第十八話 刻の凝縮
コン、コン。
扉を叩く。
返事はない。
「ルナ、ルナ。」
扉に固定された小さな板。
そこに彫られた上弦の月。
板の下から、朝日の淡い光が差している。
コン、コン。
「ルナー。
おーい、ルナ。
…うぅ、冷えるな。」
エルアンの声。
「あの娘、もうとっくに出発したわよ。」
家の奥からクレールの声が響く。
「えぇ!?...もう行っちゃったのか。」
「本当に、チョコレートのことで頭がいっぱいなのね。」
「昨日、急に帰って来たかと思ったら、
こんなに朝早く行ってしまうとは、なぁ。」
「私たちも、そろそろ出発しましょ。
朝ご飯は途中でどこかに寄ればいいわ。」
「あぁ、そうだな。
うん?もうこんな時間か。
すぐに支度するよ。」
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エルアンはガレージの扉を開ける。
古いクーペが静かに朝の光を受けている。
「キレイね。」
「ワックス塗ったよ。
折角だし、こいつもおしゃれにしないとな。」
「まだ乗れるのよね。」
「あぁ。壊れてないからね。」
「普通の人はもう買い替えてるわ。」
「普通じゃないからな。」
ブロン、ブロロ…
「……」
「祈ってるのか?」
「…無事に帰って来れますように。」
エルアンは黙ってトランクに荷物を積む。
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ガレージからゆっくり出る。
右に曲がりながら。
オリーブ・グリーン。
少し吊り目の四つのヘッドランプ。
太陽が穏やかにボンネットを照らす。
キラリと輝く、
504のクロムメタル。
ガレージの外で待つクレール。
エルアンは車を止め、助手席のドアを開く。
「さぁ、行こう。」
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ザー、ザー。
「いい天気だな。」
「…うん、そうね。」
ザー、ザー。
「途中で休みながら、ゆっくり行こう。
順調にいけば、夕方には到着できる。」
「…そうね。」
クレールはダイヤルを回している。
ザー、ザー、スン。
「あ、合ったわ。」
スピーカーからラジオの音。
メロディが流れる。
「あら、何だか楽しい曲。
ちょうどいいわね。」
懐かしいメロディーに古いラジオのノイズが混じる。
「はい、クッキー。」
クレールはエルアンの口元へ運ぶ。
エルアンは前方を見ながら、速度を落とす。
大きく開いた口に、クレールがそっと落とす。
「ルナが作ったのよ。」
サク、サク。
「これは、ラングドシャだね。
チョコレート味の。」
メロディーにノイズが混じる。
ジジ、ジジ。
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大人の冬。
二泊三日の旅。
ブルゴーニュから南へ。
暖かく穏やかな、
ショート・バケーション。
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畑の脇を細く流れる水。
溜池に辿り着き、川へと流れる。
道は川と共に続く。
変わる景色。
村から町へ。
町から街へ。
人が織りなす文化も変わる。
土も変わる。
石灰岩から、やがて花崗岩へ。
岩山が現れる。
渓谷に沿って道は続く。
花崗岩の地。
流れが緩やかになる。
オリーブの葉が揺れる。
赤茶色の大地。
空の青さが増す。
川岸の石が目に映る。
エルアンは呟く。
「石の畑だ。」
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バン、バン。
二人は車を降り、ドアを閉める。
「お腹が空いたわ。」
「結局、朝ご飯食べなかったもんな。」
街を歩く。
石畳の道。
冬の日差しが白い壁を照らしている。
高い建物。
二階、三階、四階。
縦に長く四角い窓が、
等間隔に並んでいる。
人が歩く広い道。
その真ん中で、絵を売る人。
広場に着く。
賑やかな街に、
アコーディオンの音が調和している。
椅子に座る人々。
その向こうでジャグリングをする大道芸人。
「南に来たわねー。」
「あぁ、何だか身体が軽くなった気がするよ。」
パン屋の前を歩く。
「ふわ〜。
香ばしく広がる。
酵母の香りだ。」
「うふふ。」
たくさんのバゲットを抱えた少女が、
目の前を早足に通り過ぎる。
横を黒猫がついて歩く。
黒い服の少女。
「うーん、何だか急いでたけど、配達かな。
ホウキ持ってたな。」
「黒猫と話してるように見えたわ。」
「ルナの子供の頃に、ちょっと似てたな。」
自転車のブレーキがどこかで鳴る。
キキー。
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のどかな広場の風景。
グラスの音。
皿の音。
笑い声。
その時間を、風が裂く。
ゴォ。
バサバサ…
広場のパラソルは閉じたまま。
布だけが旗めく。
