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1.最低の出発点

              作画・Garuku様 無断転載禁止

               挿絵(By みてみん)



 かれらは残忍であり、かれらは狡知に長ける。

 かれらは傲慢であり、かれらは意地が悪い。

 かれらは恨みぶかく、かれらは忘れない。


 それらの風聞は真実であっても、真実のすべてではない。


 かれらは強く憎悪する一方、愛するときも深く愛する――種族の特性であり、その情愛はきわめて濃い。

 褐色の肌と優美な容貌をもち、魔法の技術と長い寿命をもつ種族である。


  ――古代ファールス末期の人族の賢者、イブン・アリーの「ジン族の生態」より。

  ――かれはジン族による新ファールス帝国が建国されたとき、ジンを分析したこの書を著したかどで〈剣〉によって殺された。


  ●   ●   ●   ●   ●   ● 


 その赤レンガづくりの城館は、オアシス都市イスファハーンの中心に位置していた。

 庭にはナツメヤシやイチジク、レモンにオレンジの木、薔薇や水仙やチューリップやキンポウゲが満ちあふれている。眺めは美妙にして目を楽しませ、樹花の香気は鼻を甘くくすぐる。訪れる者はこの麗しい庭園にみとれて飽かず立ち尽くしていることだろう。


 ……ただし、猛烈に暑い午後の日差しの中でなければだが。


(なんの用だか知らないがさっさと終わらせてくれ、ファリザード)


 炒りつけるような日光に、十二歳になる王子ペレウスはうんざりしきっていた。

 ゆるく波うつ黒い髪の毛、黒い瞳――少女のような顔立ちと細い体格で、美少年といってもよい繊細な風貌の少年である。ただし、強情そうなしかめ面で口をひきむすんでいることが多く、そのために険のある顔立ちとなっていた。


 汗が目に入りかけて、ペレウスは眉を寄せてまつげをしばたたいた。


(ファールス帝国の内陸部だと、太陽さえも意地悪い)


 いや、客観的にはイスファハーンは美しい。富強をほこるファールス帝国においても有数の、豊かなオアシス都市だ。

 天をつくレンガ造りの尖塔や、いくつもの大理石のアーチ門をもつ館、玉ねぎ型の屋根の寺院がたちならび、建築の都としてつとに名高い。


 だが王子ペレウスにはどうでもよかった。ペレウスはたいていいつも不機嫌だった。かれにとって、この異国の都市イスファハーンは蛇の巣も同様なのだった。

 この一年、不快きわまりない日々を強いられてきたのだ。遠い地からきた少年使節のひとりとしてここに送りこまれて以来ずっと。


(砂漠の太陽とファリザードの悪意とどちらがきついかわからないな。……とにかく、こんなところは大嫌いだ)


 かれと同格の使節である、周囲にいるほかのヘラス人少年たちも、苛立ちをかろうじて隠す表情になっている。

 ただしペレウスとちがい、かれらの面には同じくらい恐怖の色が濃かったけれども。

 ヘラス諸都市からファールス帝国へおとずれた賓客――じつは和平交渉のあいだの人質――であるヘラス人の有力者の子たちは、冷汗と暑さによる汗の双方をかきながら戦々恐々と庭に立ちつくしているのだった。


 人質たちを立たせた前では、ファリザードが快適にねそべっている。

 その少女は木陰にひんやりした大理石の寝台をはこばせて、小さな身にまとっていた透けるような薄物を脱ぎ、大胆にさらした肌に香油を塗らせているのだった。

 ファリザードはペレウスと同年齢の十二歳。ジン族の大貴族の娘だった。この館は、イスファハーン一帯をおさめる彼女の父の城館なのである。


「最近――」


 女奴隷にマッサージを受けながら、美しくも幼いジンの姫はとうとう口をひらいた。


「ヘラス側の傭兵たちが、この一帯を荒らしまわっている。わが帝国とは休戦中じゃなかったのか」


 人族のどんな赤子よりもなめらかな小麦色の肌が、香料入りのオリーブ油につやめいている。その一方で、庭にたたされている少年使節たちをみまわす金色の瞳は辛辣な光をうかべ……花弁のような唇からでる言葉は毒をふくんでいた。


