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navy moon ー月はいつも丸いー  作者: A.O.C.DESIGN
第一章 Hors-d’œuvre 彩あざやかな記憶
2/24

第二話 覚えていますか。(2014)

インクが乾く前に、時間は十年前へ戻る。



乾季。

空は白く、光は強い。


畑の入り口に、見慣れない男が立っている。


背は高くない。

だが姿勢がまっすぐだ。


帽子を取り、軽く頭を下げる。

「クアメ・アサンテさんですか。」


フランス語。

ゆっくりと、丁寧な発音。


クアメは答えない。

刃物を持ったまま、相手を見る。


視線は鋭い。


カイは、少し離れた場所でカカオの実を集めている。


手は動かす。

だが耳は向いている。



「はじめまして、

エルアンと申します。」


男はもう一度、軽く頭を下げる。

「事前に手紙をお送りしました。」


沈黙。


風がない。

バナナの葉が垂れ下がっている。


クアメは、ようやく口を開く。

「手紙は読んだ。」


短く、ゆっくりと。

「なぜ、ここに来た。」


エルアンは、一瞬だけ言葉を探す。


緊張が、ほんのわずかに見える。

「カカオを、学びたいのです。」


クアメの眉が動く。

「買いに来たのではないのか。」


「いいえ。」

エルアンは首を振る。


「作りたいのです。」


その言葉は、重く落ちる。



カイは、初めて顔を上げる。


作る。

何を。

この豆を。

ここで。



アミナが、足ばやに家から出てくる。

「お客様でしょう?」


柔らかな声。

場の空気が、少しだけ変わる。


彼女はエルアンに微笑む。

「メッセージのやり取りをしていたのは、私です。」


クアメは何も言わない。

だが刃物を下ろす。


それは許可のしるしだった。



エルアンは、畑へ入る。

帽子を胸に、軽く頭を下げてから。


靴が赤土に沈む。

躊躇はない。


幹に触れる。

実を見上げる。

質問をする。


「この黒い実は?」


「切る。」


クアメが答える。

短く。


エルアンは頷く。


メモは取らない。

目で覚えようとする。


カイは、その姿を見ている。


白いシャツが、すぐに汗で濡れる。

だが男は、嫌な顔をしない。



「あなたは、なぜワインをやめて、ここへ?」

クアメが問う。


エルアンは少し笑う。

「やめていません。」


「ではなぜ。」


「土地は違っても、

発酵は、同じだと思うのです。」


クアメは黙る。

その言葉を、否定も肯定もしない。


「発酵の働きに、触れたいのです。」



カイは、初めてエルアンの目を見る。

そこには、計算よりも好奇心がある。

それを、カイは直感で理解する。


買う人ではない。

知ろうとする人だ。



その日の夕方。

エルアンは、実を一つ持たせてもらう。


重さを確かめる。

鼻を近づける。


そして、静かに言う。

「素晴らしい木だ。」


クアメは答えない。

だが、わずかに頷く。


カイは、少し首を傾げる。

実なのに、木を褒めた。



夜。

カイは、火のそばで座る。

エルアンの言葉が、頭の中で繰り返される。


作る。

豆を、作る。


月が昇る。


バナナの葉の影が揺れる。

踊っているのは、光だ。



次の朝。

畑の奥で、クアメが枝を払う。


マチェーテが空気を切る。


重い音。

乾いた枝が落ちる。


エルアンは、少し距離を置いて見ている。


刃の振り方。

手首の角度。

一撃で落とす迷いのなさ。


「あなたは、いつから使っているのですか。」


クアメは振り向かない。

「子どもの頃からだ。」


カイは、顔を上げる。


エルアンは少しだけ言葉を選ぶ。

「彼も?」


クアメは、短く首を振る。

「まだだ。」


それだけ。


エルアンは頷く。

それ以上は聞かない。



バナナの葉が垂れ下がっている。

クアメは一枚を選び、刃を入れる。


葉が落ちる。

光が差す。

カカオの幹、斑に、陽が当たる。


「風を通す。」


クアメが言う。

「病気は、湿りを好む。」


エルアンは、目を細める。

「葡萄と同じですね。」


クアメは無言。

だが否定はしない。



カイは、実を集めながら、二人を見る。


白いシャツの男。

赤土の上に立つ父。


言葉は少ない。

だが、空気が少しずつ変わっている。


エルアンはポケットから、小さな道具を取り出す。


剪定鋏。


光を受けて、刃が細く光る。

「細い枝には、これが使えます。」


クアメは見る。

手を伸ばさない。

「軽い。」


エルアンは言う。

「安全です。」


クアメは少し考える。

「刃は刃だ。」


短い。


だが、拒絶ではない。



エルアンは自分で細い枝を一本、試しに切る。


ぱちり。

音が軽い。

マチェーテとは違う。


カイは、その音を覚える。


違う音。

違う世界。

だが、同じ木。



夕方。

作業は終わる。


エルアンは、鋏を丁寧に拭き、しまう。

クアメはマチェーテを研ぐ。


刃が石に触れる音。


静かだ。

どちらも、道具を粗末にしない。


そこに、違いはない。



アミナが水を持ってくる。


「遠いところから来たのですから、

無理はなさらないで。」


エルアンは微笑む。

「学ばせてください。」


クアメは、ようやくエルアンを見る。


「見るのは、いい。」


一拍。


「だが、急ぐな。」



夜は深い。

火のまわりに三人。

アミナは家の中を片付けている。


虫の声が遠くで鳴く。


エルアンが、ゆっくりと尋ねる。

「クアメ、あなたはチョコレートを食べたことがありますか。」


火が小さく弾ける。


クアメはすぐに答えない。

しばらくして、言う。

「一度だけ。」


カイは顔を上げる。


「港で。」


短い説明。

「若いころ、荷を運んでいた。」

「甘かった。」


それだけ。


エルアンは静かに頷く。

「それは、この畑の豆からできていたかもしれませんね。」


クアメは、火を見る。

「そうかもしれないな。」


だが、驚かない。



「私は、思うのです。」


エルアンは続ける。

「ここで育てた豆を、

ここで作れるようになれば、と。」


風が止む。


「チョコレートを。」


言葉が、夜に浮く。


「あなたたちが。」


クアメは顔を上げる。


「なぜだ。」


「発酵は、土地の言葉です。」


エルアンはゆっくり言う。


「葡萄も、カカオも。

味は、畑からです。」


火が揺れる。


「それを、チョコレートを、

あなたたちが完成させられるようになる。」


沈黙。


クアメは、しばらく何も言わない。

やがて言う。


「豆を育てるのも、難しい。」


「知っています。」


「売るだけでも、難しい。」


「知っています。」


「作るのは、もっと難しい。」


エルアンは、目を閉じる。

一つ息を吸う。


「だから、学びたいのです。」



カイは、胸がざわめくのを感じる。


作る。

ここで。

この赤土の上で。


月が昇る。

火は小さくなる。


クアメは、最後に言う。


「夢を見るのは、悪くない。」


一拍。


「だが、畑を忘れるな。」


エルアンは、深く頷く。


「忘れません。」


夜は、静かに続く。

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