24話 贖罪
過去最高の速度で走り、息も絶え絶えのまま食堂に脚を踏み入れる。逃げるように戻ってきた先、黒靴が視界に入りぎょっと顔を上げた。
「レ、レカムさん」
「おっと、おかえりカランちゃん」
「た、ただいまです……」
肩で息をしながら顔を上げれば、満月の眼を開いてレカムさんは笑う。
「随分と疲れているみたいだね。紅茶を入れてこよう、少し座って待っていてくれるかい?」
「あ、でもお湯とかスミレくんとカキラがいないと……」
「? あぁ、それなら問題ないよ。私は、雷属性だからね。この屋敷に帰ってきた時点で、全て使えるようになっているはずだ」
なんて言って、レカムさんは私の手を取り慣れた手つきで座らせてから席を外した。しんっと静まり返る食堂に差し込む日差しは暖かく、微睡んだ空気に荒んだ心は次第に落ち着いていく。
(あ、机つめたい……)
誰もいないのをいいことにぴとっと頬を机にくっつければ、熱を冷ますようにひんやりとした感覚が広がって気持ちいい。ふと瞼を開ければ、窓から見える穏やかな景色。カキラの聖水を浴びた植物たちは嬉しそうにその花弁を咲かせて、滴る水滴を輝かせる。それがなんだか嫌に眩しく見えて、そっと視線を外した。
「……みんな、知ってたんだ」
「んみゃ?」
「私に惚れられたら死んじゃうこと。必死に隠してたの、馬鹿みたい……」
なら最初から自重してって頼めたのになぁ。なんて机と頬っぺの温度は交わり馴染んだ頃、不貞腐れた私の目の前に美しいティーカップが現れた。
ちゃぷんと揺れるルビーの波。手袋越しでもしなやかだと分かってしまう指先が、ソーサーから離る。ことりと置かれた際に、小さくぶつかる陶器の音が静かなこの空間に響き渡った。
「カランちゃんにとって、彼らの好意は迷惑だったかい?」
「えっ……」
「知っているのと、知らないままでは彼らの行為の受け取り方は変わってしまう。ただ一瞬でも君の中に根付いてしまった疑惑は、すぐに晴れるものでもない」
甘い香りが湯気を伝って鼻をくすぐる。
机からほっぺを離せば、レカムさんは斜め前に腰をかけてくすりと笑った。いじける子供を宥めるように、紡がれる言葉は優しくて。差し込む光にぼやける彼の輪郭は、景色と相まっていっそう綺麗に魅せた。
「疑念って程でもないけど……。スミレくんやミカゲの好意が、善意からのものか本心なのかがもう分からなくて。それを疑うのも失礼だなって自分に嫌気が」
「フフッ、そうか。私からすれば、自分の命を賭けてでも恋焦がれる子を救うために動いている時点で、本物だと思うけどね」
伸びた手は私の頭の上で止まって、そのまま迷うようにしらたまちゃんを撫でる。素肌を隠す手袋は、まるでレカムさんの心の壁みたいで。絡んだ視線を、そっと逸らした。
「じゃあ、レカムさんは。レカムさんはどうしてここに来たの。私に惚れられちゃうかもしれないんだよ」
過ぎるのは、カキラの「償い」という言葉。
レカムさんの距離感はすごく居心地が良いから、つい八つ当たりをするみたいに返してしまった。
これじゃあ、ただの甘えてる子供だ。だけど、言った言葉は戻らないからとそっぽ向けば「そうだなぁ」と空間に溶けてしまいそうなほど小さな声が落ちる。まるで、どこか遠い過去に想いを馳せるみたいに。
「昔、私は君によく似た子に――ある使命を与えてしまったことがあってね」
「……使命?」
「あぁ。ただその結果、その子は世界の誰よりも残酷な運命を背負うことになってしまった」
長い灰色のまつ毛を伏せては、紅茶を見つめる。肩を竦めながら息を吐いたレカムさんは、そのまま悔いを飲むように紅茶に口をつけた。
「私は、どうしても自分が許せなくてね。今はただ自己満足のために、君を利用しているだけなのかもしれない。……幻滅したかい?」
揺れる満月の眼、影が落ちるその微笑みにきゅっと心臓が掴まれたように苦しい。
「そんなこと……」
ないと、言いかけた口を閉じる。
幻滅するわけない。そう言いたいのに、音には出せなくて。喉まで出かかった言葉が、誰のものなのか分からなくなる。
だけど、レカムさんがそこまで責任を感じることはない……根拠はないけれど、そんな気がしたんだ。
ふと紅茶に口をつければ、薄まった香りが運ばれる。唇がひんやりとして、ひと口飲んだそれはぬるく冷めてしまっていた。
(これが、カキラの言ってた償いなのかな)
静寂が包む中、どこか遠くで「トマさんのせいで、俺もうカランちゃんに信じて貰えなくなった……」と弱々しいスミレくんの声が聞こえてくる。
現に疑ったのは事実だけど、トマさんだって好きで暴露した訳じゃないから許してあげて欲しい。あれは一生懸命耕していた真後ろでカキラと私が遊んでいたから怒っただけで。感情的にさせてしまったのは、きっと私達のせいだと思うから。
