ありがとうの声が聞こえる
6月15日。
その週の土曜日、夜。
メイ――いや、芽依が寝静まった頃、俺はイヤホンをつけてリビングのソファに沈んだ。
この時間は、俺にとって“日常と非日常の境界線”だ。
月に一度の楽しみ、南野咲良のファン配信が始まる。
画面には相変わらず、柔らかな照明と白い壁紙。
咲良は今日も飾り気なく、だけど完璧な笑顔でカメラの向こうにいた。
「こんばんは、南野咲良です。みんな、今週もお疲れさま~!」
コメントが一斉に流れる。
「待ってました!」
「今日もかわいい!」
「天使か?」
俺もそのなかに、そっと「おつかれさまです」と書き込む。
配信の中盤、咲良はふと、トーンを落とした。
「そういえば、少し前にね――すごく印象的な子どもに出会ったの」
コメント欄が静かになった。俺も、指を止める。
「その子、小さな声で“ありがとう”って言ってくれたの。
たったそれだけなんだけど……なんか、心がふわって軽くなったというか」
咲良は、微笑むように目を細めた。
「今でも、その声が耳に残ってる。
なんていうか、“届いた”って感じがして。
どこかで、また会えたらいいなって思ってるんだ」
その言葉が、頭から離れなかった。
咲良が話していた“ありがとう”をくれた子――その姿は語られなかったけど、俺はつい、芽依の声を思い浮かべてしまう。
彼女が言っていた“ありがとう”をくれた子どもが誰かなんて、俺にはわからない。でも、俺の脳裏には自然と芽依の顔が浮かんだ。
……もしも。
もしもこの子が、咲良と俺の子どもだったら――
そんな妄想が、一瞬だけ頭をかすめた。
咲良に似ているといえば、どこか目の形が近い気もする。口調とか、歌が好きなところとか。
「……いやいや、なに考えてんねん俺は」
苦笑しながら、ソファに背を預けた。
そんなわけがない。
咲良みたいな人が、俺みたいなのと子どもを――
なんて、ドラマの見すぎだ。
けど、妄想くらいは自由だ。
咲良が舞台袖で芽依を抱き上げて、「頑張ったね」って言ってくれたら、
それだけでもう、たぶん、俺は泣く。
……いや、泣くな。号泣や。
寝室をそっと覗くと、芽依が布団の真ん中で大の字になって寝ていた。
小さな寝息がリズムよく続いている。
咲良の“ありがとう”とは関係ない。
でも、この子が今日俺にくれた「ありがとパパ!」が、確かにあった。
「……おやすみ、芽依」
そうつぶやいたとき、自分の顔が緩んでるのがわかった。
この子が、俺の娘だったら――
そう思うことくらい、許されてもいいだろう。
だけど、“届いた声”という言葉に、芽依の「ありがとう」が重なるのは、父親ぶってしまうようで、少しだけ照れくさくて、それでも、どこかくすぐったくて。
スマホの画面には、咲良が変わらぬ笑顔で手を振っていた。
《今日もありがとう。また、来月ね》
「こっちこそ……ありがとう」
俺はそうつぶやいてから、再び寝室の方に目をやった。
「おやすみ、芽依」
心の中で名前を呼ぶたびに、少しずつ確かになっていく。この子が、俺の生活の中心にいることが。




