第十七話 熟す理念
ポ、ロン。
ポ、ロン。
静かに、ピアノの音が流れ始める。
小さなスピーカーから、透明な音がこぼれている。
静寂な空間に、浮かぶ淡い光の、姿のように。
単調な調べに心を委ねる。
些細な悲しみのように揺らぐ。
鍵盤を打つ指の強さは、同情の言葉のよう。
「また、思い詰めて。」
エルアンはゆっくりと頭を起こす。
コト。
クレールが、紅茶をテーブルに置く。
受け皿にお菓子が添えられている。
小皿にはチーズ。
「ありがとう。」
エルアンは体を起こし、背もたれに身を預ける。
深呼吸をする。
一回、二回、三回。
目を閉じて紅茶の香りを確かめる。
「…ダージリンだね。」
クレールは微笑む。
「ありがとう、クレール。
君の気遣いには、いつも感心させられるよ。
…とても、心が和む。」
「あなたこそ、そう言葉にしてくれるのは、私も嬉しく思えるわ。」
ポ、ロン。
ポ、ロン。
⸻
「そう、お父様の葡萄畑が今、そんなに大変なことになっているのね。」
「あぁ、どうしたものか。」
「…そうね。
あなたは、土地を守るために、お父様のドメーヌを助けているのよね。」
「あぁ、そうだ。
代々受け継がれている、大事な畑だ。
一族の誇りだ。」
「どうしても、守らなければならない。
そういうことよね。」
「…あぁ。」
「ちょっと待ってて、私、面白いもの持ってくる。
あなたに内緒で買っちゃったの。」
エルアンは立ち上がり、少し歩いて屈伸する。
腕をいっぱいに伸ばし、体をよじる。
「ふう。」
「お待たせ。
はい、あなた。」
皮の乾いた香りが漂う、一冊の本。
「これは…… 羊の皮、の本?」
「そう。
羊皮紙の本よ。」
「こんな…… これ相当な金額するだろ。」
「うん。
でも、いいなって思ったから。」
「アンティークでもなく、新しい羊皮紙の本か。
確かに面白い。
何が書かれているんだ?
聖書?
開いてみても良いかな?」
「ふふ。
やっぱり興味津々ね。
絶対にあなたも気に入るって、相談しなくてもきっと大丈夫って思ったの。
もちろん、良いわよ。
開いてみて。」
エルアンは、本を丁寧にテーブルに置き、扉を開く。
何も書いてない。
ページを一枚めくる。
薄い皮に刻印された文字で、一行だけ。
『大いなる力には、大いなる責任が伴う。』
「……ん?
…これって、あれ、だよな。
うーんと。」
「うふふ。」
「映画だったっけ、いや、コミックだったかな?
あの、赤いヒーロー。
クモのやつ。」
「もう一枚めくってみたら?」
一枚めくる。
今度は二行の言葉。
『人生で後悔することは、
やらなかったことでする後悔だけ。』
エルアンは片目を細め、拳で顎を支える。
「これは、ジャン・コクトーの言葉だ。」
もう一枚。
『兄さん!良いもの見つけた!』
『ガラクタじゃないか。何の役に立つんだい?』
エルアンは考える。
「これは…… 童話の、まぬけなハンス?」
「面白いでしょう?」
「なんだか、よくわからない。
何だいこの本。」
「この本は、ジャンルを問わずに有名な言葉を集めた本よ。」
「えぇ?そんな本、わざわざ羊皮紙で作らなくても良いじゃないか。」
「でも、おしゃれでしょ。」
「あぁ、おしゃれだ。
聖書かと思いきや、フレーズだけ。
匂いもあるし、見た目もインテリアとして飾っておける。
しかも、一言一言に意味がしっかりある。
ページ毎に、奥行きがあって、いろいろ書いてなくてもそのストーリーが浮かんでくる。
…ん、待てよ、まさか。」
ページをめくるたびに、同じ方向を向いている。
エルアンは読み返す。
「大いなる力と責任、やらないことの後悔、ガラクタが役に立って成功する。
つまり、小さな力でも、やってみれば、思いがけず成功する、かも?」
「うふふ、気がついた?」
「あぁ、わかった。
言葉がつながっているんだ。
順番に読んでも、ちゃんとストーリーになってる。」
「これはね、クリエイターが作った本なの。
『気になった言葉をインターネットで検索してみたら、案外お悩みごとが解決するかも。』
って本の紹介に書いてあったわ。」
「あー、そうか!
うん、うん、なるほどー。
文字数は少ないけど、問題解決の糸口になるかも知れない。
そうか、言ってみれば、現代的な聖書みたいなものだ。」
エルアンは微笑んで、ゆっくり何度も頷く。
「気に入ってくれたようで良かったわ。
それで、あなたは何を悩んでいたんだっけ。」
エルアンは本を見つめる。
スマートフォンをポケットから出して、検索する。
「あ、この映画、見たいと思っていたんだよな。
クレール、これから一緒に観ないか?」
「あら、お父様の畑のことは考えなくてもいいの?」
「まぁ、どうにかなるよ。」
二人は扉を開けて部屋を出る。
本は開かれたまま。
しっとりと波打つ皮。
刻印された言葉。
「最も崇高な芸術とは、人を幸せにすることだ。」
ピアノの音はまだ続いている。
ポ、ロン。
⸻
暗い室内。
広いソファ。
プロジェクターの光。
リラックスする二人。
⸻
人が跳ねる。
鳴り響く音。
大きなブランコが振れる。
時間の流れが変わる。
二人はソファに身を預ける。
音楽に合わせて身体がわずかに揺れる。
⸻
二人の前にはローテーブル。
フルーツとチーズとスライス・バゲット。
静かに立ち昇るスパークリング・ワインの泡。
様々な色の光が二人を包む。
⸻
星空の下の魔法。
広がるシーツに映し出される光と影。
夢が語られ歌声が広がる。
男の夢を支える家族の物語。
⸻
右へ左へ、音楽に乗る二人。
じっくり、美声に聞き入る二人。
深刻な空気に、固唾を飲む二人。
力強い言葉に、胸を熱くする二人。
⸻
エンド・クレジットが終焉の時を刻む。
残影に重なるキャストの証。
何も語らない二人。
映像を見ているのかもわからない。
⸻
部屋が明るくなる。
テーブルの上には飲みかけのワインと、食べかけのチーズ。
「あぁ、久しぶりに映画を観たよ。」
「とっても面白かったわ。」
「こういう時間、本当に大事だな。」
「えぇ、すっかり忘れてしまっていたわね。」
クレールがテーブルを片付ける。
エルアンは玄関から、一枚のパネルを持って来る。
「埃が被ってしまっていた。」
エルアンはパネルを丁寧に拭く。
ワイナリーの看板として掲げていた物。
「持って来たのね。
私も、映画を観ながら思い出したわ。
そのパネルのこと。」
「我々にとって、やらなければならないことは、やっぱりこれだな。」
「えぇ、その通り。」
⸻
[ 葡萄樹 上弦の月 葡萄樹 ]
[ 剪定鋏 ]
N.A.V.Y.
Natural Agriculture Vine Yards
Bourgogne
*Identity
『私たちは、人生を豊かにするものを探求する。』
『永遠ではなく100年の継続を求める。』
⸻
部屋に静寂が戻る。
ポ、ロン。
ポ、ロン。




