよせあって眠る。
ペレウスはあいにくひとり寝である……やむなく昨夜までは、兵がつれてきた羊をかかえて寝ていたのだが、その羊はたったいま、夕食の材料となって昇天した。
「……よし、それでこんどこそほんとうに終わりだからな。もうなにも聞かないからな」
疑いぶかく確認してきたファリザードに、ペレウスははいはいと投げやりにうなずく。聞き流しながらもういちど革袋の水をあおった。少女が念をおしてきた。
「この先、おまえと結婚しろとかいわれたって、ぜったいしないからな」
砂漠では貴重な水を噴きだしそうになった。
純情なペレウスは真っ赤になってむせこんだ。せきの合間に切れ切れに抗議する。
「ばかっ……さっきといい、きみの発想はどうなって……なんでぼくがそんな要求っ……」
「……聞いてないのか?」
「なにをだよ!?」
「ならいい、なんでもない! 夕食と毛布はあとで天幕にとどける!」
とつぜん、ペレウスとおなじくらい、かっと顔に血をのぼらせて、彼女は離れていった。
なんだったんだと少年はため息をついて、それから、小さな天幕を張るために立ち上がった。かれひとりで張るのはむずかしく、つぶれかけの不恰好な天幕になるのが常のことである。そんな惨めなものでも、手間取るので早いうちに取りかからねばならないのだった。