7.王妃とエイヴァ
「わたくしの子と生涯を共にするんですって」
「そうですか、生涯を……、えっ? 逃げ出すんじゃなくて?」
思わず率直な言い方をしてしまうと、王妃は凄味のある美しい笑みを浮かべた。
「ふふっ、面白いわよね。素敵なお手紙ももらったのよ。あの子を一生支えていく覚悟ですって。どういう意味かわかるかしら、エイヴァ?」
「ジェーンが殿下に本気だとはとても思えませんが……」
「そうでしょうね。これはオスカーがあの可愛い女の子へ約束した報酬だもの」
※
誘惑を本業とする工作員。望むと望まざるとに関わらず、一度足を踏み入れてしまえば抜けられない裏の仕事。常に危険と隣り合わせで、どれほど優秀だと誉めそやされようとも、たった一度の失敗で命まで奪われる。逃げれば死に、知りすぎれば死に、間違えれば死ぬ。辞めたくても辞められない。辞める日は死ぬ日だ。
そうやって生きてきた清楚な毒花の前に、ある日、強大な魔術師が現れて囁いた。
───君に仕事を依頼したい。報酬は、君一人では決して手に入らないものだ。
それは金でもなく、情報でもなく、宝石でもなく。
───安全な引退を、君に約束しよう。
王太子が失脚した後も、彼の傍にいる限りは、未来の第一王子夫妻にふさわしい護衛をつける。彼女の身の安全はオスカーが保証する。
いずこかにある亡き国の血筋を受け継ぐ高貴な令嬢ジェーン・スミスでいる限りは、彼女の身柄はオスカーの傘下にある。彼女の命を狙うことは、地上において最強の魔術師を敵に回すことになる。
その条件で、オスカーは彼女と契約を結んだという。
※
(……あの男、力づくで丸く収めようとしてきてるなあ)
昔、自分が空中戦のさなかに魔力切れを起こして真っ逆さまに落ちていったときに、地上で戦っていたオスカーが無茶苦茶なやり方で軟着陸させてくれたことを、なんとなく思い出す。
あの男の魔術で熱されて柔らかくなった魔物の死骸の群れの中に突き抜けていくという最悪の感触だったが、おかげさまで一命は取り留めたものだ。
彼は今も、同じことをしようとしているのだろうか? どうあがこうとも丸くなどならない事態を前に、それでも最大限の軟着陸を試みている。
(わからないな……。何を考えてる、オスカー? そこまで王妃様の御心に配慮できるなら、こちらに敵意はないんでしょう。まさか本当に、今さら野心に目覚めたとでも? だけど、なりふり構わず権力を奪いに行っているというわけでもない。……王妃様と敵対せざるような、なにか致命的な出来事があった? ここまで回りくどく外堀を埋めて、可能な限り穏便に事を収めようとしているのは、本当の狙いが王位ではないから……? なら、真の目的はなに? 本当は何が欲しいというの、オスカー)
わからない。
エイヴァはため息を一つついて、困惑を飲み込んだ。
今はオスカーのことよりも、王太子殿下とジェーンだ。そして何より目の前の御方だ。
深く息を吸い込んで、敵陣に切り込むときよりもはるかに緊張感に満ちながらも、口を開いた。
「王妃様、色々思うところはあるでしょうけど、ここはぐっと呑みこんで、二人を祝福しませんか」
「まあ、可愛いエイヴァ。正気とは思えない台詞ね?」
「王妃様に祝ってもらえたら、殿下はきっと喜びますよ。わたしも嬉しいです」
「ふふっ、やっぱり熱があるのね。婚約者を奪われた娘の台詞とは到底思えないもの。高熱に浮かされてしまっているのでしょうね」
「だって、王妃様。わたしでは殿下を幸せにはできませんでしたよ」
王妃があどけない微笑みを浮かべたまま、その瞳だけは静かにこちらを見る。
エイヴァはわずかに目を伏せて続けた。
「殿下の命をお守りすることはできました。何不自由ない暮らしを保障することもできたと思います。でも、わたしが傍にいても殿下は苦しいだけですよ。それは王妃様もわかっておられたでしょう?」
「……あなたはときどき、とても愚かなことをいうわね」
「ジェーンを許せないお気持ちはわかります。でも今は、ひとまず和解しませんか。永遠にとはいいません。二、三年でもいい。彼女とは休戦ということで手を打ちませんか。誰のためでもなく、王太子殿下のために。お願いします」
深く頭を下げて頼み込む。
王妃はしばらく答えなかった。
