指先(ひとごろし)の愛と、割れた湯呑み
トーストが焦げる匂いと、古い換気扇の回る音。それが、僕の知っている、いつもの朝だった。
どこにでもある食卓。少し背中を丸めた母の、レジ打ちで荒れた指先。
十七歳の僕にとって、世界はこの家の中だけで足りていた。半径二メートルくらいの、退屈で、でもちゃんと温かい毎日。
それで十分だったはずなのに――
玄関を突き破るような勢いで、激しいノックが響いた。その音が、僕の日常を一瞬で吹き飛ばす。
心臓がひとつ、大きく跳ねて、息が止まる。
「佐藤健斗さんだね。署まで来てもらおうか」
眩しい逆光の中に立つ、氷点下で沈黙する男たち。
その空気だけでわかった。僕の人生が、今この瞬間に、別のものへと書き換わろうとしている。
カタン、と音がして、母が落とした湯呑みが、畳の上で割れた。
たぶん僕の人生のピークは、一昨日だ。数学の小テストで満点を取った、あのどうでもいい瞬間だったのだと思う。
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警察署の取調室は、驚くほど冷えていた。
剥き出しのパイプ椅子に座らされ、数時間が経過している。お尻から這い上がってくる冷気が、僕の思考を麻痺させていく。
目の前の机には、僕が触れたこともない、証拠と称される写真が並んでいた。
「郷田さんの息子さんが、嘘をつくメリットなんてないんだよ。なあ、認めろよ」
刑事の吐き出すタバコ臭い息が、僕の顔を撫でる。その臭いは、胃の奥にある昨日の夕飯を、今すぐ吐き出させそうなほど不快だった。
郷田。この街の人間なら誰もが知る名前だ。大きな建設会社の御曹司で、学校でも常に中心にいる。
僕のような、放課後に図書館で時間を潰すだけの凡人が、関わるような相手じゃない。
「やって、ません……。その時間は、塾の自習室に……」
僕の声は、自分の耳にも届かないほど細かった。
防犯カメラの映像は消去され、目撃者は郷田の取り巻きたち。真実というやつは、どうやら数と金で、いくらでも上書きできるものらしい。
午後、面会室に現れた母の顔は、朝よりも十歳は老けて見えた。
「健斗。大丈夫。お母さんは、信じているから」
アクリル板越しに、母が微笑む。でも、その手が握る安物のペットボトルは、細かく、ずっと震えていた。
指先は血の気が引いて白くなり、小刻みな振動が卓上を叩く音だけが、静かな部屋に響く。
その震えが、僕を信じているという言葉を、何よりも残酷に否定していた。
でも母は、僕を疑っているわけじゃない。僕たちの無力さに、ただ圧倒されているだけだ。
「お父さんが、会社に掛け合ってるからね。きっと大丈夫よ」
母の声は、自分自身に言い聞かせるような呪文に聞こえた。
僕の人生を埋め尽くしていた、スーパーの安売りのチラシや、風呂掃除の当番。そんなささやかな断片が、遠い異国の出来事のように思える。
胃の底に、重い鉛を流し込まれたような違和感が居座っている。
それはきっと、これから僕たちが落ちていく、奈落の入り口の匂いだった。
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釈放された日の空は、不気味なほど青かった。
「疑いが晴れたわけじゃない。あくまで在宅捜査に切り替わっただけだ」
刑事の言葉は、乾いた砂のように僕の耳を通り抜けた。
一歩外に出た瞬間、スマホが壊れたバイブ機能みたいに震え出す。
画面に並ぶのは「性犯罪者」「佐藤健斗」「特定」という、僕の名前を核にした毒々しい単語の羅列だった。
家の前に着いたとき、視界がぐらりと揺れた。
白い外壁に、赤いスプレーで「死ね」「獣」と書き殴られている。まるで、家そのものが血を流しているみたいだった。
「ただいま」
僕の声は、誰にも届かない。リビングの空気は冷たく淀み、安物のカーテンが外からの視線を拒むように閉じられていた。
夜、父が帰宅する音が聞こえた。いつもの規則正しい足音じゃない。千鳥足の、重く引きずるような音だ。
玄関で何かが倒れる音がして、すぐに焼酎の刺すような匂いが漂ってきた。
「……なんで俺が、あんな奴らに頭を下げなきゃいけないんだ」
父の怒号が、薄い壁を震わせる。
「会社じゃ腫れ物扱いだ。勤続二十年が、ガキの不始末でパーだよ!」
父は、僕の部屋のドアを蹴った。そのたびに、棚に並んだ参考書が床に落ちる。
「お前がやったんだろ? 本当は、やったんだろ!」
僕は布団の中で、耳を塞ぐことしかできなかった。湿った耳鳴りが頭の中で響き、上下左右の感覚が溶けていく。
