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第2話 勉強ができない少女



 「まさかとは思うけど…」


 俺は、ゆっくりと少女の頭を見た。


 黒く艶のある髪のあいだから、にょきっと突き出た二本のツノ。


 山羊みたいな感じじゃない。


 もっと硬そうで、もっと鋭くて、なんというか、ゲームに出てくる竜人とか魔族とか、そういう種族が頭につけてそうなやつだった。


 いや、つけてそうというか。


 生えてる。


 どう見ても生えてる。


 根元の部分が髪の毛に隠れているから余計にリアルで、カチューシャとかそういうレベルじゃなかった。というか、もしこれがカチューシャだったら職人の本気がすごすぎる。文化祭の小道具係に国家予算が投入されている。


 「それ、本物?」


 「何が?」


 「ツノ」


 「本物だけど」


 「……」


 「……」


 沈黙が落ちた。


 風が吹いた。


 草が揺れた。


 ひしゃげた自転車の車輪が、カラ……と小さく鳴った。


 いや待て。


 待て待て待て。


 普通の女子高生は、頭からツノを生やしていない。


 普通の女子高生は、高さ三メートルくらいありそうな畦道から、何事もなかったみたいに飛び降りてこない。


 普通の女子高生は、血を拭いてくれる時の手がほんのり冷たいのに、妙に熱を帯びていたりしない。


 そして何より。


 「……ここ、どこ?」


 俺は、ようやくその質問を口にした。


 今さらだった。


 転んだ時から、いや、転ぶ前から。


 何かがおかしいとは思っていた。


 俺が下っていたはずの坂道は、もうどこにもなかった。見慣れたガードレールも、苔だらけのカーブも、朝になるといつも犬の散歩をしている爺さんもいない。


 代わりに広がっていたのは、妙に広い畑だった。


 田んぼじゃない。


 畑だ。


 それも、俺の知っている畑とは少し違う。


 土の色が濃い。まるで墨を混ぜたみたいに黒く、ところどころに青白い光が粒みたいに浮かんでいる。葉っぱの形も変だった。キャベツみたいなものが畝に並んでいるのに、その葉脈が金色に光っている。


 遠くには石造りの家があった。


 瓦屋根じゃない。木造でもない。白い石を積み上げたような壁で、柱がやたら太い。教科書で見た古代ローマの建物みたいだった。


 それなのに、その屋根にはテレビアンテナみたいなものが立っていて、家の横には電柱らしきものまである。


 ただし電線の代わりに、空中に細い光の線が張り巡らされていた。


 なんだこれ。


 日本?


 いや、違う。


 外国?


 いや、もっと違う。


 テーマパーク?


 いや、朝っぱらから自転車で転落してテーマパークに入場するやつがどこにいる。


 「ここはアクロポリス」


 少女はあっさりと言った。


 「アクロポリス……?」


 聞いたことがあるような、ないような。


 いやアクロポリスって、たしかギリシャの丘とか神殿とか、そういうやつじゃなかったっけ。


 世界史の授業で先生が言ってた気がする。


 でも目の前の景色は、ギリシャというよりローマっぽい。いや、俺の知識なんて教科書とゲームくらいだから、そんなに詳しくはないんだけど。


 「知らないの?」


 「知らないよ。俺、学校行く途中だったんだけど」


 「学校?」


 少女が首を傾げた。


 その仕草は普通にかわいかった。


 ツノさえなければ。


 いや、ツノがあってもかわいいと言えばかわいいんだけど、今はそれどころじゃない。


 「そっちの学校?」


 「そっち?」


 「壁の外」


 「壁の……外?」


 また変な単語が出てきた。


 壁。


 外。


 何を言っているんだろう。


 「君、名前は?」


 「先に自分から名乗るのが礼儀じゃない?」


 「え、あ、そうか。俺は……」


 名前を言おうとして、なぜか一瞬だけ詰まった。


 おかしい。


 自分の名前なんて、忘れるわけがないのに。


 なのに喉の奥に引っかかったみたいに、すぐには出てこなかった。


 「……神谷、春斗」


 「カミヤ、ハルト」


 少女は、音を確かめるみたいに繰り返した。


 「変な名前」


 「初対面でそれ言う?」


 「私はイヴ」


 「イヴ?」


 「イヴ・アウレリア・ドラコニア」


 「長っ」


 「失礼なやつだな」


 イヴと名乗った少女は、少しだけ眉を寄せた。


 怒ったのかと思った。


 でもすぐにふいっと視線をそらして、俺の自転車を見た。


 「それ、乗り物?」


 「まあ、一応」


 「壊れてる」


 「見ればわかるよ」


 「直せないの?」


 「俺が聞きたい」


 自転車は、もう自転車ではなかった。


 前輪が完全に歪んでいる。ハンドルも変な方向を向いているし、チェーンは外れている。カゴから飛び出した教科書は泥だらけで、数学のプリントが風に吹かれて畑の端まで転がっていた。