「おまえたちヘラス人というのが救えない愚者であると、また証明されたな。あと何人殺されたら気が済むのだろうね。千人? 一万人? それともヘラスの都市国家のどこかひとつ、皆殺しにしてみせなきゃだめなのか?」


 ファリザードはしゃくにさわるいいかたをして、呆れたように頭をふった。はちみつ色の短めの髪がさらさらと揺れる。いつもの、人族をごく自然にみくだす態度のほかに、怒りの気配がみえかくれしていた。


(おまえが戦っているわけじゃないだろ)と心中で反発するペレウスをよそに、ファリザードは玻璃の器に手をのばし、盛られた干しイチジクをとって白い前歯にくわえた。それから、もごもごといった。


「まったく、休戦協定をそちらから破るなんて、天井知らずの愚行にしか思えない。それとももしかして、西方住まいのアーダムの子(※人間)らは、この戦争をつづけて勝ち目があると思っているのか?」


 ファリザードの嫌味に、ペレウスは気づかれないように拳をにぎりしめた。


(戦ったらヘラスはきっと勝つ、第一次ファールス戦役も第二次ファールス戦役も、自由の土地がファールス帝国を打ち負かしたじゃないか。

 戦ったら……父上や叔父上がかならずおまえらみんな殺してくれる)


 ――だが、そう考えたとき、父王の声が耳奥によみがえってきた。あの勇敢な父王が苦渋の面持ちでぽつぽつ語った話が。


『わかってくれよ、ペレウス。飾らずいおう、おまえは和平交渉のあいだ人質として帝国に送られる。こちらから講和を打診したのだから、かれらの要求はもっともだ。

 講和はぜったいに必要なのだ。

 ヘラスがファールス帝国に、最終的に勝てる見込みはない。

 よいか、ペレウス、おぼえておきなさい。今いちど、ヘラス諸都市をすべて連合させたとしても、帝国の人口はこちらの十倍をかるがると超え、その富は二十倍にも達しよう。

 まして、ヘラス諸都市は、この敗亡のまぎわにあっても連合したとはいいがたい。結束はわれらの苦手なものなのだ』


 ……結束が苦手――ここへきて、それは痛いほど身にしみた。苦々しく、ペレウスは眉を寄せて、セレウコスを見やった。

 セレウコス。ヘラス第一の都市アテーナイの、ほかより年長のその少年は、ふだん指導者を気取っていばりちらす態度からは想像もつかないへどもどした様子で、ようやく反論をはじめた。


「待ってくださいよ、それは本当にヘラス側の傭兵ですか?」


「わが帝国の兵が、なぜわが領民を殺す!?」ファリザードが、猫のようにしなやかで華奢な上体をがばっと起こした。

 ふくらみはじめた乳房の先に桃色の乳首がつんと尖っているのが見えた――が、目のやり場に困るなどと照れている余裕はヘラス側のだれにもなかった。

 ファリザードの激怒の声がひびいた。


「やつらはわが父上の民の穀物と財貨と家畜を持てるかぎり奪って、持てないものはみな焼いている! わが民ごと焼いているんだぞ。同じアーダムの子らであっても、ヘラス人よりずっと従順で良き民をだ。

 掠奪、強姦、破壊、拉致、おまえらヘラス人が、この戦争でヴァンダル人の畜生どもを雇ってやらせてきたことをぜんぶやっているんだ」


「盗賊だってそのくらいする。帝国のこんな内陸まで、ヘラスやヴァンダルの兵が来るもんか」


 ペレウスは反感をおさえかねて、ぼそりといった。

 だがつぶやきは、ファリザードの尖った耳にしっかり吸いこまれたようだった。まだ子供ながらぞっとするほど整った美貌のなかで、金の光を放つ瞳が剣呑にほそまった。


「だまれ、小便王子!」


 ペレウスのゆるく波うつ黒髪の下で、男子にしては繊弱な白い細面がかっと燃えた。

 数瞬のあいだ周りが沈黙して、それから笑いがさざ波のように広がった。ぎこちない笑いではない――遠慮ない笑いで、しかも徐々に笑い声が大きくなっていく。周囲の少年たちは悪意をこめてペレウスをあざけっていた。


 死ねばいい、とペレウスはうつむいて唇を噛んだ。

 すべての蛮族(バルバロイ)は死ねばいい。ヘラス諸都市を滅ぼそうとするファールス帝国のジン族――別名を暗黒エルフ、または砂漠エルフという――はもちろん、「十字軍」などと唱えてファールス帝国に喧嘩を売り、ヘラスを大戦争にまきこんだヴァンダル人どもも。