隣の部屋では、母が声を殺して、ただひたすら床を拭く音が聞こえていた。
父の怒りと、母の沈黙。その狭間で、僕という存在が消えてなくなればいいのにと、本気で願った。
翌日、母に付き添われてスーパーへ行った。食料が尽きかけていたし、何より、外の世界との繋がりを断つのが怖かった。
けれど、かつての知り合いたちは、僕たちを見つけた瞬間に背を向けた。
陳列棚の向こう側で、鋭い視線が背中に突き刺さる。それは刃物よりも深く、僕たちの平穏を削り取っていった。
「健斗、これを」
母が差し出したのは、特売の鶏肉だった。その手は、やっぱり震えている。でも、母は何も言わず、ただレジへと向かった。
僕たちを包囲する冷たい視線の中で、母は透明な壁に守られているみたいに、場違いなくらい落ち着いて歩いた。
その日の深夜。
父は、何も言わないまま、家の外へ消えた。
リビングの古びたテーブルには、署名済みの離婚届と、一本の空になった焼酎瓶。窓から差し込む街灯の光が、そこに積もった埃を白く照らしていた。
「……ああ、やっぱり逃げるんだ」
僕の心に浮かんだのは、怒りでも悲しみでもなく、前もって用意していた諦めだった。
三十年近く連れ添った縁も、息子への信頼も、世間体という暴力の前では、この焼酎と同じ、ただの空瓶に過ぎなかったらしい。
父がいなくなったリビングは、ひどく広かった。埃の舞う静寂の中で、母だけが、いつものように雑巾を絞っている。
その背中があまりに小さくて、僕は初めて、自分の指先が感覚を失うほど冷え切っていることに気づいた。
家族は、もう終わったんだ。トーストの焦げる匂いが幸せだった日々は、もう二度と戻ってこない。
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家を引き払った日は、雨だった。家財道具のほとんどを処分し、僕の手元に残ったのは、薄汚れたリュック一つ。
逃げ込んだのは、駅裏の、カビと煙草の匂いが染み付いたボロ宿だった。
一泊二千円。壁は紙のように薄く、隣室の男の咳き込む音と、得体の知れない唸り声が深夜まで響いている。
「健斗、少しだけ横になりなさい」
母の声は、もう掠れて聞き取りにくかった。
狭い六畳間で、母は荷物の隅にうずくまっている。その姿は、まるで役目を終えて捨てられた、壊れかけの道具みたいに見えた。
翌朝、宿のロビーに郷田の弁護士が現れた。高級なスーツの皺一つない質感が、この不潔な空間で暴力的に浮いている。
彼は薄笑いを浮かべながら、一枚の書類を突きつけた。
「示談書です。罪を認め、被害者に謝罪する。そうすれば、服役は免れるよう郷田代表が計らってくださる」
「やっていないことを、認めろと言うんですか」
僕の声は震えていた。
弁護士は、憐れむような目で僕を見た。
「君の未来なんて、向こうの一言でどうにでもなる。このままじゃ、お母さんも路頭に迷うことになるんですよ?」
弁護士が去った後、部屋の中には死んだような沈黙が流れた。窓の外では、何も知らない人々の笑い声が遠く聞こえる。
もう、どこにも逃げ場はない。
僕が存在しているだけで、母の人生は削り取られていく。
僕は、リュックの奥からカッターナイフを取り出した。
親指でスライドさせると、チチチ、という小気味よい音とともに、新しい刃が現れる。蛍光灯の光を反射する、無機質な白さ。
それは、今の僕にとって唯一の、確実な救いに見えた。
「……ごめん、お母さん」
遺書を書こうとして、ボールペンを握る。
その時だった。
「健斗」
名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
顔を上げると、そこにいたのは、僕の知っている「お母さん」ではなかった。
母は、ボロ宿の薄い壁の向こう側――いや、この街のすべてを見透かしているような、異様に鋭い眼光で窓の外を見つめていた。
その瞳には、恐怖も、悲しみも、迷いもない。ただ、冷徹なまでの意志だけが、そこに宿っていた。
母が古いトランクの裏底を、迷いのない指先で引き剥がす。
現れたのは、時代遅れの分厚い衛星電話だった。SIMカードも入っていないはずだ。それでも母は迷わず起動させる。
「お母さん、何を……」
その瞬間、部屋の気圧が、ガクンと下がった気がした。母の前の空気だけが、ひどく重い。僕は呼吸を忘れ、ただ立ち尽くした。
プルル、という無機質な呼び出し音が一度だけ鳴り、相手が繋がる。
