第十九話 遺るもの
カーテンが揺れる。
白い布が、やわらかく膨らむ。
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窓の外。
ブーゲンビリア。
乾いた風に、赤い花がこまかく震える。
ザァ…
その向こう、地中海の深い群青色が、
紫色に染まっていく。
ザァ…
ザァ…
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テーブル。
グラスの底に、わずかな赤。
右手。
三本の指が、静かに閉じる。
何も持っていない。
だが、指は閉じる。
その下には、
指の影が映っている。
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部屋を出る。
朝食。
白い壁。
石畳の床。
青いプール。
素焼きのテラコッタ。
緑のアガベ。
朝の光が差す。
反射する光に、全ての影が柔らかくなる。
穏やかな時間の流れに、心が浸る。
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ホテルを発つ。
二泊目のホテル近くの駅。
車を駐める。
電車に乗る。
海岸線。
地下トンネル。
街。
赤い屋根と白い壁が、遠くまで続く。
大きな駅。
小さな駅。
海岸線。
さらに大きな駅。
下車。
バスに乗り換え。
電車とは異なる窓辺。
異なる速度。
異なる揺らぎ。
バス停を降りて、徒歩十五分。
緩やかな坂道を歩く。
到着。
『ルノワール美術館』
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淡い色と濃い色。
浅く、深く。
柔らかな光と、穏やかな影。
光を含んだ肌。
奥行きのある風景。
人々が集う街。
水に浮かぶ船。
食事をする人々の群像。
色をぼかす筆遣い。
くっきりと白を乗せるハイライト。
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ミュージアム・ショップ。
「これ、一冊買おう。」
「良いわね。」
「この絵のポーズ、覚えてるかい?」
「あなたが私を撮った。」
微笑む。
「もう、覚えてるわよ。」
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ショップの店員。
一枚の紙が渡される。
簡単な地図。
丸がいくつか、打たれている。
店員が指で触れる。
二箇所。
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美術館を出る。
エルアンはすぐに立ち止まる。
空。
海。
風。
草木が揺れる。
エルアンは目を細める。
「いない。」
クレールは横にいる。
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細い道を歩く。
石の壁の家。
プールの水面。
光が揺れる。
明るい空。
変わらない道。
変わらない建物。
足が止まる。
「...いない。」
静かな刻。
クレールが肩を寄せる。
「風が冷たくなってきたわね。
お昼にしましょ。」
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海辺のブーランジェリー。
ショーケースに様々なパン。
サンドイッチ。
デニッシュ。
タルト。
店員と客の声。
明るい表情。
「ピストゥスープ、あるかな。」
「うーん、どうかしらね。」
「ニースのピッツァも食べたいな。」
「そうね、ここは軽くにしておきましょ。」
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停留所。
白い標識。
時刻表。
風。
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電車が来る。
道の上にはレール。
低い音。
扉が開く。
乗る。
窓。
景色が流れる。
住宅街。
プール。
青い水面。
揺れていない。
白い家。
閉じた窓。
バルコニー。
椅子。
誰もいない。
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停留所。
人が乗る。
声。
電車が動く。
音が増える。
海。
光。
「…同じ海なのに、ね。」
「…」
「違うのは、人だ。」
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停まる。
さらに人。
会話。
笑い声。
電車が動く。
進む電車。
軽いブレーキ。
揺れる。
手すりを三本指が握る。
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青いプール。
白い家。
青いプール。
白い家。
人のいないバルコニー…
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停留所。
降りる。
『ニース』
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ショーウィンドウが並ぶ。
ブランド品。
眺める。
歩く。
浜辺へ向かう。
海沿いの店。
指差すクレール。
ストローハット。
サングラス。
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浜辺を歩く。
裸足の二人。
片手に靴。
もう一方は帽子に触れる。
ザァ…
ザァ…
海鳥の声。
跳ねる魚。
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波が足を覆う。
蹴る。
飛沫が舞う。
光る。
しゃがむエルアン。
水に触れる。
三本指。
すくう。
上を向く。
口に運ぶ。
沈黙。
「…うん。
間違いない。
これは、海だ。」
「当たり前よ。」
二人は笑う。
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通り沿いで足を乾かす。
眺める。
砂。
波間。
水平線。
空。
飛行機雲。
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ボトルワイン。
二つのグラス。
ロゼ。
具沢山のサラダ。
魚介。
ブラックオリーブ。
クスクス。
ハーブ。
海辺のテラス。
乾杯。
ミストラルが吹く。
店内へ移る。
緑色のスープ。
オニオンのピッツァ。
柔らかい光。
穏やかな空気。
ハーブとガーリックの香り。
「最高ね。」
「あぁ。」
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夜。
海岸に沿う線路。
電車が駅に着く。
音楽が誘う。
ネオンが導く。
煌々と明るい建物。
二人は見る。
輝く瞳に映る文字。
目を合わせ、微笑む。
『CASINO』