 だが、いまのペレウスにとってそれ以上に息の根を止めてやりたいのは、ここにいる同じヘラス人、民主政の都市アテーナイや都市テーバイの豚どもだった。


 セレウコスがとりわけ盛大に笑いながらファリザードに話しかけた。かれは明らかに、ペレウスをみんなで笑いものにすることを、少女をなだめる好機として扱っていた。


「小便『王女』のことを許してやってくれませんか。ほら、ご存知のとおり、こいつは顔が女の子みたいなことだけが取り柄なんですから」


 その言葉に、少年たちの笑いはさらに沸き立ったが、ファリザードは微笑もしなかった。

「ペレウスといったな、そこの小便王子。上の口からなにか出すときは、小水よりは価値のある言葉を排出しろ」異論を唱えられたことがよほど腹にすえかねたようであった。


「焼き討ちされた村落では、ヴァンダルの『騎士』が身につけるような全身甲冑を着込んだ賊徒が目撃されている。そんなものをただの賊が着ると思うのか? 昼は日光で蒸し焼き寸前、夜は氷漬けになりそうな沙漠を、金属の鎧をがっちり着こんで渡ってくるのは、狂人でなければヴァンダルの兵だけだ。

 わかったら口をつぐめ、小便。二度とそっちからわたしに話しかけるな!」


 きつくさげすむ口ぶりで吐き捨てる同年齢のジンの少女の前で、ペレウスは屈辱に真っ青になった。


 が、ファリザードを香油で按摩していた髪の長い女奴隷が、顔をあげて、気づかれないよう一瞬だけペレウスに視線をおくり、片目でぱちりと瞬きしてみせた。

 奴隷の娘――ゾバイダの手のひらが、ファリザードのくびれが目立ちはじめた腰のあたりを丹念に這いまわりはじめる。ファリザードが、ん、と甘い声をもらして陶然と弛緩した。くすぐったげに両足を交互にぱたぱた上げ下げし、彼女の種族をあらわす尖った耳をぴくぴく動かす。ファリザードが、むき出しの丸いお尻までもじもじよじりはじめると、さすがに見ていられなくなって赤面した少年たちは気まずげにそっぽを向いた。


 執拗で恨みを忘れず、狡猾で残忍で尊大で、気まぐれなくせに激しい――他の種族がささやく暗黒エルフ=ジン族の悪評のなかでも、淫乱という評判はことのほか有名である。

 この砂漠の豹のような美しい種族は、長い長い寿命の大半を、戦いか肉欲にふけるかで過ごすのだと。


(外見だけがきれいで、中身はねじけているのがジンってやつらだ)


 ファリザードへの恨みごとはともかく、ペレウスは周囲の注意が散ったことにほっとし、ゾバイダに感謝の目を向けた。歳上の娘は、かすかに笑みを浮かべてかれに応えた。

 奴隷ではあるが、ゾバイダだけがいつもよくしてくれる。ここにきて最初に、彼女をかばう出来事があったからだろう。

 もっともそれは、同じヘラス人の少年たちにからまれる発端にもなったのだが……


………………………………

………………

……


 ファリザードが賊のことでヘラス人たちを呼びつけてなじったのは、単なる当たり散らしであったらしい。

 按摩のうちに、大理石の寝台の上でくうくう寝息をたてて昼寝しはじめたジン族の姫を残し、やれやれといった面持ちで少年たちは館のほうへ引き返した。


 だが薔薇のつる這う赤レンガの塀をまわりこんだとたん、ペレウスは背中を突き飛ばされた。

 前のめりにたたらをふんでふりかえると、セレウコスが取り巻きとともにいやらしい笑みを浮かべていた。


「おいおい、王子さま、あの奴隷女に何をしたんだ。熱心に色目を送ってきていただろう。すました奴だと思ってたが、だいぶ手がはやいな。

 色遊びは故郷の島でおぼえてきていたってわけか」


 ゾバイダとの目線のやりとりを気づかれていたようだった。

(無視しなければ)ぷいと顔をそらして足早に歩みさろうとした……が、すでに囲まれていた。セレウコスがにやけ顔を肩越しにぬっと突き出して、「あの奴隷とはもうやったんだろ、本当のことをいえよ」と歯をむきだした。

