25話 歴史
足音は空間に飲み込まれるように響いては溶けて、海の静寂に包み込まれる。
「肉体的な死こそ永遠ではあるものの、誰かの記憶の中でその人は生き続けることができる」
「記憶の中で……?」
首を傾げる私を一瞥したレカムさんは、小さく頷いてから椅子を引いた。魚影が私たちを覆っては退けて、影と光の中をくぐり抜ける。神秘的な空間の中、レカムさんは一冊の絵本を開いた。
「――遠い昔、そのまた昔。小さな島に、ホシクサという青年が居ました。彼は民を守るために産まれた存在。力を持たない人と違い、ホシクサは自然を操る聖なる力を持っていました」
紙をめくる音が、秒針のようにゆっくりと響き渡る。描かれる絵はまるで子供が描いたような、可愛らしいものだった。
ページの真ん中には真っ白な髪で、私と同じ目の色をした男の子。ぴょんっとしらたまちゃんは頭から飛び降りて、見上げるように顔を上げた。
「んみゃ……?」
「あぁ、そうそう。先に伝えておくと、私はこの子の主ではないよ。正真正銘、カランちゃんのお友達さ。……或いは、今は亡き英雄かな」
――私が別荘として住んだ時には、居なかったから。と言葉を続けたレカムさんはまたページを捲る。
悠久の時を過ごしているような気分だ。海底という神秘的な空間、変わらない景色。小さく呼吸をしながら、絵本の世界に入ろうと耳を澄ませた。紡がれる物語を、辿るように。
「ホシクサは、人々を守るために寝る間も惜しんで鍛錬を積み重ねました。人々を葬る闇に対抗するために。しかし、闇はホシクサ一人で太刀打ちできる相手ではありませんでした」
真っ白な青年─ホシクサが剣を構えて、歪みが生まれる空を見上げるその後ろで。祈るように膝を畳む人々の影が、揺らぎを見せた。
「恐怖、絶望……先が見えない戦いは、次第に人々の心を蝕んでいったのです。やがて、飲まれた心は闇の餌となり、大きな悪夢の花を咲かせました。それは剣を振るう手のすぐ傍で、あまりにも静かに花は咲いて」
「みゃ……」
「守るべきものが眠りにつくその姿が、正しいはずがなかった。花は、民が幸せだった頃の思い出を象るように美しく咲いて。畏れる心を失った人々は、それに縋るように眠り続けてしまいました」
幸せそうに眠る人の手を握るホシクサは、静かに涙を流す。安らかに目を閉じる人の胸から咲き誇る花は鮮やかに、その横を過ぎる赤紫の蝶は歪む空へ飛び去った。
「何人が花を咲かせただろうか。数えることさえ、彼にはもうできなかった。……ホシクサは、ついに剣を降ろしました。抗うことが、必ずしも正義とは限らない。勝算のない戦いを続けることが、果たして救いなのか――彼は迷ってしまったのです」
絵本を見上げるしらたまちゃんは、何も言わずただじっとそれを見つめていた。ぺちぺちと動いていたしっぽも、今はピタリと止まっている。
レカムさんは息を一つ吐いてから、ぺらりとまたページを捲った。
「ダメだ、貴方は我々の希望の星なんだ。その声にホシクサは首を振りました。もう、剣を振る理由が見つからなかったのです。それでも民は続けました。――俺達も力になりたい。戦わずに死ぬのなら、戦って死んだろうがかっこいいだろうが、と」
「……ん、みゃ」
「民は、膝をついたホシクサの背中を叩きました。長い夜が訪れても彼らは互いを鼓舞し、剣を振るい続けました」
繋いだ心は崩れることはなく、彼らの影は明るく描かれる。魔法が使えるホシクサは、魔力が尽きるまで民を援護する盾となり。ホシクサの剣となった民は死も恐れず勇敢に立ち向かっている。夢喰と描かれた、影のような魔物に。
「朝と夜はいつしか交わり、白夜が訪れました。しかし夢喰と違い、民には寿命があります。終わりなき戦いの中、最初にホシクサの背中を叩いた男には新しい家族が出来ました。寄り添う女性の大きくなったお腹を愛おしそうに見つめる男に、ホシクサはある決断をしました」
目を瞑るホシクサの後ろには、大きな島。
そっとレカムさんがページを捲った時、ホシクサはその島を指さして海に大きな筏を浮かばせた。
「あの島は、まだ闇に見つかってはいない。この島は私と共に生涯を迎えよう。皆は今すぐ、移住するんだ。このホシクサが、生きているうちに」
「……! もしかして、その島って」
「今のハスリーベ島だよ。そう、ここは元は無人島なんかじゃなかった。本当は、ハスリーベ島が無人島だったんだ」
知らなかった。あんなに栄えているハスリーベ島が無人島で、この島が歴史を築いていたところだったなんて。
開いた口を閉じれば、ふと脳裏に過ぎる花畑。
(ミカゲと洗濯物を干しに行ったあの場所は、もしかするとこの島で眠る人々の追悼の花畑だったのかな)
そう思った途端、目頭が熱くなる。
ホシクサ……さんの境遇があまりにも過酷で、けれど最後まで『守る』と課された使命を遂行するために決断したその人生に、酷く胸が打たれた。そしてあの花畑。もし、ホシクサさんが被害に遭った民の花を集めていたのであればどんな気持ちで……花畑を。