 最悪だ。


 遅刻どころじゃない。


 というか、学校に行けるのかこれ。


 いや、その前に。


 ここから帰れるのか?


 「なあ、イヴ」


 「何?」


 「ここって、本当に日本じゃないの?」


 「ニホン?」


 「えっと、国の名前。俺が住んでるところ」


 「知らない」


 即答だった。


 心臓の奥が、すうっと冷えた。


 知らない。


 たった四文字なのに。


 その言葉が、やけに重く聞こえた。


 「じゃあ、潮崎町は?」


 「知らない」


 「山ノ瀬高校は?」


 「知らない」


 「国道……えっと、三十九号線」


 「知らない」


 「コンビニは?」


 「コンビニ?」


 「スマホは?」


 「スマホ?」


 「電車は?」


 「デンシャ?」


 ダメだ。


 全部通じない。


 いや、言葉は通じている。


 日本語で会話している。


 それが逆に怖かった。


 知らない単語だけが、綺麗に抜け落ちている。


 まるで同じ言葉を話しているのに、住んでいる世界だけが違うみたいだった。


 「じゃあ、ローマは?」


 何気なく言ったつもりだった。


 だが、その瞬間。


 イヴの表情が変わった。


 さっきまで少し気だるそうで、どこか眠そうだった目が鋭く細められる。


 空気が、ピンと張り詰めた。


 「……誰から聞いたの?」


 「え?」


 「ローマの名を、誰から聞いた?」


 「いや、学校で習っただけだけど」


 「学校で?」


 「世界史の授業で……」


 言いかけて、俺は口を閉じた。


 世界史。


 そうだ。


 俺にとってローマは、教科書の中にある過去の国だ。


 古代ローマ帝国。


 カエサルとか、アウグストゥスとか、コロッセオとか、水道橋とか。


 でもイヴの反応は、過去の国を聞いた時のものではなかった。


 今もそこにあるものを、触れられたくないものを、いきなり口にされた人間の反応だった。


 「ハルト」


 「はい」


 「君は、壁の外から来たんだね」


 「たぶん……?」


 「たぶんじゃない。ツノがない。魔力の匂いもしない。なのに、言葉は通じる。ローマの名を知ってる」


 イヴは俺の周りをぐるりと回った。


 なんか検品されている気分だった。


 「服も変。靴も変。鞄も変。乗り物も変」


 「そこまで言う?」


 「でも、制服は少し似てる」


 「俺もそう思った」


 「つまり、君は境界を越えて落ちてきた」


 「境界?」


 「壁」


 「さっきから言ってる、その壁って何なんだよ」


 俺がそう聞いた時だった。


 イヴは畑の向こうを指さした。


 「見える?」


 「何が?」


 「空の端」


 言われて、俺は空を見た。


 青い空だった。


 雲が流れている。


 朝の光が眩しくて、鳥のようなものが遠くを飛んでいた。いや、鳥にしては翼が大きすぎる気がする。見なかったことにしたい。


 空の端。


 山の向こう。


 畑と石造りの村のさらに先。


 そこに、何かがあった。


 最初は雲かと思った。


 でも違う。


 空が、そこだけ縦に切れている。


 ガラスに薄く罅が入ったみたいな、透明な線。


