第七話 石灰岩の光
2024年。
ブルゴーニュの秋。
葡萄はすでに摘み取られ、
醸造所には発酵の匂いが満ちている。
コポッ、コポッ。
果汁と果皮の呼吸。
エルアンは、実家のドメーヌにいる。
古い石壁。
低い天井。
重厚な梁。
しかし、その隅にある小屋は異質に見える。
白い光。
試験管。
顕微鏡。
ノートパソコン。
白衣、マスク、手袋。
まるで小さな研究室。
西向きの窓から、コート・ドールの畑が見える。
ジュブレ・シャンベルタン。
石灰岩の斜面が、午後の光を受けている。
エルアンは顕微鏡を覗く。
酵母の動き。
発酵温度の推移。
新しい技術を、古い土地へ。
兄は畑に出ている。
エルアンは小屋で記録を取っている。
⸻
携帯が震える。
クレールからのメッセージ。
「手紙が届いたわ。」
内容は短い。
だが、最後の一行に、その名前があった。
カイ。
エルアンは、一瞬動きを止める。
十年。
石灰岩の匂いの中に、赤土の記憶が混ざる。
「今から戻る。」
返信はそれだけ。
白衣を脱ぐ。
手袋を外す。
鋏を、机の上で見つめる。
同じ形のものが、遠い国にある。
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車で坂を下る。
葡萄畑の列が続く。
整然としている。
剪定された枝。
管理された樹形。
だが、あの土地は違う。
風で決まる。
雨で変わる。
支配できない自然の営み。
カカオ。
エルアンは、ハンドルを握る手に力を込める。
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家に着く。
テーブルに封筒が置かれている。
封を切る。
見覚えのある、少し不器用な文字。
「覚えていますか。」
胸の奥が、ゆっくりと動く。
秋の光が、窓から差し込む。
秋の光を受けた石灰岩の白。
十年前の赤土の赤が、胸に戻る。
緑ゆたかな畑。
木々の感触。
豆の発酵。
未完成のチョコレート。
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エルアンは、目を閉じる。
そして、ゆっくりと時間が戻る。
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飛行機は雲の上を進んでいる。
クレールは窓の外を見ている。
エルアンは、まだ起きている。
「カカオはフルーツなのね。
果汁があった。」
「あれは仕事中にも食べていたよ。
喉が癒されるんだ。」
「そういえば、あれは何だったの?
バナナだと思ったら、お芋のようだった。」
「バナナだよ。
私も初めは驚いたよ。」
小さく笑う。
クレールも笑う。
静かな会話。
一ヶ月の熱が、ようやく身体から抜けていく。
「あなた、また行くでしょう?」
クレールが言う。
エルアンは答えない。
少し考える。
「……うん。」
やがて、目が閉じる。
クレールはそっと毛布をかける。
小さく呟く。
「素晴らしい木が育つわね、きっと。」
「….」
エルアンは眠りについた。
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ブルゴーニュは冷えていた。
車の窓から畑が見える。
新しい芽が生え始めている。
ワイナリーでは、
葡萄栽培家の若夫婦が待っていた。
「着きました。」
エルアンは軽く頭を下げる。
彼らは留守を守ってくれていた。
「早く話を聞かせてよ。カカオの畑の。」
エルアンの話は面白い。
栽培家たちに人気がある。
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ガラガラガラ。
エルアンは、ガレージのシャッターを開ける。
奥を片付け、テーブルを備え付けた。
小型ロースター。
グラインダー。
温度計。
ノート。
エルアンは、豆を広げる。
「温度は低く、ゆっくり。」
ルナが真剣な顔で見ている。
「焦がしたら、怒る?」
「怒らないよ。学ぶのが大事だ。」
ルナは笑う。
クレールは二人を見守っている。
ぱち、ぱち。
焙煎の音が鳴る。
ゴッ、ゴッ。
石の上で擦る。
ルナが力いっぱい押す。
「お、重い。」
「ゆっくりで良いよ。」
油が出る。
艶が出る。
砂糖を加える。
型に流す。
「ふう。」
ルナの緊張が少しとけた。
しばらく固まるまで待つ。
「もういい?」
「まだ。」
「もういい?」
「まだだよ。」
二人は笑う。
「よし、そろそろ、良い頃だ。」
型から板を外す。
割る。
パキッ。
澄んだ音。
三人で口に含む。
クレールは、目を閉じる。
「酸がきれい。」
エルアンは無言で、額を天井に向ける。
ルナは踊るように、身体を揺らす。
そして三人、目を見合わせ、
黙って頷いた。
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ルナが紙に絵を描く。
月。
深い夜の空。
踊る木。
大きな波。
エルアンはデザインを整える。
「ここはもっと大きいほうが良いな。」
クレールが見る。
「美しいわ。」
ルナは言う。
「木が楽しそうだね。」
三人で、並べて眺める。
描かれた未来。
三人は、しばらく黙って見ていた。
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ワイナリーに機材が届く。
ロースター。
グラインダー。
温度制御装置。
冷蔵庫に原料が整然と並ぶ。
完成モデルのチョコレート。
「包材の発注、終わったわ。」
クレールの報告。
紙の山。
印刷見本。
「いよいよだ。」
エルアンが言う。
ルナは目を輝かせる。
クレールは、静かに微笑む。
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チリン、チリン。
一通の手紙が届く。
葡萄栽培家から。
封筒は軽い。
だが、文字は震えている。
重い。
封筒を開く。
「父が亡くなった。
相続税を払えず、畑を売却することになった。」
地価の高騰だ。
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夜。
細い月の光が、石灰岩の塀を淡く照らす。
エルアンは、椅子に座る。
目を閉じる。
剪定鋏を握る。
切らなければならない。
何を。
守らなければならない。
何を。
選ばなければならない。
何を。
月の光が、揺らいでいた。
机の上には、
チョコレートの型が置かれたままだった。
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それが、蘇った記憶。
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クレールが言葉を掛ける。
「読んで。」
カイからの手紙を読み上げる。
「覚えていますか。」
その一行だけが、長く残った。