 ペレウスは勇気をふるいおこして、セレウコスをにらみつけた。


「僕はそんなことはしない。彼女とはそんなことは一切ない。セレウコス、あんたも背負ってる都市の体面というものを考えたらどうだ。

 そういう……あちこちに……彼女にまで迷惑がかかるようなおふざけを口にするな」


 また殴られるかと思った――が、セレウコスは大仰に肩をすくめ、「みんな聞いたか。こいつらは清らかな仲だそうだぜ」と声をはりあげた。

 まるで友達として扱ってでもいるかのように、セレウコスがペレウスの肩に腕をまわしてくる。


「やってないだと? 嘘つけよ。おまえと奴隷女がいっしょにいるのを見たやつがいるんだぞ」


 ペレウスはどきりとした。

 それもまた事実だ――ゾバイダとは、人目を盗んでたまに落ちあっていた。

 セレウコスたちが邪推するようなことはない。しかし、数歳ほど歳上の、異国の少女とささやかな秘密を共有していることに、まったく胸の高鳴りを覚えていないわけではなかった。

 それでも、ペレウスは重ねて言い切った。


「してない! 彼女のことでそれ以上妙なことをいうなら……」


「……『ジン族にいいつける』。臆病者の言葉は聞きあきたよ。

 ペレウス、ペレウスよ、俺にはわからんな。あの若い奴隷はなかなかそそる身体じゃないか。肌はオリーブ色で腰にはむっちり肉がついていて、遊び相手にはちょうどいいだろ。

 しかも、どう見てもおまえに惚れてるぜ。おれたちのおかげだ、感謝してほしいね。

 それでだ、なんで手を出してないんだ?

 ああ、わかった。おまえ童貞だろう。それで母親以外のおっぱいを吸うのが怖いんだな」


 どっと嘲笑がわいた。ファリザードの前で笑われたときよりももっと盛大な笑い。

 真っ赤になるペレウスの横で、セレウコスが「もしかして、信じられないが」と、はっとばかりに目を見開いて唇をすぼめた。


「まさかとは思うが、まだ精通してなかったりするのか、おまえ?」


 ペレウスは下唇をかみしめた。


(こんな下劣なやつが世の中にいるなんて、ミュケナイの王宮にいたころは思わなかった)


 いっそこの場でむしゃぶりついて叩きのめしてやりたい。だが無理だ。

 セレウコスは十五歳。集まった者のうちでは最年長で、身体もいちばん大きい。

 十二歳のペレウスが取っ組み合いで勝てる相手ではなかった。それに、ペレウスに味方するものはいないが、アテーナイのセレウコスは取り巻きが何人もいるのだ。


 やりもしないうちから怯えているのではない――やったのだ、一度。

 そして、数人に取り押さえられてさんざんに殴られ蹴られ、羊の糞を顔に塗られた。最後まで抵抗の意志を失わずにらみつけているのが精一杯だった。


(宮殿にいたころ、地理や詩歌じゃなくて、拳闘や格闘(パンクラティオン)を学んでおけばよかった。もっと市井に出て、世の中がこういうものだと知っておけばよかった)


 ペレウスは、ヘラス都市国家のひとつ、クレタ島にある都市ミュケナイの王子である。ミュケナイは、都市アテーナイに取って代わられるまでかつて「紺碧の海」を支配していたのだ。ミュケナイ王族の矜持は『ヘラスでもっとも古い血筋』という由緒であり、それはペレウスも誇りにしていた。


 だが、ファールス帝国のジン族や、ここにいる民主制の都市の子息たちは、珍種の動物ほどにもその血に敬意を払わなかった。いや、セレウコスたちは、かえって悪い方向にその血をあげつらう傾向があるくらいだ。


 ペレウスは狙い打ちにされていた。


………………………………

………………

……


 ――最初からそうではなかった。一年前、和平交渉の人質としてイスファハーンに来たときは、まだ。

 いや、民主政の連中とは互いに関心をもっていなかったというのが正しいが。


 しかしそのころから、セレウコスの我が物顔の態度は目についていた。偉大なる都市アテーナイ――ヘラスの名声を高めた都市。人質にされるくらいだから、そのアテーナイの有力者の息子なのだろう。かれはその母都市の威勢をかさにきて、控えめにいっても驕りたかぶっているように見えた。そしてまた、実際に都市テーバイや都市コリントスといったアテーナイ傘下の同盟都市からきた少年たちは、セレウコスの機嫌をそこねまいとおもねっていた。