 遠すぎてよく見えないのに、見えてしまう。


 その線の向こう側に、ほんの一瞬、見覚えのある景色が揺れた。


 ガードレール。


 杉の木。


 濡れた坂道。


 俺が今朝、下っていた道。


 「……あ」


 声が漏れた。


 そこにあった。


 確かにあった。


 俺の世界が。


 でも次の瞬間、景色は水面みたいに揺らいで消えた。


 残ったのは、青い空と、透明な亀裂だけ。


 「今の……」


 「外側の反射」


 「反射?」


 「壁は鏡みたいなもの。こっちからは外が少しだけ見える。でも触れない。向こうからは、たぶん何も見えない」


 「じゃあ、俺はなんで入ってこれたんだよ」


 「知らない」


 「知らない!?」


 「私に聞かれても困る。私は農家だし」


 「農家!?」


 思わず大きな声が出た。


 イヴは不満そうに頬を膨らませた。


 「何。悪い?」


 「いや、悪くはないけど……」


 竜っぽいツノ。


 長い名前。


 アウレリアとかドラコニアとかいう、いかにも偉そうな響き。


 そんな少女が、自分のことを農家だと言った。


 情報量が多すぎる。


 「えっと……イヴは、農家なの?」


 「そう」


 「そのツノで?」


 「ツノは関係ない」


 「制服で?」


 「登校前に畑を見るのは普通」


 「普通なの?」


 「普通」


 普通とは。


 俺の知っている普通が、ここに来てからずっと崩壊している。


 「で、あれは?」


 俺は金色に光るキャベツみたいな野菜を指さした。


 「月光キャベツ」


 「キャベツなの?」


 「キャベツ」


 「光ってるけど」


 「月光だから」


 「朝だけど」


 「細かい男だな」


 理不尽。


 するとイヴは畑の中に入って、しゃがみ込んだ。


 土を指でつまみ、ふんふんと匂いを嗅ぐ。


 その姿だけ見ると、本当に農家っぽい。


 ただし頭にはツノがある。


 「昨日、魔力肥料を入れすぎたかも」


 「魔力肥料?」


 「成長を早める肥料」


 「へえ」


 「入れすぎると爆発する」


 「へえ、じゃない!!」


 俺は反射的に後ずさった。


 今、爆発って言った?


 キャベツが?


 畑が?


 「大丈夫。たぶん」


 「たぶん!?」


 「今朝はまだ爆発してない」


 「今朝はって何!?」


 ツッコミが追いつかない。


 朝から自転車で転けて、異世界に落ちて、ツノの少女に助けられて、光るキャベツが爆発するかもしれない畑にいる。


 俺の人生はどこで分岐を間違えたんだろう。


 たぶん起きるのが遅かったところだ。


 いや、違うかもしれない。


 そもそも山の上に家を建てた両親が悪い。


 「ハルト」


 「何?」


 「君、帰りたい?」


 イヴが、不意に真面目な声で言った。


 俺は、すぐに答えられなかった。


 帰りたい。


 当然だ。


 母さんは今頃、俺が学校に着いたと思っているだろう。担任は遅刻扱いにするかもしれない。昼になっても連絡がつかなければ騒ぎになる。壊れた自転車が山道のどこかに残っているなら、事故だと思われるかもしれない。


