第二話 覚えていますか。(2014)
インクが乾く前に、時間は十年前へ戻る。
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乾季。
空は白く、光は強い。
畑の入り口に、見慣れない男が立っている。
背は高くない。
だが姿勢がまっすぐだ。
帽子を取り、軽く頭を下げる。
「クアメ・アサンテさんですか。」
フランス語。
ゆっくりと、丁寧な発音。
クアメは答えない。
刃物を持ったまま、相手を見る。
視線は鋭い。
カイは、少し離れた場所でカカオの実を集めている。
手は動かす。
だが耳は向いている。
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「はじめまして、
エルアンと申します。」
男はもう一度、軽く頭を下げる。
「事前に手紙をお送りしました。」
沈黙。
風がない。
バナナの葉が垂れ下がっている。
クアメは、ようやく口を開く。
「手紙は読んだ。」
短く、ゆっくりと。
「なぜ、ここに来た。」
エルアンは、一瞬だけ言葉を探す。
緊張が、ほんのわずかに見える。
「カカオを、学びたいのです。」
クアメの眉が動く。
「買いに来たのではないのか。」
「いいえ。」
エルアンは首を振る。
「作りたいのです。」
その言葉は、重く落ちる。
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カイは、初めて顔を上げる。
作る。
何を。
この豆を。
ここで。
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アミナが、足ばやに家から出てくる。
「お客様でしょう?」
柔らかな声。
場の空気が、少しだけ変わる。
彼女はエルアンに微笑む。
「メッセージのやり取りをしていたのは、私です。」
クアメは何も言わない。
だが刃物を下ろす。
それは許可のしるしだった。
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エルアンは、畑へ入る。
帽子を胸に、軽く頭を下げてから。
靴が赤土に沈む。
躊躇はない。
幹に触れる。
実を見上げる。
質問をする。
「この黒い実は?」
「切る。」
クアメが答える。
短く。
エルアンは頷く。
メモは取らない。
目で覚えようとする。
カイは、その姿を見ている。
白いシャツが、すぐに汗で濡れる。
だが男は、嫌な顔をしない。
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「あなたは、なぜワインをやめて、ここへ?」
クアメが問う。
エルアンは少し笑う。
「やめていません。」
「ではなぜ。」
「土地は違っても、
発酵は、同じだと思うのです。」
クアメは黙る。
その言葉を、否定も肯定もしない。
「発酵の働きに、触れたいのです。」
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カイは、初めてエルアンの目を見る。
そこには、計算よりも好奇心がある。
それを、カイは直感で理解する。
買う人ではない。
知ろうとする人だ。
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その日の夕方。
エルアンは、実を一つ持たせてもらう。
重さを確かめる。
鼻を近づける。
そして、静かに言う。
「素晴らしい木だ。」
クアメは答えない。
だが、わずかに頷く。
カイは、少し首を傾げる。
実なのに、木を褒めた。
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夜。
カイは、火のそばで座る。
エルアンの言葉が、頭の中で繰り返される。
作る。
豆を、作る。
月が昇る。
バナナの葉の影が揺れる。
踊っているのは、光だ。
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次の朝。
畑の奥で、クアメが枝を払う。
マチェーテが空気を切る。
重い音。
乾いた枝が落ちる。
エルアンは、少し距離を置いて見ている。
刃の振り方。
手首の角度。
一撃で落とす迷いのなさ。
「あなたは、いつから使っているのですか。」
クアメは振り向かない。
「子どもの頃からだ。」
カイは、顔を上げる。
エルアンは少しだけ言葉を選ぶ。
「彼も?」
クアメは、短く首を振る。
「まだだ。」
それだけ。
エルアンは頷く。
それ以上は聞かない。
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バナナの葉が垂れ下がっている。
クアメは一枚を選び、刃を入れる。
葉が落ちる。
光が差す。
カカオの幹、斑に、陽が当たる。
「風を通す。」
クアメが言う。
「病気は、湿りを好む。」
エルアンは、目を細める。
「葡萄と同じですね。」
クアメは無言。
だが否定はしない。
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カイは、実を集めながら、二人を見る。
白いシャツの男。
赤土の上に立つ父。
言葉は少ない。
だが、空気が少しずつ変わっている。
エルアンはポケットから、小さな道具を取り出す。
剪定鋏。
光を受けて、刃が細く光る。
「細い枝には、これが使えます。」
クアメは見る。
手を伸ばさない。
「軽い。」
エルアンは言う。
「安全です。」
クアメは少し考える。
「刃は刃だ。」
短い。
だが、拒絶ではない。
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エルアンは自分で細い枝を一本、試しに切る。
ぱちり。
音が軽い。
マチェーテとは違う。
カイは、その音を覚える。
違う音。
違う世界。
だが、同じ木。
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夕方。
作業は終わる。
エルアンは、鋏を丁寧に拭き、しまう。
クアメはマチェーテを研ぐ。
刃が石に触れる音。
静かだ。
どちらも、道具を粗末にしない。
そこに、違いはない。
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アミナが水を持ってくる。
「遠いところから来たのですから、
無理はなさらないで。」
エルアンは微笑む。
「学ばせてください。」
クアメは、ようやくエルアンを見る。
「見るのは、いい。」
一拍。
「だが、急ぐな。」
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夜は深い。
火のまわりに三人。
アミナは家の中を片付けている。
虫の声が遠くで鳴く。
エルアンが、ゆっくりと尋ねる。
「クアメ、あなたはチョコレートを食べたことがありますか。」
火が小さく弾ける。
クアメはすぐに答えない。
しばらくして、言う。
「一度だけ。」
カイは顔を上げる。
「港で。」
短い説明。
「若いころ、荷を運んでいた。」
「甘かった。」
それだけ。
エルアンは静かに頷く。
「それは、この畑の豆からできていたかもしれませんね。」
クアメは、火を見る。
「そうかもしれないな。」
だが、驚かない。
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「私は、思うのです。」
エルアンは続ける。
「ここで育てた豆を、
ここで作れるようになれば、と。」
風が止む。
「チョコレートを。」
言葉が、夜に浮く。
「あなたたちが。」
クアメは顔を上げる。
「なぜだ。」
「発酵は、土地の言葉です。」
エルアンはゆっくり言う。
「葡萄も、カカオも。
味は、畑からです。」
火が揺れる。
「それを、チョコレートを、
あなたたちが完成させられるようになる。」
沈黙。
クアメは、しばらく何も言わない。
やがて言う。
「豆を育てるのも、難しい。」
「知っています。」
「売るだけでも、難しい。」
「知っています。」
「作るのは、もっと難しい。」
エルアンは、目を閉じる。
一つ息を吸う。
「だから、学びたいのです。」
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カイは、胸がざわめくのを感じる。
作る。
ここで。
この赤土の上で。
月が昇る。
火は小さくなる。
クアメは、最後に言う。
「夢を見るのは、悪くない。」
一拍。
「だが、畑を忘れるな。」
エルアンは、深く頷く。
「忘れません。」
夜は、静かに続く。