 いつしかかれらは異国にあって徒党を組み、ジン族の目の届かないところでは好き放題にふるまうようになっていた。


 ヘラスが恋しくてたまらないペレウスたち一部の者とちがい、かれらはどんどん帝国に馴染んでいった。それは悪い意味での順応であった。異国の酒を浴びるように飲み、街に繰り出して騒いだ。自分たちがジン族にでもなったかのように、異国の奴隷や下民を徹底的にさげすんだ。そして、とりわけ異国の女を好んだ――セレウコスは、ファールス帝国の美しい女や少女たちにいたく関心をしめした。


 娼婦を買うだけならまだしも、セレウコスはイスファハーン公の所有する奴隷にまで手をだそうとしたのだ。黒髪のゾバイダに。


 ある日、屋敷内で、アテーナイの少年がゾバイダに言い寄っているところに出くわし、ペレウスは顔をしかめた。セレウコスはどう見てもぶどう酒の飲み過ぎで酔っ払っており、ゾバイダは身にまとった布をにぎりしめられて離してもらえず、円柱に押しつけられておびえていた――そのように見てとり、ペレウスは声をかけた。


『すこしお酒を過ごしているよ、セレウコス。そういうことはやめたらどうだろう』


 最初は穏やかに話しかけたのだ。

 しかし、掣肘するものがそれまでいなかったセレウコスの増長ぶりを甘くみていた。かれはきょとんとしてペレウスに目をむけ、ヘラス人とみてとるや、たちまちに顔を怒りで赤黒くした。


『なんだ、ちび。アテーナイの代表できたおれに意見しようというのか。道理をわきまえない貴様はどこの田舎者だ?』


『ミュケナイのペレウスだ』


『ミュケナイ? ああ、昔、王妃が牛とまぐわって怪物を生んだところだな。おまえも人の恋路にちょっかいを出さず、どこかの牝牛を相手にしていろ』


 伝わる神話まで持ち出されて挑発され、かちんときて、ペレウスは言い返したのだ。


『アテーナイの民主政が影も形もなく、その土地にレンガの建物すら数えるほどしか建っていなかったころ、ミュケナイはすでに大船団で紺碧の海を制覇して、クレタ島に大理石の宮殿を築いていたんだ。

 成り上がり者ほど、成り上がったのちは下々への寛容を忘れるのだな。品位のそなわった真の支配階級であれば奴隷にやさしくしてやるものだ。まして彼女はおまえの持ち物じゃない。無理を強いようとするならジン族を呼んでくるぞ』


 ……ゾバイダを助けたことを、まちがっていたとはペレウスは決して思わない。

 けれど、やはり子供だったのだといまならわかる。

 セレウコスはいったん赤黒い顔のまま引き下がったかにみえたが、恥をかかされたかれが復讐しにくるだろうことを、もっとわきまえておくべきだったのだ。


 それから数日後の夕刻前、『酒神バッカスにかけて仲直りしようぜ』と、セレウコスはぶどう酒の革袋を手に、書をつみあげたペレウスの部屋に来たのである。


『悔いているんだ。おまえのいうとおりだよ、あんなことをするべきじゃなかった。これからはつつしむことにする。ヘラス人同士で仲違いするのもよくないよな、これからの友誼のために酒を酌み交わそう』