 俺は、家に帰らなきゃいけない。


 学校に行かなきゃいけない。


 いつもの町に戻らなきゃいけない。


 でも。


 さっき空の端に見えた景色は、あまりにも遠かった。


 手を伸ばしても届かない場所に、自分の世界がある。


 その感覚が、胸の奥をぎゅっと掴んだ。


 「帰りたいよ」


 俺は言った。


 「当たり前だろ」


 「そっか」


 イヴは、少しだけ目を伏せた。


 「なら、私と来て」


 「どこに?」


 「村」


 「村?」


 「ここで話してても仕方ない。境界のことなら、先生の方が詳しい」


 「先生?」


 「学校の先生」


 学校。


 その単語だけは、妙に現実的だった。


 異世界にも学校があるのか。


 いや、制服を着ている時点でそうなんだろうけど。


 「先生に聞けば、帰り方がわかるかもしれないってこと?」


 「わからないかもしれない」


 「そこは希望を持たせてくれよ」


 「嘘は嫌い」


 イヴは立ち上がり、スカートについた土を払った。


 そして、俺のカバンを拾い上げる。


 「重っ」


 「教科書入ってるからな」


 「勉強道具?」


 「ああ」


 「見せて」


 「え?」


 イヴは俺の返事を待たずに、カバンを開けた。


 「ちょ、勝手に見るなよ!」


 「ふむ」


 中から取り出したのは、数学の教科書だった。


 泥が少しついている。


 イヴは表紙を見て、ぱらぱらとページをめくった。


 そして数秒後。


 眉間に深い皺を寄せた。


 「……何これ」


 「数学」


 「呪文?」


 「違う」


 「この記号、魔法陣の補助式に似てる」


 「いや、方程式だよ」


 「ほうていしき」


 「知らないのか?」


 「知らないわけじゃない」


 「本当か?」


 「少し苦手なだけ」


 そう言いながら、イヴは教科書を逆さまに持っていた。


 俺は黙って向きを直した。


 イヴは耳まで赤くなった。


 「……わざと」


 「絶対違うだろ」


 「わざと」


 「はいはい」


 竜のツノがある少女。


 異世界の農家。


 壁の中の住人。


 そんな大層な存在に見えたのに、数学の教科書を逆さまに持つ姿は、少しだけ普通の女の子みたいだった。


 「ハルト」


 「今度は何?」


 「君、勉強できる?」


 「まあ、人並みには」


 実際には、人並みよりちょっと下かもしれない。


 特に数学は得意じゃない。


 だけど、異世界の少女に対して見栄を張りたくなる程度には、俺にも男子高校生のプライドがあった。


 「じゃあ、教えて」


 「何を?」


 「勉強」


 「……は?」


 「私は勉強ができない」


 堂々と言った。


 あまりにも堂々と言ったせいで、こっちが間違っている気がしてきた。


 「いや、そんな胸を張って言うことじゃないだろ」


 「事実だから仕方ない」


 「努力しろよ」


 「してる」


 「どのくらい?」


 「昨日、三分した」


 「それは努力じゃなくて気まぐれだ」


 イヴはむっとした顔をした。


 「でも魔法学はできる」


 「へえ」


 「竜族史もできる」


 「竜族?」


 「古代語も読める」


 「すごいじゃん」


 「でも、数理、現代文法、社会常識、農業会計が壊滅的」


 「壊滅的って自分で言うのか」


 「先生に言われた」


 「先生、容赦ないな」


 「このままだと進級できない」


 「異世界にも進級制度あるの!?」


 また、変なところだけ現実的だ。


 竜族。


 魔法。


 壁の外。


 ローマ。


 そんな言葉の横に、“進級できない』 ”というあまりにも現実的な単語が並ぶ。


 頭がおかしくなりそうだった。


 「私が進級できないと困る」


 「そりゃ困るだろうな」


 「農地の正式所有権がもらえない」


 「学校と農地が繋がってるの!?」


 「村立学校だから」


 「そういう問題?」


 「あと、父上に怒られる」


 「父上?」


 「竜王」


 「……」


 また出た。


 情報の暴力。


 俺はこめかみを押さえた。


 「待って。今、竜王って言った?」


 「言った」


 「イヴのお父さんが?」


 「そう」


 「じゃあ、イヴって……」


 「竜王の娘」


 「……」


 風が吹いた。


 月光キャベツが揺れた。


 遠くで、何か大きな生き物が鳴いた。


 俺は空を見上げた。


 青い空が、知らない世界の青さで広がっていた。


 そして思った。


 これは夢だ。


 絶対に夢だ。


 自転車で転けた衝撃で、俺はまだ気絶しているに違いない。


 そうじゃなきゃ説明がつかない。


 異世界に迷い込んで、最初に会った女子高生が、農家で、勉強ができなくて、しかも竜王の娘?


 そんな都合のいいライトノベルみたいなことがあるか。


 いや、あるのか?


