8.妹セシリア
王宮内に与えられた自室へ戻り、疲れ切った身体の求めるままにソファに転がり、そのまま眼を閉じて、気づいたときには瞼の向こう側が明るくなっていた。
まだ寝ていたいという欲望に負けて瞼を下ろしたままでいると、ふと人の気配を感じた。室内に誰かがいる。その誰かは近づいてきて、身を屈めて、そして自分の髪にそっと触れた。
エイヴァはそこでやむを得ず、ゆるゆると瞼を持ち上げた。明るい陽射しの中で、こちらを見下ろす深緑色の瞳が微笑む。素晴らしい美少女が至近距離にいる。エイヴァはそれを確認して再び瞼を下ろした。予想していた通りだったので問題はない。この部屋の鍵を持つのは、マスターキーの存在を除けば、自分と世界一の美少女だけだ。
二度寝の態勢に入ったエイヴァに、ため息交じりの声が降ってくる。
「お姉様、こんなところで寝ていたら風邪を引きますわ」
「だいじょーぶ……、頑丈、だから、ね……」
「いけません。起きるか、ベッドで寝るかです」
妹のセシリアは昔から生真面目な頑固者だ。エイヴァはしぶしぶと瞼を持ち上げた。
もぞもぞとソファの上で身体を起こし、ぼうっとしていると、上品な美少女が近づいてきてバスタオルを渡される。
「お湯を張っておきましたから、どうぞ。目が覚めますわ」
「セシィ、仕事は?」
「王妃様にお休みをいただきましたわ、ご心配なく」
セシリアは王妃付きの侍女だ。昨日の件はすでに耳に入っているのだろう。
エイヴァはよろよろと浴室へ向かった。王太子の婚約者であるから───現在の立場は非常に微妙なものになってしまったが───自室の設備は整っている。ポーター家が開発した魔道具と、国内の豊富な水資源のおかげで、いつでもお湯に浸かることができる。戦地で嵐に揉みくちゃにされるのに比べたら、広い浴室とたっぷりのお湯は最高だ。エイヴァは頭から湯を被って、ほうと息を吐き出した。
自室といってもほとんど帰ってこないため、専任の侍女はいない。自分のことは自分でできるので問題ないのだけど、セシリアはいつも「お姉様は大雑把すぎます」といってまめまめしく世話を焼いてくれる。ときどきちょっと小姑みたいだなと思ってしまうのは一生の秘密である。そんなことを口にした日には、あの生真面目な妹からこんこんとお説教されるに決まっているからだ。
セシリアも自分も正真正銘の孤児院育ちだけれど、自分が王妃様に見込まれて戦場に出て功績を上げた後、二人そろって宰相閣下の弟君の養子になった。シャリールの姓は養父のもので、セシリアはシャリール家で貴族の令嬢としての教育を受けて育った。今では生まれながらのお嬢様のような風格がある。すごい。しかし正直なところ、自分の背中におんぶされてぐすぐすと泣いていた妹の姿が昨日のことのように思い出せるので、お姉様なんて呼ばれると違和感しかない。しかしうっかりそれを口にしようものなら、たいへん冷ややかな眼で見られる。怖い。
エイヴァがほかほかになって浴室を出ると、室内には空腹を刺激するいい匂いが漂っていた。
この部屋にあるミニキッチンは後付けされたもので、設置理由はセシリアが必要だと主張したからだ。「お姉様は放っておくとろくな食事をしませんもの」といい張る妹に、もっと姉を信用してほしい、と思ったのは当時の話。現在ではとてもありがたく感謝している。この部屋に帰ってくるたびに妹の手料理を食べているからだ。姉の威厳は美味しい手料理の前には敗北するのだ。
髪が濡れたままなのをセシリアに見とがめられて、エイヴァは仕方なく備え付けの魔道具を手に取った。魔物の軍勢を燃やし尽くすほどの爆発的な火力を発揮する魔術は得意だが、自分の髪を乾かす程度の弱い温風を出し続けるというのは難しい。
ちなみにこれはエイヴァに限った話ではなく、ほとんどの魔術師がそこまで都合よく威力を調整することはできない。だからこそ魔道具が売れるのだ。エイヴァが知る限り、魔術師でそんな真似ができるのはオスカーくらいだ。
あの男が昔、雨でずぶ濡れのまま会議の場に飛び込んできたエイヴァを呆れたように見やって、人差し指を軽く弾くだけのほんの一瞬の仕草で水気をきれいに取り除いてくれたときには、感動を通り越して謎の怒りまで覚えたものだ。これほどの実力を持っているのに、どうしてサボっては寝ることしかしないんだろうか、この男は。いつでもどこでも目を離した隙に寝ているこの男が、陸域で最強の魔術師なんて詐欺。そんな気分だった。
セシリアの小言を避けるために、伸ばしっぱなしの長い髪はひとまとめにし、身支度も整えて戻ると、ローテーブルの上には立派な朝食が並んでいた。エイヴァはいそいそとソファに腰を下ろし、冷めないうちに頂くことにした。温かな食事は最高であるし、妹の手料理は世界一美味しい。
食べられるうちに食べておけ、話せるうちに話しておけが基本の戦地とは違い、王宮内で食べながらもごもご話すと妹の冷たい視線が飛んでくるので、ひとまずは食事に専念する。