 ペレウスも最初は警戒していた。だが、セレウコスの押しは強く、いかに自分が反省しているかを、涙までにじませて切々と説いたのだ。

(不品行が故国に伝わるのが怖いのだろうか)とペレウスは推測をめぐらし、そして、最終的にかれの言葉を信じた――愚かにも。

 たぶん、セレウコスがこういったのがとどめだったように思う。


『おまえと飲み交わすからと、あの奴隷の娘に謝るついでにもらってきた酒だ。あやしいものなんか入ってないよ、ほら、先に飲んで見せてやるから』


 ……たしかに、ぶどう酒はただのぶどう酒だった。

 あとから知ったことでは、ゾバイダにもらったというのは嘘だったが。とにかくそのとき、ペレウスは、じゃあ一杯だけなら――と金の杯をあおったのだ。


 その酒は美味しかった。そして、故郷の味がした。

 セレウコスがいった。『知っている味だろう? そいつはミュケナイからイスファハーン公に贈られた酒らしいぞ』

 子供のペレウスは、父王には水で薄めたぶどう酒しか飲ませてもらえなかったが、このとき飲んだ酒は原酒の濃厚な風味だった。


 ただ一杯で白い頬を染め、とろんと瞳を溶かしたペレウスに、セレウコスは裏表なさそうな明るい笑い声をあげ、『そら、うまいだろう。もっと飲んでくれよ』と、自分も飲みながらどんどん注いだ。レモン水で割るのもいいぞ、こっちはシナモンの粉を入れて燗をつけて飲むやり方だ――などなど、手をかえて次々ペレウスに飲ませてきた。

 ペレウスは、警戒心がほぐれていくのを感じていた。いつしかセレウコスに心を許して、勧められるままに飲んでいた。いちどアテーナイの図書館には行ってみたいんだ、あそこの蔵書はすごいって聞く――泥酔状態となって、そんな打ち明け話をするほどに。


 尿意をおぼえて、便所に行こうとよろめいて立ち上がったときだった。『どこへ行くんだ、もう飲まないのか』とセレウコスが聞いてきた。『うん、そろそろ……』そう答えたペレウスに、セレウコスは『ふうん、そうか』とつぶやくと、いきなり飛びかかってきた。


 驚くひまもなかった。十五歳にしては屈強なセレウコスは、生まれてはじめて原酒を飲んでふらついていたペレウスを、たちまち組み伏せた。

 かれはのしかかり、ペレウスの腹にどすんと尻を下ろして動きを封じると、片手でペレウスの口をふさいできた。その一連の動作はいやに手慣れたものだった。そしてペレウスの間近に、ごつい顔を近づけて笑った。鼻息荒く鼻孔がふくらみ、その目は暴力の快感と……恐ろしいことに情欲にぎらついていた。


『実をいえばなあ、男娼を抱いたことくらいはあるのだ。そう悪いものでもなかったぞ。おまえの顔の造作は、あのときの男娼よりずっとおれの好みだ』


 そのとき感じた恐怖をなんといえばいいのだろう。ペレウスは酔いが消し飛ぶほどにおののいた。

 ヘラスにはたしかに男が男児を愛する風習がある――だが、ペレウスは、自身がセレウコスの寵童にされるなどまっぴらだった。必死にもがき、口をふさいでくる手に爪を立ててかきむしった。ひっかかれる痛みを気にもせずセレウコスはもう片方の手を伸ばしてきた。肩口にきたその手は、乱暴にペレウスの長衣ヒマティオンを引っ張り、はぎとろうとした。


『おれを奴隷女の前でこけにしやがった罰を与えてやる。これなら、人に告げ口できるものじゃあないだろう?

 奴隷にはけ口を見出すのがだめなら、王族が肩代わりしてくれよ。「下々への寛容さ」でもってな』


 ――腹の上に座りこまれていて動きがとれず、ぶどう酒を飲み続けたことにより膀胱は圧迫されていて……そして、ほかのどんな屈辱より、犯されることだけはいやだった。


 漏らした。


 ペレウスが尿でじんわり腰の前の布を濡らしたとき、すぐにはセレウコスは気付かなかったが、湿った感触が尻に伝わったことで飛び上がるようにしてかれから離れ、罵った。

 そして、


『みんな見ろよ、これがミュケナイの神々しき「ヘラス最古の王族」だぞ。酒をたっぷりきこしめしたあげく、服を着たままだらしなくお漏らししやがった』


 暴れるペレウスを力まかせに引きずり、セレウコスは部屋から出て叫んだ。庭で格闘の練習をかねて取っ組み合いの遊びをしていたヘラス人の少年たちの前に、かれを放りだしたのだ。


