そして父になる?
5月某日。
大阪・自宅マンション。
午前10時半。
駅前で渡されたベビーカーの中にいた少女――今、俺のリビングでビスケットをかじっているその子が、俺の運命を変えた張本人だった。
「……なあ、メイちゃん」
誰に向けるでもなく、小声で呟いた。
さっきから彼女はリビングの端っこで、“ぴょんぴょんうさたん”なる謎のアニメを見ている。
今どきの育児にYouTubeは欠かせない。
「ほんまに、俺が君のパパって言ってるん……?」
その問いに、少女は答えない。
ただ、目をキラキラさせながら、「ぴょんっ!」と指を天に突き上げた。
俺のこの違和感――
いや、現実感のなさは、昨日の“あの瞬間”から始まっている。
ベビーカーを押しつけられたあの時、
その女性――“マスクの女神”は、俺の手に紙袋をひとつ握らせて去っていった。
中には、幼児用の着替えだけ。
服のタグには走り書きのような文字だったけれど、そこだけはハッキリ読めた。
「メイ」という名前。
漢字は書かれていなかった。
俺はそのメモを見て、何とも言えない気持ちになった。
「“芽”か、“明”か、“愛”か……それとも“メイサツジン”の“迷”か……」
ふざける気にもなれなかったが、名前というのは不思議だ。
“メイ”と名付けられたこの子は、
それだけでちゃんと“この子らしさ”を持っているような気がした。
「パパ、これ、きらいー」
リビングに戻ると、メイがバナナを押し返していた。
「さっき、バナナ味のビスケット食べてたやん……」
「これはほんもののバナナなの。ちがうー」
どうやら“味”と“本物”は別物らしい。哲学か?
スーパーで買ってきた幾つかのおにぎりから、メイは丸いおにぎりを選んだ。
「三角やろ常識……」という俺の心の声は無視された。
帰宅後、部屋で一緒に遊びながら俺は気づいた。
この子、歌がとにかく好きだ。テレビから流れる曲に合わせて自然と口ずさむ。
「メイ、うたじょうず?」
「うん!めい、おんぷちゃん!」
音符ちゃん。なるほど。
その夜。
寝かしつけた後、俺は彼女の再び服を手に取り、タグに目をやる。
「メイ」
たったそれだけの文字が、今の俺にはすごく重く感じられた。
この子の名前を、ちゃんと呼んであげる責任がある。呼ばれるたびに、「ここにいていい」って思えるように。
「メイ……」
そっとつぶやいた名前に、布団の中の小さな体がピクリと反応して、
「ん……パパぁ……」と寝言のように返事をした。
俺の胸がぎゅっとなる。
その夜、メイが寝たあと、俺はPCを開いた。
市のホームページで「一時預かり」「児童相談所」「里親」「無断保護」など、関連しそうな単語を調べまくった。
読むほどに、背筋が寒くなる。
《親権者以外が保護者として保育園に預けるには、委任状などの証明が必要です》
《不適切な保護や監護と判断される場合、通報の対象となることがあります》
俺のしていることは――もしかすると。
いや、“預かってる”だけだ。預けられたんだ。
頼まれただけ。でも……。
「これ、下手したら俺、誘拐犯とかになるんじゃないか……?」
パソコンの画面が真っ暗になった。
映り込む自分の顔が、どこか他人のように見えた。
寝室から、寝息が聞こえる。
無邪気な寝顔。名前も知らない、はずだった子。今では当たり前のように「パパ」と呼ぶ。
でもその「パパ」は、法律上なんの裏付けもない。
心が少し、ざらついた。
――明日、役所に行ってみようか。
そう思ったが、正直なところ、怖かった。
俺はこの子を“守ってる”つもりだったけど、
それが“奪ってる”ことになってないか――確信は、持てなかった。