好き嫌いはないので、端からせっせと口に運んでいると、セシリアがいい香りのするお茶を淹れてくれた。妹は世界一気が利くと思いながら、エイヴァは口当たりの良いお茶を飲み、朝食を綺麗に平らげた。
「デザートもありますわ」
「やだ、天才……?」
朝からきらきらとしたフルーツタルトを切り分けてくれる妹は、いつから仕込みをしていたのだろうか。エイヴァは少し気になったものの、怖くて聞くのはやめておいた。料理は妹の趣味ではあるけれど、苛立ちの発散も兼ねているということは知っている。下手なことを聞いたら藪蛇になる気がする。
しかし確認しなくてはいけないこともあったので、エイヴァは妹の分のお茶を淹れて、正面に座るように促した。
お互いに向き合って座り、お茶を一口飲んでから尋ねる。
「セシィ、一応聞いておくけど、王太子殿下の状況をわたしに知らせなかったのは、王妃様の命令?」
「そうですわね、9割ほどは」
「……残りの1割はなによ?」
「わたくしの意志ですわ」
「意志」
「意志です」
「どんな意志なの……?」
恐る恐る尋ねると、妹の美しい深緑色の瞳がきらりと輝いた。
「お姉様。これはいっても仕方のないことだとわかっていましたから、今まではずっと胸の内にしまってきましたけれども」
「はい、なんでしょうか」
「わたくしは王太子殿下との結婚には反対でした」
「えっ……、なんで?」
「お姉様に罵声を浴びせることしかしない人間との結婚を、どうして祝福できると思うのですか」
「あー……、まあ、あれは、ほら、殿下にも事情があったし。セシィだって知ってるでしょ?」
「ええ、存じておりますわ。あの方の境遇には同情もします。ですけどお姉様、どれほど深い劣等感があろうとも、他人に暴言を吐いて良い理由にはなりません」
「うっ……、それはそうなんだけど……、でも実害はなかったしね?」
「実害がない? おかしなことをおっしゃいますのね。王太子殿下ときたら『下賤の女』『野蛮な女』『誰の腹から生まれたかもわからない野良犬』『穢れた血の卑しい孤児』などと、日頃から熱心に吹聴してくださっていたのですよ。わたくし、あんな屑とお姉様がこの先の一生を共にされるのかと思うと、頭がおかしくなりそうでしたわ」
「あー……、まあ、それは、うん、殿下は口は悪かったよね……。でもほら、暴力とかはなかったしね?」
「それは妃殿下がいらっしゃるからでしょう。妃殿下の存在があるから抑えられていただけです。ですけど、いつまで妃殿下が健在でいらっしゃるかなんて、誰にもわからないこと。妃殿下がいなくなったら、そのとき王となったあの男がお姉様を攻撃するのを、誰が止めるというのですか」
エイヴァはからりと笑った。
「なんだ、そんなことを心配してたの? 大丈夫だって。おねーさまを信用してよ。自分の身くらい自分で守れます。わたしは空域のトップ、天輪の大魔術師だよ?」
ばちんとウインク付きでキメて見せると、妹の顔がひときわ険しくなった。
「お姉様は楽天的すぎますわ」
「実力を伴った自信といってほしいな」
ふふんと得意顔で胸を張ってみせる。
しかしセシリアは、いつものように呆れ顔はしてくれなかった。妹の眼差しは思い詰めたような色を見せ、ほっそりとした指先はかすかに震えた。
「できもしないことをおっしゃらないで下さいませ」
「いや、本当に大丈夫だって。どうしたの、セシィ。なにかあった?」
自分の実力はわかっているはずなのにと、妹を覗き込むようにすると、美しい深緑色の瞳が揺れた。
そして小鳥の囀りのように美しい声が、吐き捨てるような激しさでいった。
「お姉様の自由を奪うのなんて簡単なことですわ。宰相閣下がしたようにすればいいのです。人質を取ればいい。それだけでお姉様は従うでしょう。───わたくしを人質に取られたお姉様が、戦わざるを得なかったように」
目を丸く見開いたエイヴァの前で、セシリアは怒りをあらわに続けた。
「王太子殿下も、お姉様の大切な部下の一人でも人質に取ることでしょうね。それでお姉様は逆らうことができなくなりますもの。簡単なことです。大魔術師であろうと関係ありませんわ。お姉様は身内を見捨てられない。そのくらいのこと、わたくしにだってわかるのに、どうしてお姉様はそうなのですか。あなたは昔から危機感というものが足りないのです! 大雑把で! おおらかで! ザルのような心で何でも呑みこんで!」
「待って、ザル? セシィまでザルっていった? えっ、もしかしてわたし、陰のあだ名がザルだったりする?」
「話をそらさないで下さいませ!」
「あっハイ、すみません……」
世界一の美少女の怒りの形相に、エイヴァは素直に謝った。
(……でも、人質って、今さらの話だしなあ……)
エイヴァは何といっていいかわからず、無意味に首に手を当てた。
確かに、セシリアがシャリール家の養女になったのは、自分に対する人質だったのだろう。