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navy moon ー月はいつも丸いー  作者: A.O.C.DESIGN
序 章 Amuse はじまりの契機
1/24

第一話 ショック

朝は、まだ涼しい。


ラジオが伝えた。

「カカオの国際価格は、史上最高値を更新しました。」


カイは笑わなかった。


赤土は夜の湿りをわずかに残している。

バナナの大きな葉が、重たく垂れ、

裂けた縁が風を小さく刻んでいる。


「値段が上がったって....」

売るものが、無い。


カイは立ちつくしていた。

そして考え込んだ。


枯れてしまった木は、元には戻らない。


カイは、まだ枯れていない木の幹に触れた。

幹から直接、いくつもの実が生えている。

だが、数が少ない。


指先で一つ持ち上げる。

黒い染みが、皮の表面に広がっている。


ブラックポッド。


爪を立てると、柔らかく崩れる。


足元には、落ちた実。

蟻が群れ、甘い匂いがわずかに漂う。


向こうで、クアメが立っている。


何も言わない。

ただ、木を見ている。


「まだだ。」

低い声で、それだけ。


何がまだなのか、カイは聞かない。



ナナが走ってくる。

「お兄ちゃん!」


小さな手に、まだ青い実を抱えている。

「これって、踊るかな?」


カイは一瞬、息を止める。


十年前の夜が、胸の奥で揺れる。

「踊らないよ。」


そう言いながら、

バナナの葉が揺れるのを見る。

葉の影が、幹に波のように映る。


踊っているのは、光だ。



ポケットの中で携帯が震える。


ニュースの通知。

価格は、また上がった。

カカオ、史上最高値。


チョコレート・ショック。


世界が騒いでいる。


カイは画面を見る。

数字は、豊かだ。

だが、籠は軽い。

発酵箱は、半分空いている。


木は、静かだ。



クアメが黒い実を一つ、刃で切り落とす。

落ちる音は、驚くほど小さい。


ぱさり。


ナナが、その音に振り向く。

「これ、どうして?」


クアメは答えない。

代わりに、別の木へ歩く。

背中は、象のように大きい。


揺れない。



カイは、空を見上げる。


去年は雨が多すぎた。

その前は乾きすぎた。


花は落ち、

実は腐り、

若木はまだ細い。


価格が上がっても、

畑は急に実らない。


世界は不足を叫ぶ。


ここでは、ただ、実が少ない。



ナナが大きな木を見上げる。

「お兄ちゃん、この木、もっと大きくなる?」


カイは答えない。

代わりに、そっと幹に触れ、軽く叩く。


低い音。

まだ、生きている。


遠くで、ラジオの声が流れる。


西アフリカ全域で収穫量減少。

農家の生活不安。

輸出減少。


言葉は遠い。


だが、赤土の上に立つと、

それは遠くない。


カイは、目を閉じる。


木の未来を想像する。


だが、浮かぶのは、

数字と、夜と、

深い青。



風が止む。


畑は、静まり返る。


それでも、どこかで、

小さな葉が、風を刻んでいる。



昼前になると、空気は重くなる。

隣の畑から、男たちの声が聞こえる。


「アブドゥは、もう戻らないらしいな。」

「アビジャンで働いてるんだと。」

「あぁ、港だ。荷下ろしだってさ。」


笑い声が短く続き、すぐに止む。


クアメは何も言わない。

だが、刃を入れる手が、ほんの少しだけ強い。


カイは聞いている。


アブドゥは同い年だ。

去年まで一緒に実を集め、発酵箱を運んだ。


「ここにいても、先が見えないよ。」

そう言って、ここを去った。



村の若者は減っている。


雨は読めない。

価格は読めない。

肥料は高い。


学校を終えた者から、街へ行く。


アビジャン。

ブアケ。

遠くの港。


畑に残るのは、

父親たちと、まだ小さな子ども。


カイはスマートフォンを握る。


価格は、また上がっている。

世界はカカオを求めている。

だが、この畑を継ぎたい若者は、少ない。


矛盾が、胸に重く落ちる。



「継がなくていい。」


朝の、クアメの言葉が浮かぶ。


あれは、諦めか。

稼げない。

先がない。

そういうことか。


カイは、目を閉じる。


ナナが、発酵箱の蓋に腰掛ける。

「お兄ちゃん、チョコレート作れる?」

その声は、軽い。


カイは、少しだけ笑う。

「……作れたら、いいな。」


作れる。


頭の中では、何度も作ってきた。


温度。

時間。

豆の音。


だが、足りない。

豆が。


現実を、無駄にできない。



遠くで、ラジオがまた鳴る。


「西アフリカ全域で生産量減少。

異常気象と病害の影響。」


西アフリカ。


ガーナ。

ナイジェリア。

カメルーン。


同じように、木は軽い。

同じように、若者は減っている。

同じように、価格だけが跳ねている。


世界は不足を嘆く。


だが、この赤土の上では、

ただ、木が静かに立っている。



カイは、幹に耳を当てる。


音は聞こえない。

だが、命は流れているはずだ。


目を閉じる。


枝を切る父の姿が浮かぶ。

守るために、切る。

待つために、減る。


価格ではなく、時間で動く世界。

カイの胸の奥で、何かが揺れる。



風が戻る。

バナナの葉が揺れている。

光が、幹の上で踊る。


ナナが、それを見て笑う。

「ほら、踊ってるよ。」


カイは何も言わない。

だが、その揺れから、目を離さなかった。



夕方、畑の空気がやわらぐ。


作業を終え、籠を片付ける。

発酵箱の蓋を閉める音が、軽い。


軽すぎる。


ナナは先に家へ戻る。

アミナが火を起こしている。

煙がゆっくりと空へ上がる。


クアメは、まだ畑に立っている。

背中は広く、動かない。

夕陽が沈み、赤土が暗くなる。


カイは、家の奥に行く。

木箱から古い封筒を取り出す。


角が擦れ、紙は少し黄ばんでいる。

十年前に届いた手紙。


エルアン。


あの男の文字。

「私は私たちの土地を守らなければならない。」


あのときは、理解できなかった。


なぜ、続けないのか。

なぜ、止めるのか。


だが今、軽い籠を持つと、

言葉の重さが変わる。


切ること。

守ること。

待つこと。


カイは、空を見上げる。

まだ青い。


あの夜を思い出す。


月明かり。

ざらついたチョコレート。


少女の声。

「いろんな形があるの。」

 ールナ。


あれから十年。


彼女は、どうしているのだろう。

チョコレートを、作っているだろうか。


それとも、忘れてしまっただろうか。



夜。

家の中は静かだ。


アミナはナナを寝かせている。

クアメの咳が、奥から一度だけ聞こえる。


静かな夜。

カイは机に向かう。


白い紙を置く。

ペンを持つ。


指先に、わずかな震え。

何度も、頭の中で書いてきた。


だが、紙の上では、うまく並ばない。


外に出る。

月が昇りはじめている。


赤土は、深い色に変わる。

バナナの葉が、夜風に揺れる。


カイは、息を吸って、また机に向かう。

そして、最初の一行を書く。


「覚えていますか。」


インクが、紙に染みた。

それだけで、何かが動き始める。


畑は暗い。

実は少ない。

価格は高い。

若者は減る。


だが、月は昇る。


静かに。


確かに。


夜は、ゆっくりと深い色に変わっていく。

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