母は、レジ打ちの仕事中とはまるで違う、深く、響く声で囁いた。
「私よ。……掃除が必要になった」
相手が何を言っているのかはわからない。だが、母は敬語すら使わず、淡々と事務的に言葉を落とした。
「郷田を。一族ごと、明日までに」
返事を待つ間、母の表情は一切動かなかった。
「記憶からも消しなさい。……ええ、わかっているわ。対価は、私の残りの人生でいい」
電話を切った母は、ゆっくりと僕の方を向いた。
そこにはもう、重力の歪みも、冷徹な支配者の影もなかった。いつもの、少し猫背で、疲れ果てた「お母さん」が、困ったように笑っていた。
「さあ、健斗。明日の朝ごはんは、何がいいかしら」
カッターナイフの刃が、僕の手から滑り落ち、畳の上に音もなく刺さった。
涙すら出なかった。
ただ、母が電話を置いたその瞬間から、外の世界の喧騒が、急に遠ざかっていくのを感じていた。
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翌朝、ボロ宿の狭い部屋のテレビが、狂ったように同じニュースを繰り返していた。
『郷田財閥、大規模な粉飾決算の発覚により全資産凍結。代表の郷田氏は、本日未明、強制捜査により――』
『速報です。郷田氏の長男、薬物所持の疑いで現行犯逮捕……』
画面の中では、昨日まで神のごとく君臨していた男たちが、無数のフラッシュを浴び、泥を這いつくばるようにして黒塗りの車へ押し込まれていた。
かつての威厳など微塵もない。そこにあるのは、ただの惨めな敗北者の姿だった。
同時に、ネット上には、真実が溢れ出していた。
僕が嵌められた現場の、別角度からの鮮明な動画。郷田の息子が、笑いながら証拠を捏造する音声データ。
まるで最初から準備されていたかのように、世界中のプラットフォームへ同時拡散されていた。
「健斗、パンが焼けたわよ」
母の声に、僕は弾かれたようにテレビから目を離した。コンビニで買った安い食パンを、備え付けのトースターで焼いた匂い。
母は、少し猫背のまま、頼りない足取りでトレイを運んでくる。昨夜の、あの重力を歪める支配者の影は、どこにもなかった。
そこにいるのは、スーパーのパート面接に落ち続けていた、いつもの平凡な母だ。
焼き立てのパンを口に運ぶ。
口の中に広がる温かさと、香ばしい風味。その熱が、凍りついていた僕の感覚を、ゆっくりと溶かしていく。
ふと、気づいた。
テレビのニュースも、ネットの書き込みも、僕を中傷していた言葉たちが、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っている。
ただ、冤罪が証明されただけじゃない。
僕を追い詰めていた恐怖も、世間の憎悪も、すべてが精密に計算された情報の洪水によって押し流され、上書きされていた。
母が使った力は、郷田を倒すためだけのものではなかったんだ。
僕の心に残るはずだった、一生消えないはずの傷跡さえも、世界ごと作り直すことで、なかったことにした。
「……母さん、あの電話……」
言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。
母が僕の肩に、そっと手を置いたからだ。
少し荒れた、レジ打ちの仕事で固くなった手のひらの感触。その手のひらは、僕を包み込むように優しく、かすかに震えていた。
その震えは、恐怖からではなく、一つの役目を終えた後の、母としての深い安堵からきているのだとわかった。
「今日は、新しいスーパーの面接なの。惣菜コーナーなんですって。受かるといいわね」
そう言って微笑む母の視線が、ほんの一瞬だけ鋭くなった。
テレビの中の「郷田」を通り越し、その背後に横たわる『この国』の構造そのものを、見抜こうとするみたいに。
それは、かつて僕の知らない場所で、数多の人生を指先一つで書き換えてきた者だけが持つ、手慣れた測量の目だった。
けれど、母はすぐに古びた財布を握りしめ、レジ袋のストックを数え始める。
「あ、一枚足りないわ」
そう言って困ったように笑う姿は、どこまでも頼りない、ただの僕の母親だった。
宿を出ると、雨は上がっていた。
母は、少し腰をさすりながら、人混みの中へ紛れていく。その背中は小さく、どこまでも弱々しい。
それでも、僕は知っている。
小さな背中の向こう側に、底の見えない沈黙の力が潜んでいることを。
一人の少年を守るために、彼女は静かに、容赦なく、世界を一つ作り変えてみせたのだ。
母の愛は、世界を滅ぼすほどに、深く、静かだった。