 今、目の前にいるし。


 「ハルト」


 イヴが俺の顔を覗き込んだ。


 「顔色悪い」


 「誰のせいだと思ってる」


 「転んだから?」


 「それもある」


 「歩ける?」


 「たぶん」


 俺は立ち上がろうとした。


 その瞬間、膝に痛みが走った。


 「いっ……」


 足に力が入らず、よろける。


 イヴがすっと手を伸ばして、俺の腕を掴んだ。


 細い手だった。


 でも、力は信じられないくらい強かった。


 まるで鉄の棒に支えられているみたいに、俺の体がぴたりと止まる。


 「無理しないで」


 「あ、ありがとう」


 「荷物は私が持つ」


 「いや、悪いって」


 「怪我人は黙って運ばれるもの」


 「運ばれる!?」


 嫌な予感がした。


 次の瞬間。


 イヴは俺のカバンを肩にかけ、自転車の残骸を片手でひょいと持ち上げた。


 「嘘だろ!?」


 「軽い」


 「軽くないだろそれ!」


 「竜族だから」


 便利な言葉だな、竜族。


 そしてイヴは、さらに俺の腕を掴んだまま歩き出した。


 畑のあぜ道を抜ける。


 俺は引きずられないように必死で足を動かした。


 黒い土の上を歩くたびに、靴底の下で青白い光がぽうっと灯る。まるで地面そのものが呼吸しているみたいだった。


 「なあ」


 「何?」


 「ここ、異世界なんだよな」


 「異世界?」


 「俺から見れば」


 「そうかもね」


 「イヴから見たら?」


 「ここが世界」


 それは、当たり前の答えだった。


 でも、なぜか少し胸に残った。


 俺にとっての異世界は、彼女にとっての日常だ。


 俺が見慣れた坂道や、田んぼや、学校や、コンビニを当たり前だと思っていたように。


 イヴにとっては、光るキャベツも、空の亀裂も、ツノも、魔力肥料も、全部当たり前なのかもしれない。


 「じゃあさ」


 俺は空の端を見た。


 さっき俺の世界が映った場所。


 「イヴたちは、外に出られないのか?」


 「出られない」


 「一度も?」


 「私はない」


 「他の人は?」


 「昔は、出られたらしい」


 「昔?」


 イヴは少し黙った。


 畑の向こうに、村の入口が見えてきた。


 石の門。


 その上に、羽を広げた竜の紋章が彫られている。


 門の奥には、白い石造りの家々と、細い水路と、丸い広場があった。


 どこか懐かしいのに、決定的に知らない景色。


 「この世界は、影なんだって」


 イヴは言った。


 「影?」


 「外の世界の影。昔、ローマの人たちは戦争に負けて、消えるしかなかった。でも消えたくなかった。だから、世界の裏側に隠れた」


 「裏側……」


 「壁の中に、街を作った。記憶の中に、道を作った。光があるところには影ができるから。人が覚えているかぎり、影は消えない」


 俺は、言葉を失った。


 それはまるで、歴史の教科書の余白に書かれなかった物語みたいだった。


 滅びたはずの人々が、世界の影になって生き残った。


 忘れられた街が、壁の中で息をしている。


 そんなこと、信じられるわけがない。


 でも俺は今、その影の中を歩いている。


 「じゃあ、アクロポリスって……」


 「壁の中の世界の名前」


 「魔族がいるのも?」


 「いる」


 「竜族も?」


 「いる」


 「ローマの人たちも?」


 「いる」


 「みんな、ここで暮らしてるのか」


 「そう」


 イヴは短く答えた。


 その横顔は、さっきまで数学の教科書を逆さまに持っていた女の子とは少し違って見えた。


 何かを背負っている顔だった。


 俺にはまだ、それが何なのかわからない。


 でもたぶん、軽いものじゃない。


 「イヴは、外に出たいのか?」


 そう聞くと、彼女は足を止めた。


 門の前だった。


 風が吹いて、黒い髪が揺れる。


 ツノの影が、彼女の頬に落ちた。


 「出たい」


 イヴは言った。


 「どうして?」


 「知りたいから」


 「何を?」


 「人間の心」


 その言葉は、変だった。


 だけど、笑えなかった。


 イヴは俺を見た。


 真っ直ぐな目だった。


 冷たいようで、熱い。


 怖いようで、どこか寂しい。


 「私たちは、ずっと壁の中にいる。外を見て、外を真似して、外の言葉を使って、外の服を着て、外の学校を作った。でも、本物の外を知らない」


 「……」


 「人間が何を考えて、何を大切にして、どうして泣いて、どうして笑うのか。知識としては習う。でも、よくわからない」


 「そんなの、俺だってわからないよ」


 「それでも、君は外の人間だ」


 イヴは少しだけ笑った。


 「だから教えて。ハルト」


 「何を」


 「人間の心を」


 朝の光の中で。


 異世界の村の入口で。


 竜王の娘を名乗る農家の少女は、そんな無茶なことを言った。


 俺は帰りたい。


 今すぐ帰りたい。


 だけど帰り方はわからない。


 わかるかもしれない場所は、この村の学校。


 そして目の前の少女は、俺に勉強を教えろと言い、人間の心を教えろと言っている。


 どうしてこんなことに。


 俺は、何度目かわからないその言葉を胸の中で呟いた。


 「……わかった」


 気づけば、そう答えていた。


 「本当?」


 「帰る方法が見つかるまでな」


 「十分」


 イヴの表情が、少しだけ明るくなった。


 その瞬間。


 村の奥から、鐘の音が鳴った。


 カーン、カーン、カーン。


 学校のチャイムとは違う。


 でも意味は、なんとなくわかった。


 「まずい」


 イヴが小さく呟いた。


 「何が?」


 「遅刻」


 「そっち!?」


 「走るよ」


 「待て待て、俺、怪我人――」


 言い終わる前に、イヴは俺の手を掴んだ。


 そして走り出した。


 速い。


 速すぎる。


 人間の速度じゃない。


 石畳の道が流れていく。白い家々が横に飛んでいく。朝市らしき場所にいた角のあるおばさんが「あらイヴちゃん、また遅刻?」と笑い、耳の尖った子どもが「外の人間だ!」と叫び、羽の生えた犬みたいな生き物が俺たちの横を並走してくる。


 情報量!