カタカタと鳴る石畳の上のテーブル。
南からの風。
人々は動じない。
アコーディオンのメロディーは続く。
「広場の食事も良いけど、やっぱり少し寒いわ。」
「あぁ、お店に入ろう。」
「あそこのお店、ちょっと気になるわ。」
「行ってみよう。」
カラン、カラン。
「いらっしゃーい。
その窓際のテーブル、すぐに片付けるよ。
少しお待ちを。」
ドアを閉めると、風の音が遠くなる。
黒板にチョークで書かれたきょうの料理。
クレールはエルアンに小声で話す。
「うふふ。
ここはきっと当たりね。
美味しい料理が食べられそう。」
「あぁ、さっきから良い香りが充満していて、たまらないな。
ガーリック、オリーブオイル、エシャロット…
あぁ、白ワインが入った。
ジュワーってなってるよ。
もう、我慢できないー。」
エルアンは、目を閉じ、顔を天井に向けている。
クレールがエルアンの肩を寄せる。
「うふ。少しお待ちを、ね。」
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窓辺のテーブルで料理を待つ二人。
グラスに注がれた赤ワイン。
ソーダ水のボトルとグラスが並ぶ。
窓から差す冬の光。
テーブルクロスの上で、
ワイングラスが柔らかく輝く。
「光が、とてもきれいね。」
「南の光だな。」
「午後は私が運転するから、飲んで。」
「ありがとう。
シャトー・ヌフ・デュ・パプは、
やっぱり現地で飲みたいワインだ。」
コト、コト…
料理が届く。
オニオングラタンシチュー。
牛肉の赤ワイン煮込み。
ガーリックトースト。
二人はグラスを持ち上げる。
「アタサンテ!」
「ボナペティ!」
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食事を終えて車へ。
クレールがハンドルを握る。
ブロン、ブロロ…
名所を通過して廻る。
「あ!あれがサンベネぜ橋ね。」
「ということは、あれはアヴィニョン教皇庁か。」
「大きな川ね。どこから流れてくるのかしらね。」
「…アルプスからかな。」
車は高速道路へ。
プロバンスの東へと進む。
丘を越え、街を抜ける。
村や町。
豊かな自然。
やがて海が近づく。
視界が開ける。
海。
紺碧の風景。
夕暮れの光が水平線に残っている。
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丘の上の建物。
青い看板。
『HOTEL 藍色』
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車がゆっくり坂を上る。
窓の向こうに、海と街の灯り。
空には細い月。
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カチャ。
部屋の扉が開く。
大きな窓。
街の灯りが海へこぼれている。
クレールが振り返る。
「どう?」
エルアンは窓に近づく。
カーテンを開く。
遠くで波の音。
ザァ…
「いい部屋だ。」
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テーブル。
ワイン。
グラスが二つ。
エルアンがコルクを抜く。
グッ、グッ。
赤いワインがゆっくり注がれる。
コ、コ、コ。
二人は海を見ている。
街の灯の向こうに、静かな月。
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「ルナ、今ごろ何してるかしら。」
「きっと、厨房だろうな。」
「昨日は帰ってくるなり、お父さんは?って。」
「アフリカのこと教えてって、な。」
「何事かと思ったわ。」
「そういえば、アヴィニョンで見た黒い服の少女。」
「えぇ、ルナを思い出したわよね。
あの子も不思議な子。
はじめは葡萄と会話していたんだもの。」
「あぁ、でも、特別なんかじゃない。
普通の女の子だ。」
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エルアンはポケットから石を取り出す。
「それ、アヴィニョンに着く前に拾っていたわね。」
「あぁ、アフリカでのことを思い出してね。
アフリカでも石を拾ったんだ。」
エルアンは石を軽く上に放って掴んだ。
「尋ねたんだ。
カイに、長くて細い石が落ちていないか、って。」
「何のために?」
「石を組んで、チョコレートの型に出来ないかと思って。」
「有ったの?」
「あぁ、有った。
カイは、こっちには丸いのとか、卵の形。
向こうのほうに、四角いのとか、長いの、あるよ。
って教えてくれた。」
エルアンは海の上の、空を見つめる。
「あの石も、川辺の丸い石だった。
そして、平らな地層の石だったよ。」
⸻
エルアンは見つめる。
海の向こう。
南の空。
飛行機の灯が、離れて行く。
月の光が、海を静かに照らしている。
遠くで波の音が聞こえる。
ザァ…
細い月が、静かに浮かんでいる。




