君の名は?
ある5月の朝。
ポストに、見慣れない筆跡の封筒が届いていた。
差出人は書かれていない。消印も、わざとにじませたように曖昧だった。
中には、一枚の紙と、小さなメモ。
便箋にはこう書かれていた。
《――様
本状により、私、□□□□は、子・メイの養育を一時的に委任します。
関係各所への説明等に必要な際、ご使用ください。》
文末に名前がある。けれど、インクが滲んでいて、ほとんど読めない。文字がかすかに残っている気もするが、確証はなかった。
まるで――わざと読ませないように書いたみたいに。
これは、保険になる。
でも、法的にどこまで通用するかと聞かれたら……圧倒的に、グレーだ。
それでも、昨日までのように「俺、誘拐したんちゃうやろか」と震えるような状態からは、抜け出せた気がした。
午後。俺は、きらきら保育園の入園書類に目を通していた。
松田先生には昨日、電話で事情を説明している。
詳しくは聞かず、それでも「困ったときは助け合いや」と言って、入園を受け入れてくれた。
「亮誠くん、自分で“親”の欄に名前書く覚悟、できた?」
先生のその声が脳裏に蘇る。
書類の最後のページ――「子どもの氏名」の欄。
ここだけが、まだ白紙のままだった。
「めい」
声に出して読んでみる。
何度も何度も呼んできた名前。どういう字を書くんだろうか。どんな漢字なのか、俺は一度も考えなかった。
メモにも漢字は書かれていなかった。
つまり――今、ここで俺が決めていいということなのか?
ペンを握りしめ、少し考える。
「芽……」
まっすぐ育ってほしい。
この1週間のメイの姿を思い浮かべて、浮かんできた漢字。
芽吹きの“芽”。
そして、“依る”。
人を頼っていい。誰かに寄り添って、誰かに頼られて生きていく。
俺だって、あの子に頼られて、ようやく立っていられるような気がしてる。
――芽依。
この字なら、俺がこの子に抱いている“願い”を込められる。
「うん……これで、いこう」
俺は丁寧に文字を書いた。
少し曲がった字だけど、それも俺らしくていいだろう。
芽が依る、で、芽依。
きっと、彼女に似合う名前だ。
リビングに戻ると、メイがソファの上で寝落ちしていた。
録画していたアニメのエンディングが流れ、小さな寝息が聞こえる。
小さな手が、毛布の端を握っていた。
その手に、そっと触れる。
「芽依」
呼びかけると、彼女はうっすらと目を開けて、「ぱぱ……」と呟いた。
名を呼び、応える。
その往復が、どこか、家族というものの始まりのように感じられた。