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「賭博じゃないのよね。」
「あぁ、大丈夫。
ここはただのゲーム。
遊びだよ。」
「ちょっと、ドキドキしちゃう。」
「よーし!楽しむとしよう。」
煌びやかな店内は、それほど混んでいない。
「閑散期だし、大人の時間が楽しめそうだ。」
「カクテル、頼みたいわ。」
「ブラックジャックやろう。」
「ルール、教えてね。」
「あぁ、大丈夫だ。」
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「ヒット!」
「スタンド!」
声が飛び交う。
ディーラーがカードをめくる。
6、7、8、合計、21。
歓声が上がる。
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「ヒットしますか?それともスタンド?」
悩むエルアン。
ディーラーの顔を伺う。
カードの流れを読む。
「K」、「6」が並ぶ。
「スタンド。」
小声。
ディーラーは、聞かなかったそぶり。
目を閉じて悩むエルアン。
目を開く。
右手の指を見る。
伸びた二本指が、閉じる。
「やっぱり、ここはヒットだ!」
声を張る。
カードが配られる。
開く。
「5」。
「よし!」
ディーラーのカードが開く。
「6」、「Q」、そして、もう一枚。
「J」。
歓声が上がる。
ディーラーは微笑んで、
カードをシャッフルする。
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「次は、ルーレットね。」
「ルールは単純。だからこそ、のめり込める。」
「チップを置く場所で、配当が変わるのね。」
「当たる確率と配当のバランスが整っているんだ。」
「あ、あの人当たった。
いっぱい当たってるわ。
でも、ディーラーの計算、すごく早いわね。
ちゃんと合ってるのかしら。」
「ふむ。
157だな。
ちゃんと合ってるよ。」
「早っ。」
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ウィルが回る。
中央のポールの上には、輝く球体。
数字と枠が並びながら煌めく。
ディーラーが指で球を弾く。
シュー…
目で追えない。
残像が映るだけ。
やがてゆっくりになる。
そして落ちる。
数字が決まる。
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シュー…
「黒だ。」
エルアンはチップを置く。
ディーラーがベルを二回鳴らす。
「それまで。」
象牙色の球の速度が落ちていく。
緩やかなカーブ。
スーッと、降りていく。
カツン。
ピンに当たって軌道が変わる。
カン、カン。
カラン。
「23赤」。
ストッ。
マーカーが置かれる。
エルアンは無言で、紙に結果を記す。
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赤か、黒か。
エルアンは基本的にスタイルを変えない。
時々、数字の枠に置く。
回を追うごとに、少しずつチップが増えていく。
「では、次の回でディーラーが交代いたします。」
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交代したディーラーが球を弾く。
投げ方が違う。
手首を返しながら、レールに沿って手を広げる。
ヒュイー…
音。
球速。
ベルが鳴る。
「それまで。」
球が落ちる。
カラン。
ディーラーはマーカーを指先で放りあげ、
空中で掴んでゆっくりと数字に置く。
カンッ。
「ナイスキャッチ!」
たまたま置いたエルアンの一点掛け。
歓声。
⸻
エルアンのチップは最初の10倍まで増えている。
客が集まっている。
「私は、これで最後の勝負にします。
全て掛けます。」
微笑む。
ディーラーも返す。
トン。
球が卓で跳ねる。
指先で掴む。
ウィルに触れる。
手が動く。
ヒュイーン…
「ねぇ、どっちにするの?
赤?黒?」
「…うん、待ってくれ。」
「ねぇ、どっち?」
じっとホイールを見つめる。
「…よし!決まった!」
客たちが固唾を飲む。
「…うん、決めた!
白だ!」
「ないわよっ!」
クレールのツッコミ。
張り詰めた緊張が緩む。
「ごめん、えーと、赤だ!」
赤にチップの山が動く。
すかさず、他の客たちが、黒に置いて行く。
「……」
ベルが鳴る。
「それまで。」
球がゆっくりとカーブを描いて落ちる。
カツン。
ピンに当たって軌道が変わる。
カン、カン。
赤に向かう。
跳ねる。
黒に入る。
しかし、跳ねる。
カラン。
「0」。
歓声と笑いがその場を埋める。
ディーラーが全てのチップを集める。
クレールがエルアンの肩に手を置く。
エルアンが立つ。
カン。
音。
下を見る。
一枚のチップ。
クルクルと回る。
三本の指で持ち上げる。
じっと見る。
ディーラーに目を移す。
「本当のラスト、お願いします。」
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ホテルへと歩く二人。
「いやー、負けたなー。」
「そうかしら?
勝率なら勝っていたんじゃない?」
「うん?」
「あはっ、いい思い出。
とっても楽しかったー。」
振り返る。
「…あぁ。」
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夜空。
星が輝く。
細い道。
街灯が照らす。
家の窓。
暗い。
プールの水面。
月は、触れていない。
風が撫でる。
ザァ…
潮騒。
ザァ…
⸻
朝。
ホテルを出て帰路に着く。
アビニョンを通る。
人がいる。
活気がある。
「…世界遺産よね。」
「あぁ、人がいるな。」
「…うん。」
橋の上の人々が目に映る。
「遺ってるな。」
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道。
車がゆっくり走る。
石の街を抜ける。
人々の姿。
遠ざかる。
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橋。
川。
流れる水。
ザァ…
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車内。
エルアンの右手。
ハンドルの上。
三本の指。
静かに、力が抜ける。
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窓の外。
空。
月は見えない。
鳥が並んで旋回している。
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音。
エンジン。
一定のリズム。
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そのまま、
道が続いていく。




