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navy moon ー月はいつも丸いー  作者: A.O.C.DESIGN
第一章 Hors-d’œuvre 彩あざやかな記憶
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第三話 カイとエルアン

数日が過ぎた。


エルアンは、もう畑の奥まで一人で歩けるようになっている。

白いシャツはやめ、薄い作業着に変わった。

汗の匂いにも、赤土にも、少し慣れた。


その日、クアメは村の集まりで不在だった。

畑には、カイとエルアンだけ。


風が通る。

バナナの葉が揺れる。


カイは、枝の込み合った若木を指差す。

「ここ、風が通らない。」


エルアンは立ち止まる。

「どこを切ったらいい?」


カイは少し考え、指で示す。

「この枝と、この下だね。」


エルアンは頷く。

「理由は?」


「湿ると、黒くなる。」


ブラックポッド。


エルアンは小さく笑う。

「君は、よく見ているね。」


カイは目を逸らす。

「父が教えてくれた。」


エルアンは、ポケットから剪定鋏を取り出す。

「切ってみないか?」


一瞬の静けさ。


カイは刃を見つめる。


軽い。

マチェーテよりもずっと軽い。


「これは、安全だよ。」


エルアンは言う。

「だが、刃は刃だ。」


カイは頷く。


慎重に、枝に当てる。

ぱちり。

乾いた、軽い音。


カイの胸が、わずかに震える。


違う音だ。

重くない。


それでも、確かに切れる。

光が、幹に差し込む。


エルアンは、真剣にその様子を見ている。

そして言う。

「ありがとう。」


カイは戸惑う。

「え? 何が?」


「教えてくれて、ありがとう。」


カイは言葉を失う。


大人が、自分に礼を言う。

それは、初めての感覚だった。



しばらくして、エルアンが言う。

「私には、娘がいるんだ。」


唐突だった。

カイは枝を集めながら聞く。


「彼女は、初めてチョコレートを食べたとき――」


エルアンは、少し笑う。

「踊った。」


カイは顔を上げる。

「踊った?」


「身体を、こう。」


エルアンは両手を軽く動かす。

大げさではない。

だが、確かに嬉しそうだ。


「甘さではなく、驚きだった。」


カイは、何も言わない。

頭の中で、木が揺れる。


「チョコレートは、形だ。」


エルアンは続ける。

「だが、味は、ここから来る。」


足元の赤土を指す。

「彼女にも見せたいんだ。」


カイは、遠くの木を見る。

「見たら踊るかもしれないね。」


エルアンは微笑む。

「そうだな。」



夕方。

風が強くなる。

バナナの葉が大きく揺れる。

光と影が、幹の上で動く。


カイは、それを見つめる。


踊っている。

木が。

いや、光が。


胸の奥に、小さな火が灯る。


軽い音。

ぱちり。

その音は、まだ耳に残っている。



深く静かな夜。


畑の仕事を終えたあと、

クアメは道具を拭き、いつもの場所に戻す。


エルアンは、欠けた豆だけを選んでいた。


売り物にはならない小さな粒。

発酵が揃わなかったもの。

割れてしまったもの。


クアメはそれを見ている。

「それだけだ。」


「はい。」

エルアンは頷く。


「売る豆は使わない。」

クアメは火のそばに座る。


止めはしない。

それが許可だった。



小さな鉄鍋を火にかける。

豆を入れる。

最初は、何も起こらない。


やがて、ぱちり、と弾ける。

煙が立ち上る。

香りが変わる。


青い匂いから、

少しだけ、深い匂いへ。


カイは、じっと見ている。


「焦がすなよ。」

クアメが言う。


「焦がさない。」

エルアンは鍋を揺らす。

均等に、ゆっくりと。


音が増える。

ぱち、ぱち、と。


夜に、小さな星が弾けるように。



焙煎を止め、冷ます。

殻を割る。

指で擦る。

皮が落ちる。

小さなニブが残る。


石のすり鉢に入れる。


エルアンは、力を込めて擦る。

音が重くなる。

油が出て、

黒く艶が出る。


カイは息を止める。


色が変わる。

形が変わる。

豆が、別のものになる。


「砂糖を、少し。」

エルアンは持参した小袋から、わずかに加える。


完全ではない。

粒が残る。

それでも、混ざる。


火の近くで、

ゆっくりと練る。


とろり、と光る。

カカオの香りが、夜に広がる。


アミナは、少し離れて見守る。


クアメは、無言。


だが目を逸らさない。



金属の皿に流す。

平らにならない。

少し歪む。


エルアンは笑う。

「完璧ではない。」


「だが、始まりだ。」


固まるのを待つ。

静かに冷ます。

夜風が、表面を撫でる。


やがて、固まった。


エルアンは、そっと割る。


ぱきり。


軽くはない。

少し鈍い音。

だが、確かに割れる。



エルアンは小さく欠片を取り、

クアメに差し出す。


クアメは一瞬迷う。


受け取る。

口に入れる。

甘い。


だが、それだけではない。


少し酸がある。

ざらつく。


未完成だ。


クアメは、ゆっくり飲み込む。

「……若い。」


それだけ言う。

否定ではない。

評価でもない。


事実。


エルアンは頷く。

「経験が、まだ足りません。」


カイは、小さな欠片を手にする。

温度が、まだ少し残っている。


口に入れる。


苦い。

甘い。

荒い。


だが、胸が熱くなる。


これが。

豆が。

形になる。



エルアンは、小さく包む。

紙に、丁寧に。

「持っていなさい。」


カイは受け取る。


軽い。

だが、重い。


クアメは、それを見る。


何も言わない。


火が小さくなる。


夜は、深くなる。


月が、静かに昇る。

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