 ペレウスが小便を漏らしたという話は、セレウコスと取り巻きたちによって次の日には屋敷じゅうに広められていた。

 どういうわけかヘラス人だけでなく、ファールス人までが知るようになっていた。


 ファリザードによって、それをペレウスは教えられた。

 ヘラスの少年たちに応接しながら、毎日ものうげに長椅子に寝そべり、話を聞き流しながらお菓子をかじっているだけだったジンの姫は、その日は身を起こしていた。

 そしてペレウスを見るや、『酔っ払って漏らしたんだってな』と手をうって嘲弄したのだ。

 ジンというのは、意地悪い種族だという話だった。


 傷ついており、それでも誰かに真相をいう気になれなかったペレウスは、その瞬間からファリザードをセレウコスの次に憎み、そしてジン族全体をあらためて憎んだ。


………………………………

………………

……


 思い返すだに、屈辱が酸のように胸を焼く。

 ペレウスはあごをひいてぎりと奥歯をかみしめた。それは強情なかれの癖だった。


(腕力で勝てなかろうと、何度袋叩きにされようと、かけらも気弱になってたまるものか)


 その決心の矢先、セレウコスが笑顔を、こちらの鼻先をかじりとりそうなほど近づけてきた。


「ところでペレウス、ここしばらく、おれたちからずいぶんと逃げまわってくれたじゃないか、なあ」


 間近からペレウスは憎悪をこめてその顔をにらみつけ、昂然と吐き捨てた。


「おまえたちといっしょの場になどいられるものか。魂が腐る」


 いささかもひるんだ様子のないかれの罵りを受けて、セレウコスの笑みが醒めた表情になる。


「……あいかわらず愚かで生意気な野郎だな」


 いきなりの殴撃を食らう――腹部――予想して腹を固めていたため苦痛は軽減できたが、それでも息がつまる。ペレウスは体を折ってうめいた。

「なにをふらふらしてんだよ、坊主」セレウコスの取り巻きたちが追従してさんざめき、ペレウスの肩をどやしたり頭を小突いたりしてくる。


「何日かな? 四日かそのくらいは、おまえの綺麗な顔をまともにみていなかったぜ。そろそろ会いたくてたまらなくなっていたところさ」


「おいおい、おまえやっぱりこのペレウスに妙な気を起こしてたんだな」


「まあまあ、わからなくもないさ。この小便王子ときたらついているのが怪しいくらいのひょろひょろ野郎だからな」


 投げかけられる嘲笑の渦中で、ペレウスは腹をおさえて貝のように口をつぐんだまま、鼻にしわを寄せた。ひとつ確認する。


(こいつら民主政の都市のやつらは、ヘラス人だが僕の敵だ)


 それはつまりこのイスファハーンにいるヘラス人のうち、半分が敵ということだった。

 のこり半分は王政の都市からきた子たちだったが、かれらが味方というとそういうわけでもない。

 王政都市の子らは、たまに気の毒そうな目をペレウスに向けはするものの、いっさい関わってこようとしなかった。


 実際今日まで、かれらはまったくかばおうとしてくれなかった。いまもだ。目をそらして先に行き、ふりかえろうとすらしない。

 ヘラス第一の都市アテーナイの者の機嫌を損ねるなと自分たちの都市から言い含められているのかもしれないが、それにしても……


(いや、他人になにか期待したり、信頼したりするのが間違いなんだ)


 ペレウスはいきなり地を蹴って人の隙間をぬうように囲みを飛び出した。伸びてきた手を払いのけて逃げる。足だけは速かった。服装は、以前はヘラス風の長衣を身につけていたが、からまれるようになってからは、つねに走りやすい半袖の短衣にしていた。

 おもしろがって民主政都市の連中が追いかけてくる。


 ペレウスは庭に流れる何条もの細いせせらぎをとびこえ、館に背をむけて潅木の木立に走りこみ、歯を食いしばって走りつづけた。


(民主政都市のやつらは敵だ。ジン族とおなじように敵だ)


 敵には、いつか目にもの見せてやる。


(戦い方を、だれかから学ばなければ)


 走るうちにペレウスは決意していた。これまで、僕はあまりに無為に生きすぎた。歌や物語や学問なんて、多少知っていたからどうだというんだ。


 歌にうたわれる英雄のような勇士に、自分がならなければ――さしあたり、セレウコスを叩きのめせるくらいの。

 いつかは将軍である叔父上にかわって戦場で兵をひきい、ファールス帝国の脅威をヘラスから一掃できるくらいの。


ファールスは「ペルシア」の語源になったイランの一地方名です。


よろしければお付き合いください。

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[気になる点] 内容がポルノじみている。 ムーンライトノベルの方に移した方がいいのでは。
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