第一話 ショック
朝は、まだ涼しい。
ラジオが伝えた。
「カカオの国際価格は、史上最高値を更新しました。」
カイは笑わなかった。
赤土は夜の湿りをわずかに残している。
バナナの大きな葉が、重たく垂れ、
裂けた縁が風を小さく刻んでいる。
「値段が上がったって....」
売るものが、無い。
カイは立ちつくしていた。
そして考え込んだ。
枯れてしまった木は、元には戻らない。
カイは、まだ枯れていない木の幹に触れた。
幹から直接、いくつもの実が生えている。
だが、数が少ない。
指先で一つ持ち上げる。
黒い染みが、皮の表面に広がっている。
ブラックポッド。
爪を立てると、柔らかく崩れる。
足元には、落ちた実。
蟻が群れ、甘い匂いがわずかに漂う。
向こうで、クアメが立っている。
何も言わない。
ただ、木を見ている。
「まだだ。」
低い声で、それだけ。
何がまだなのか、カイは聞かない。
⸻
ナナが走ってくる。
「お兄ちゃん!」
小さな手に、まだ青い実を抱えている。
「これって、踊るかな?」
カイは一瞬、息を止める。
十年前の夜が、胸の奥で揺れる。
「踊らないよ。」
そう言いながら、
バナナの葉が揺れるのを見る。
葉の影が、幹に波のように映る。
踊っているのは、光だ。
⸻
ポケットの中で携帯が震える。
ニュースの通知。
価格は、また上がった。
カカオ、史上最高値。
チョコレート・ショック。
世界が騒いでいる。
カイは画面を見る。
数字は、豊かだ。
だが、籠は軽い。
発酵箱は、半分空いている。
木は、静かだ。
⸻
クアメが黒い実を一つ、刃で切り落とす。
落ちる音は、驚くほど小さい。
ぱさり。
ナナが、その音に振り向く。
「これ、どうして?」
クアメは答えない。
代わりに、別の木へ歩く。
背中は、象のように大きい。
揺れない。
⸻
カイは、空を見上げる。
去年は雨が多すぎた。
その前は乾きすぎた。
花は落ち、
実は腐り、
若木はまだ細い。
価格が上がっても、
畑は急に実らない。
世界は不足を叫ぶ。
ここでは、ただ、実が少ない。
⸻
ナナが大きな木を見上げる。
「お兄ちゃん、この木、もっと大きくなる?」
カイは答えない。
代わりに、そっと幹に触れ、軽く叩く。
低い音。
まだ、生きている。
遠くで、ラジオの声が流れる。
西アフリカ全域で収穫量減少。
農家の生活不安。
輸出減少。
言葉は遠い。
だが、赤土の上に立つと、
それは遠くない。
カイは、目を閉じる。
木の未来を想像する。
だが、浮かぶのは、
数字と、夜と、
深い青。
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風が止む。
畑は、静まり返る。
それでも、どこかで、
小さな葉が、風を刻んでいる。
⸻
昼前になると、空気は重くなる。
隣の畑から、男たちの声が聞こえる。
「アブドゥは、もう戻らないらしいな。」
「アビジャンで働いてるんだと。」
「あぁ、港だ。荷下ろしだってさ。」
笑い声が短く続き、すぐに止む。
クアメは何も言わない。
だが、刃を入れる手が、ほんの少しだけ強い。
カイは聞いている。
アブドゥは同い年だ。
去年まで一緒に実を集め、発酵箱を運んだ。
「ここにいても、先が見えないよ。」
そう言って、ここを去った。
⸻
村の若者は減っている。
雨は読めない。
価格は読めない。
肥料は高い。
学校を終えた者から、街へ行く。
アビジャン。
ブアケ。
遠くの港。
畑に残るのは、
父親たちと、まだ小さな子ども。
カイはスマートフォンを握る。
価格は、また上がっている。
世界はカカオを求めている。
だが、この畑を継ぎたい若者は、少ない。
矛盾が、胸に重く落ちる。
⸻
「継がなくていい。」
朝の、クアメの言葉が浮かぶ。
あれは、諦めか。
稼げない。
先がない。
そういうことか。
カイは、目を閉じる。
ナナが、発酵箱の蓋に腰掛ける。
「お兄ちゃん、チョコレート作れる?」
その声は、軽い。
カイは、少しだけ笑う。
「……作れたら、いいな。」
作れる。
頭の中では、何度も作ってきた。
温度。
時間。
豆の音。
だが、足りない。
豆が。
現実を、無駄にできない。
⸻
遠くで、ラジオがまた鳴る。
「西アフリカ全域で生産量減少。
異常気象と病害の影響。」
西アフリカ。
ガーナ。
ナイジェリア。
カメルーン。
同じように、木は軽い。
同じように、若者は減っている。
同じように、価格だけが跳ねている。
世界は不足を嘆く。
だが、この赤土の上では、
ただ、木が静かに立っている。
⸻
カイは、幹に耳を当てる。
音は聞こえない。
だが、命は流れているはずだ。
目を閉じる。
枝を切る父の姿が浮かぶ。
守るために、切る。
待つために、減る。
価格ではなく、時間で動く世界。
カイの胸の奥で、何かが揺れる。
⸻
風が戻る。
バナナの葉が揺れている。
光が、幹の上で踊る。
ナナが、それを見て笑う。
「ほら、踊ってるよ。」
カイは何も言わない。
だが、その揺れから、目を離さなかった。
⸻
夕方、畑の空気がやわらぐ。
作業を終え、籠を片付ける。
発酵箱の蓋を閉める音が、軽い。
軽すぎる。
ナナは先に家へ戻る。
アミナが火を起こしている。
煙がゆっくりと空へ上がる。
クアメは、まだ畑に立っている。
背中は広く、動かない。
夕陽が沈み、赤土が暗くなる。
カイは、家の奥に行く。
木箱から古い封筒を取り出す。
角が擦れ、紙は少し黄ばんでいる。
十年前に届いた手紙。
エルアン。
あの男の文字。
「私は私たちの土地を守らなければならない。」
あのときは、理解できなかった。
なぜ、続けないのか。
なぜ、止めるのか。
だが今、軽い籠を持つと、
言葉の重さが変わる。
切ること。
守ること。
待つこと。
カイは、空を見上げる。
まだ青い。
あの夜を思い出す。
月明かり。
ざらついたチョコレート。
少女の声。
「いろんな形があるの。」
ールナ。
あれから十年。
彼女は、どうしているのだろう。
チョコレートを、作っているだろうか。
それとも、忘れてしまっただろうか。
⸻
夜。
家の中は静かだ。
アミナはナナを寝かせている。
クアメの咳が、奥から一度だけ聞こえる。
静かな夜。
カイは机に向かう。
白い紙を置く。
ペンを持つ。
指先に、わずかな震え。
何度も、頭の中で書いてきた。
だが、紙の上では、うまく並ばない。
外に出る。
月が昇りはじめている。
赤土は、深い色に変わる。
バナナの葉が、夜風に揺れる。
カイは、息を吸って、また机に向かう。
そして、最初の一行を書く。
「覚えていますか。」
インクが、紙に染みた。
それだけで、何かが動き始める。
畑は暗い。
実は少ない。
価格は高い。
若者は減る。
だが、月は昇る。
静かに。
確かに。
夜は、ゆっくりと深い色に変わっていく。




