マスクの女神とベビーカー
5月18日、日曜日。
ここは大阪のとある町。日曜日の夕方、駅前の広場は買い物客で賑わっていた。
人波を縫うように歩きながら、俺、アラサーの鶴畑亮誠はスマホを手に、スケジュール管理アプリを眺めていた。
「来月は3現場か。いや、4か?東京連戦、交通費キツいな……」
呟きながら画面をスクロールする。我が推しは今をときめく声優の南野咲良。イベントのある都内への夜行バスでの遠征は、俺にとってもはやライフサイクルの一部だった。
現場に行く、応援広告を打つ、フラスタ企画を仕切る。それが俺の休日であり、人生のモチベーションだった。
仕事?それは推し活を支えるための手段。
人間関係?……まあ、今はいい。しばらく恋愛からは離れてるし。
オタクの顔の裏で、俺は臨床心理士として、行政機関の発達相談センターで働いている。
発語が遅い子、感覚が過敏な子、保護者の不安や焦燥。そんな子どもたちと保護者の相談に応じる日々は、やりがいがある反面、時に重く、しんどくなることも多い。
だからこそ、週末の推し活は俺にとって“生き返る時間”だった。
けれどその日、俺は人生最大級の“やむなし当落”を引き当てることになる。
「――ッ!」
人波の向こう。何かが倒れそうになる音が聞こえた。振り返ると、ベビーカーが段差でぐらつき、横倒しになりかけていた。
仕事柄か、咄嗟に手を伸ばして支える。中には、2〜3歳くらいの小さな女の子。
びっくりしたような目で俺を見上げて、でも泣かなかった。偉い。
「だいじょうぶ……?」
そう声をかけた俺の前に、帽子とマスクで顔の大半を隠した女性が現れた。
茶色がかった髪。身長はおおよそ俺と同じくらい、スッとした佇まい。
「ありがとうございます!本当に助かりました……!」
……あれ、この声、どこかで――?
俺が声の記憶をたどっている間に、女性は深く頭を下げたかと思うと、唐突にこう言い出した。
「鶴ちゃん、この子、預かってもらえないですか?一週間だけ!本当に、急なんですけど……」
「は?」
「事情は後で説明します。必ず迎えに来ますから。お願いします!」
そう言って、彼女はベビーカーを俺に託した。
いやいやいや、待って、なんの話?
俺、今、他人の子どもを受け取ったの??
「ちょ、ちょっと――!ちょっと待って!」
叫びかけたが、彼女は人波に紛れるように駅の改札へと駆けていった。
後ろ姿が消えるまで、ほんの数秒。
俺の手には、ベビーカーのグリップと、信じられないほど静かに俺を見つめる少女――その子の存在だけが残された。
「……え?」
沈黙の中で、女の子が口を開いた。
「ぱぱ?」
その瞬間、頭の中で何かがバチンと弾けた。
推し活?課金?遠征?
すべてが、一瞬で遥か彼方へ飛んでいった。
こうして俺――臨床心理士・咲良オタク・独身アラサーの“パパ業”が、予告なく幕を開けた。