「……っ! そうだよ。レカムさんのその昔の事情だって、そうせざる得ない状況だったんでしょ? その人だって、もし嫌だったならその使命を捨てたかもしれないし」
「フフッ、そうだね」
「ひ、響いてないでしょ私の言葉。……だからね、つまり。選択した先の後悔は誰にでもあるし、そんなことで私は嫌いになれないよ」
そこまで言って、異論は受け付けませんと紅茶を一気に煽ればレカムさんはゆっくり瞼を閉じて「そうか」と小さく微笑んだ。そのまま少しずつ瞼を開けて、小鳥がさえずる窓に目を向ける。
靡く前髪も、すっと伸びる鼻筋も綺麗な形の唇も本当に絵画の中の人みたいに美しい。光合成をするように光を浴びているしらたまちゃんを取って、麦畑を連想させる綺麗な頭にぽんっと乗せた。
今レカムさんの心を癒せるのはきっと、この子しかいないだろう。
「んみゃ?」
「しらたまちゃんは、真の主さんの元へ戻るんだよ」
「みゅ?」
きょとんと笑うしらたまちゃんは、首を傾げて私を見上げる。そんな可愛いことしても流されないからねと、人差し指で頭を押せば「んみ」と力強く鳴いて私のおでこに向かって飛んできた。
「なっ、わっ……!」
「みぃ〜〜!」
何に対して癇癪しているのか分からないけれど、おでこに引っ付いたしらたまちゃんはぺちぺちと小さなしっぽをぶつけてくる。全然痛くないけど、離れてとひっぱっても脅威の力で離れない。
「ぅ、う〜レカムさんが、しらたまちゃんの主なんだよ。しらたまちゃん!」
「んみゃ〜!」
「おっと、すまない。その件も含めて話さないといけないことを忘れていたよ。カランちゃん、休憩はここまでにして……少し着いてきてくれるかい?」
差し出された手を掴めば、レカムさんはどこかに案内するように私の手を引いて歩き始めた。
食堂を出てホールを抜ける。握る手は、私が離してしまえばすぐに解けてしまうくらい弱い。まるで、緩く結ばれたリボンみたいだ。例え手を離しても、レカムさんはきっと何も言わない。そう思った途端、私は剣を握るみたいに繋いだ手に力を込めていた。
「……あぁ、今から行くところは怖いところではないから安心して欲しい。面白いところでもないけどね」
「えっ、ちが! あの……怖いわけじゃ」
ないんだけど、揶揄うどころかあまりにも無垢な顔で見てくるから否定するのも気が引ける。仕方ない、そういう事にして手を繋いでいようと先に続く言葉を飲み込めばピタリとレカムさんの足が止まった。
目的地に着いたのかと顔を上げれば、アンティーク調のエレベーターが目の前に。重厚感のあるそれに思わず息を飲めば、レカムさんは未だに私のおでこに引っ付いてるしらたまちゃんを取ってぽすっと私の頭に乗せた。
「君たちに伝えようとした大事な話は、既に他の三人には話してしまってね。これから地下の書庫に向かう予定なんだが、私と二人きりが気まずければカキラを連れてくるかい?」
「……。……ううん、カキラは今大丈夫。その、心臓に悪いから。寧ろ、レカムさんの傍の方が一周まわって安心する」
「そうかい? じゃあもし彼が拗ねたら、対応はカランちゃんにお願いしようかな」
よろしく頼むよなんて笑うレカムさんは、先程の影はもう見えなくて。私たちは二つ返事でエレベーターに足を入れた。
ゴウンゴウンと揺れるエレベーター。耳がくぐもった感覚に、眉を顰めれば視界に水面のような青の光が差し込んだ。その根源を辿るように顔を上げれば、透き通る海の中を泳ぐ小さな魚たちが渦を作り出し大きなクジラがその輪に入り込む。
「すごい……海の中?」
まるで、宝石の中に閉じ込められた海の中に居るみたいだ。この世界を照らす太陽は白く輝いてベールを被せるよう海を透かす。
のんびりと下りるエレベーターの窓に手を当てるレカムさんは、「驚いたかい?」といたずらに笑った。
「ここは、海底の書庫。地上に出ることが叶わなかった、多くの歴史が眠る場所さ」
「……地上に出れなかったの?」
「少し前に話した英雄のことは覚えているかい? 彼がね、自分だけではなく当時のこと全てを、後世へ遺したくなかったんだらしいんだ」
海を見渡すレカムさんは、宝物を見るように目を細める。水に溶けてしまいそうな満月の眼は、外に居る時よりもくっきりと見えた。
「どうして、英雄さんは遺したくなかったのかな。もし同じことが起こった時、手がかりになるのに」
情報は遺しておいて損はないのにね。と呟けばレカムさんは「そうだね」と視線を海へ戻した。水面を映す床が近づいていく。
「これは、私の憶測だけれど。彼は、誰かの記憶に残ることが……厄災の起因となることを恐れたんじゃないかな」
「覚えててもらうことが?」
そう問いを投げた刹那、暗闇が私たちを覆った。一瞬の浮遊感の後、チンっと到着を告げるベルが鳴る。
繋いだままの手を引いたレカムさんは、その三つ編みをふわりと揺らした。
「あぁ。私は昔ある人に言われた事があるんだ。――人間は、二度死ぬという話をね」