瞬きをすれば、ぴちゃんと雫が手の甲に落ちる。今の私に泣く権利なんてないのにと、擦る指に柔らかな布が触れた。
「すまない。随分と暗い話になってしまったね。今日はここまでにしとくかい?」
「……ううん、最後まで聞きたい。ホシクサさんと、民はその後どうしたの?」
手触りのいいハンカチで涙を拭えば、レカムさんはハンカチから手を離してページを捲った。
「最初から最後まで共に居てくれた男に、この歴史は語り継がないで欲しいとホシクサは頼みました。そして、新時代を作るハスリーベ島に最大の加護を施し、英雄ホシクサの祈りの欠片は精霊を宿しました。――人と精霊、助け合うその未来がどうか幸福なものでありますように」
色鮮やかな花をつけた精霊と、人間が手を取り合い笑う絵を最後にレカムさんはぱたんと本を閉じる。
「あ、あれ。おしまい……?」
「あぁ、この物語はここでおしまいだ」
知りたかった結末は飛ばされ、突然に終わった物語に肩透かしを食らった気分だ。絵本が閉じたと同時に、現実世界に戻ったように身体から力が抜ける。どこか上の空のしらたまちゃんを両手で掴めば、無反応のまま手中に収まった。
「誰も知らないんだ、英雄の終わりをね。ただ祖父は、この世界に精霊が生まれたのはホシクサの永遠の加護ではないかと言っていたよ」
「……レカムさんのおじいちゃんって、もしかしてホシクサさんと最期まで共にしていた男の人?」
「ははっ、正解だよ。祖父が云うには、英雄と闇は相打ちだったんじゃないかと。どうやら二人の遺体もなかったらしくてね」
水面が照らす書庫で、レカムさんは音を立てずに席を立ち絵本を棚へしまった。
鳴かないしらたまちゃんを、もみもみと揉んで顔を海へ向ける。枠に囚われず自由に泳ぐ魚たち。海の宝石のようにその鱗を輝かせては、自らの意思で流れを生み出しその道を辿る。まるで海の星空みたいだ。
心地よい水の音に耳を澄ませれば、泡のように浮かんでくる疑問。
「なんだか、似てるね。今の厄災と昔の厄災。今は幸せな夢を見せてそれを食べているみたいだけど……」
「そうだね。だから私は、話すべきだと思ったんだ。歴史が、繰り返される前に……この世界が滅びてしまう前に。闇の記憶はなくとも、この英雄譚の中で生きているのだから」
「その記憶が闇の存続に繋がる可能性があったから、多くに語られなかったんだね」
スクリーンのように大きなガラスに手を当て、海を見上げるレカムさんは苦しそうに瞼を閉じて振り返った。
黄金の髪は海のベールを被って美しい翠色へ変わる。
「だけど私はこの英雄のように、君に世界を守って欲しくはないんだ。君はすぐに自己犠牲で解決しようとする子だから」
「……そ、んなこと」
「あるんだ、……あるんだよ。だからね、一つ約束して欲しい。たった一つ、簡単なものを」
コツコツとレカムさんの足音が空間に響いていく。その音に吸い込まれるように、私も席を立って足を前へ出した。二人の影が重なった時、レカムさんの後ろで大きなクジラが空へ登っていく。海を突き抜けて飛び散る光の欠片。水泡がキラキラと輝くなか、レカムさんは今にでも泣いてしまいそうな顔で私を見つめた。
「どうか、誰にも相談せずに一人で傷つく選択だけはしないでほしい」
「……わ、わかった」
「全く響いてないね、私の言葉。でもどうか、忘れないで欲しい。君が自己犠牲を選ぶことで傷つく人がいることを」
そう言って、レカムさんは初めて私の髪の毛に触れた。腫れ物に触れるように弱い力で頭を撫でた後、そっと髪束を掬われる。そして、ふわりと太陽の柔らかい香りが広がった刹那、触れるようなキスが髪先に落とされた。
「ひ、ぇ……」
さらりと金色の髪が美麗な彼の髪にかかる。長いまつ毛に、すらっと伸びた鼻筋。あまりの近さに呼吸さえ忘れて目を見張る。
ドキドキと高鳴る鼓動はときめきか、それとも美術品との距離感の緊張なのかもう分からない。身動きすら取れなくなって、きゅっと唇を結べば、レカムさんの伏せた目が様子を伺うように上目になるものだから、ぱちりと視線が絡んでしまった。
「フフッ、君は照れるとそんな顔をするんだね」
「な、なっ……!」
「気を悪くさせてしまったのなら、すまない。つい、私も彼らみたいな事をしてしまいたくなって。どうか、許して欲しい」
なんて、ぱっといたずら笑顔を浮かべたレカムさんは鳴り止まない心臓に苦しんでいる私を置いて、「さぁ戻ろうか」と歩き出す。
わなわなと震えながらも、置いていかれるものかと走り私は口を開けた。
「レカムさんにさっきの約束、そっくりそのまま返すよ! 惚れられようと、しないで! ばっ」
「ば?」
「……なんでもないです。でも私のために命を落とそうとしないで。怒るよ」
危ない、国王様に対して「ばか」とか口が滑っても言ってはいけない言葉を言いかけた。何とか喉に飲み込んだけれど、緊張は消えない。そんな中、一緒に入ったエレベーターのボタンを押したレカムさんはくすりと笑ってこう言った。
「じゃあその言葉、是非みんなに言って欲しいな」