 情報量が多い!


 「イヴ! ゆっくり!」


 「遅刻する!」


 「俺の命が遅刻する!」


 「命は遅刻しない!」


 「するんだよ今まさに!」


 叫んでいるうちに、俺たちは大きな建物の前に着いた。


 石造りなのに、どこか学校っぽい。


 門があって、校庭があって、窓が並んでいる。


 ただし校庭の隅には、小さなドラゴンが三匹ほど丸くなって寝ていた。


 もう驚かない。


 いや、驚いている。


 驚きすぎて、驚く機能が壊れただけだ。


 「着いた」


 イヴは平然と言った。


 俺は膝に手をついて、ぜえぜえと息を吐いた。


 「ここが……学校?」


 「うん。村立アクロポリス第三学舎」


 「第三まであるのかよ……」


 「ここは農業魔法科」


 「農業魔法科」


 口に出しても意味がわからない。


 その時、校舎の扉が開いた。


 中から、背の高い女の人が出てきた。


 眼鏡をかけ、長いローブの上に教師っぽいジャケットを羽織っている。耳が少し尖っていて、手には分厚い出席簿らしきものを持っていた。


 「イヴ・アウレリア・ドラコニアさん」


 低い声だった。


 イヴの肩がびくっと跳ねた。


 「はい」


 「また遅刻ですか」


 「違います。境界から人間が落ちてきたので保護していました」


 「言い訳にしては壮大ですね」


 「本当です」


 先生らしき人の視線が、俺に向いた。


 眼鏡の奥の瞳が、すっと細くなる。


 俺は思わず背筋を伸ばした。


 「……本当に、外の人間ですね」


 先生は、静かに言った。


 その声に、周囲の空気が変わった。


 校舎の窓から、生徒たちが顔を出す。


 ツノのあるやつ。


 耳の長いやつ。


 普通に見えるやつ。


 羽があるやつ。


 全員が、俺を見ていた。


 まるで珍獣だった。


 いや、ここでは俺の方が珍獣なのだろう。


 「神谷春斗です」


 俺は、なぜか自己紹介した。


 「学校に行く途中で、坂道から落ちて……気づいたら、ここにいました」


 先生は黙って俺を見ていた。


 嘘を見抜こうとしているような目だった。


 でもやがて、ふっと息を吐く。


 「なるほど」


 「帰れますか?」


 自分でも驚くくらい、早く聞いていた。


 先生はすぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、答えがわかった気がした。


 「簡単ではありません」


 簡単ではない。


 つまり、不可能ではない。


 俺はそう思おうとした。


 そう思わないと、立っていられなかった。


 「境界事故は、記録上ほとんど例がありません。調査が必要です」


 「調査……」


 「その間、あなたには保護対象として、この村に滞在してもらいます」


 「滞在って、どこに?」


 先生はイヴを見た。


 イヴは俺を見た。


 俺は嫌な予感がした。


 ものすごくした。


 「イヴさん」


 「はい」


 「あなたが連れてきたのですから、責任を持ちなさい」


 「わかりました」


 「待ってください」


 俺は反射的に手を上げた。


 「責任って何ですか?」


 先生はにっこり笑った。


 教師特有の、逃げ道を塞ぐ笑顔だった。


 「神谷春斗さん。あなたにはしばらく、イヴさんの家に滞在してもらいます」


 「……」


 「そして可能であれば、彼女の学習補助をお願いします」


 「学習補助」


 「彼女は、このままでは進級が危ういので」


 イヴがそっと目を逸らした。


 俺は空を見た。


 異世界の青空は、今日も腹立たしいほど綺麗だった。


 こうして俺は。


 人間界に帰る方法を探すはずが。


 竜王の娘で、村農家で、勉強ができない少女の家庭教師をすることになったのだった。



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