10:近づく期限
ある日の夕食時だった。
久し振りにお父様と一緒に食事をしていた。
「ジルベルトが来てもう十年くらいか?」
「ええ。急にどうしたんですの?」
「いや、気付いたら随分デカくなってるなと思ってな」
お父様がふと思い出したように聞いてきた。
言葉を濁していたけど、たぶんサルメライネン王国との和平協定期間の十二年が近づいてきているから、聞いてきたはずなのよね。
協定更新のとき、基本は最初の人質期間が終われば元の国に戻すものだけど、そのまま残って国に戻らない者もいる。
ジルはどうしたいのか聞いていなかった。
いつかちゃんと話さなければならない日が来る。それまで、蕾を枯らすことなく大切に育てられたらいいな、とこのときは思っていた。
夕食後、部屋に戻り人払いをしたあとに、ジルにソファに座ってと言うと、迷わず隣に寄り添うように座ってくれる。
他の使用人がいると頑なな態度だけれど、二人きりになるとそれが軟化する。
私だけが知っている特別なジルの姿。
「今日、お父様に言われて気付いたわ。ジルがここに来て、もうすぐ十年になるのね」
「……ああ」
ジルが少し俯き加減で返事をしたのが気になって、両頬を包んで私の方に顔を向けさせた。
「首が折れるよ」
ジルが困ったように微笑みながら、私の両手を取り膝の上におろした。両手を繋ぎ合ったままで、ジルが手の甲や指をそっと撫でるように触れてくる。
いつも無表情なのに、こういうときは必ず柔らかく微笑んだまま。
「私、ジルが好きよ」
「――――っ!」
「二人きりのときは、微笑んでくれるでしょ? それにこうやって触れてくれる。心臓が甘く締め付けられるほど嬉しいの。好き」
ジルは言葉にはしないけれど、心に抱く淡い想いは同じものだと思っていた。
同じ花の蕾を育てているのだと信じていた。
「っ、ごめん…………もう、二度と触れないようにする」
「……え」
ジルが苦しそうな顔で私の手を離して放った言葉に、心臓が潰れるほどの衝撃を受けた。
なんで? なんで、謝るの? なんで、後悔したように言うの?
「ごめん、ビアンカ……今日はもう部屋に戻るよ」
二人きりのときだけ緩む表情、くだける言葉遣い、触れる指先、それらに私に向けられた愛情を感じていた。だけど、それは私の勘違いだったらしい。
ジルが立ち去ったあと、呆然としながらベッドに潜り込んだ。
ジルにとっては、ただのスキンシップだったのかもしれない。敬愛や友愛に近い。
……それとも、もしかして私が強要していたのだろうか? 私たちの間に感じていたものは、主従関係で成り立っていた? ジルは嫌々だった?
だから、二度と触れないと言った?
ジルが見せてくれるようになった、仕方なさそうな顔や呆れ顔、照れた顔なんかも、全部まやかしだったのかな?
それを私はずっと勘違いして、恋だと思っていて、愛されていると思っていて、ずっと…………。
ずっとジルのことを想っていた。
いつかこの恋には終わりが来るのは分かっていた。皇帝の娘として生まれたのだから、帝国のために結婚する覚悟は出来ている。
たとえ相手がカッスリーノ様レベルの残念な人であろうとも、帝国のためになるのなら文句などない。
婚約者のいない今の間だけ、本気で恋をしていたかった。
侍従として育てていたけど、いつの間にかジルに本気で恋をしていた。どのタイミングかなんてわからない。だだ、ジルが側にいるのが当たり前で、ジルが私を好きでいてくれているから頑張れていた部分も多かった。
この日、人生で初めて声を殺して泣いた。
苦しくて、悔しくて、悲しくて、淋しくて。
あんなこと言うんじゃなかった。好きなんて、直接言葉にしなければ良かった。
ジルと微笑み合う日々はもう二度と戻ってこない。私がついさっきその関係を壊したから。
なんにも考えないで、思った言葉を口に出したせいで。
枕に顔を強く押しつけて泣き続けた。
自分の中にあるジルへの恋心が、思っていたよりも大きくて、人生の半分が消えてなくなってしまったみたいな喪失感に襲われた。
そしてそんな状態のまま気絶するように眠ってしまい、翌朝に目元や頬が真っ赤に腫れて酷い肌荒れを起こしていた。
侍女たちに酷く心配されてしまい事情を聞かれたけど、何も答えられなかった。
私の様子を見たジルが、なにか言いたそうにしていたけれど、視線を合わせられなかった。彼のチョコレートのような瞳を見てしまったら、また涙があふれそうだったから。
ミルコはジルから何かを聞いているのか、いつもならからかったり飄々として聞いてくるのに、静かに公務の予定の変更などの手配をしてくれた。
「ビアンカ様、明日の公務も別日にずらすよう手配が終わりましたので、私たちは本日は失礼します。人手などが必要でしたらリリアンヌにお申し付けください。侍女を派遣します」
「ん…………ミルコ、ありが、と」
「いいんですよ。では」
恭しく礼をしたミルコが、呆然と立ち尽くしていたジルの腕を引っ張って出ていってくれた。
ドアが閉まった途端に、また涙が溢れて来た。
「ビアンカ様、温かいものを飲みましょう?」
「っ、うん…………ホットチョコ以外がいい……」
「はい。ハニーミルクにしましょう」
「うん…………リリアンヌ、ありがとう」
皆が優しくて、また涙が溢れた。私の涙腺は昨日からずっと壊れてしまっている。