彼女は底知れぬ瞳でこちらを見つめて、やがて、感情を排したような声で呟いた。
「とっても愚かね、エイヴァ。それは……、婚約者に罵られ続けた娘のいうことではないわ」
「王妃様?」
意図を掴めず、問いかけるように王妃を見返す。
すると王妃は、一瞬の違和感を綺麗に拭い去って、いつも通りの少女のような笑みを浮かべた。困った顔をして、愛らしく頬に手を当てる。
「可愛いエイヴァ、わたくしはね、わたくしの子が一番大切なの」
「はい」
「あの子には玉座は重いだろうとわかっていたから、あなたを婚約者に据えたわ。あなたは能力だけでなく、精神的にも強い子だったから」
そこで王妃は、切なくため息をついた。
「いいえ、強いというよりは、ザルのような子ねと思っていたのだけれど」
「ザル……? それは褒めてます……?」
「ええ、とっても。だってあなたは、たいていのことをため息一つでのみ込める可愛い子だもの。わたくしの子がいくらあなたを侮辱しようと罵ろうと聞き流していたでしょう? そのザルのような心で」
「ザル以外の表現はないんですか」
思わずツッコミを入れてしまったけれど、王妃様にはきれいに無視された。
可憐な少女のような王妃様は、わざとらしいほどの切々とした口調で続ける。
「わたくしね、それを見てとっても安心していたのよ。あなたならわたくしの子の守り役をしながら、王妃としての務めを全うしてくれる。わたくしの子にふさわしい妻はあなたしかいないと思ったわ。───けれど、駄目だったのね」
それは静かな声だった。厳かですらあった。
「あなたでなくては駄目だったけれど、あなたでは駄目だった。あなたを排除することも考えたけれど、あなたでなくてはわたくしの子は玉座を維持できないでしょう。行き止まりね。ええ、いいでしょう、ここで手打ちにして差し上げるわ」
「王妃様? それはどういう……」
問いかけの言葉が途切れる。
王妃の薄青の瞳が、ひたりとエイヴァを見据えていた。
「今この一度きりしかいわないから、よく覚えておきなさいね。───未来のあなたを許してあげる。あなたの胸にいずれ芽吹くものを許してあげる。わたくしに深く感謝してちょうだいね」
「待ってください、王妃様。先ほどからおっしゃられている意味がわかりません。まさか、わたしがなにか、敵に付け入る隙を与えたと……!?」
「いいえ? あなたはあなたであっただけよ、わたくしの可愛いエイヴァ。あなたはいつだってわたくしの優秀な手駒だった。……さあ、もう帰ってちょうだい。わたくしは休みたいの」
問いかける瞳を無視してエイヴァを追い払った後で、王妃は一人立ち上がり、窓辺へと寄った。
オスカーに賭けを持ち掛けられたのも、月の美しい夜だった。
あの青年は、この先の王太子の処遇について淡々と話した後で、凍てついた瞳でこちらを見つめていったのだ。
『あなたは父上とよく似ていらっしゃる、義母上』
『心を返すことのない者にばかり夢中になり、己を慕って尽くす者を蔑ろにするところが』
その冷えた声を思い出して、王妃はふふっと笑った。怒りをたぎらせて笑った。
もう昔の話だ。
まだ未来を夢見る年頃だった頃、かつて王妃は、人形のように美しい夫に恋に落ちた。彼の心を振り向かせようと必死になり、信頼関係を築こうと懸命に努力した。なかなか子供に恵まれず、ついにはほかの娘たちが彼の寝台へ送られることなったときでさえ、歯を食いしばって耐えた。
けれど、捧げた愛のすべてが、尽くした日々のすべてが徒労に終わった後、王妃の心に残ったのは冷ややかな憎悪だった。自分に見向きもしない夫に見切りをつけて、腕の中に残った赤ん坊と、視線の先に広がるこの国を慈しもうと誓った。
決してあの男のようにはなるまいと思った。あの人形のような夫のようには。
それを見抜いていて、オスカーは自分を挑発してみせたのだ。
───エイヴァはまるで父上に尽くすあなたのようだ、義母上。
そう言外に告げられた。それがこちらの逆鱗に触れることを知っていて、あの青年は。
(ええ、そうよ。わたくしが一番大切なのはわたくしの子。エイヴァはわたくしの優秀な手駒にすぎないわ)
……けれど、こちらを見つめる彼女の瞳の奥に、母を慕うような色が滲んでいることを、知らないわけではなかったのだ。
王妃は窓辺で息を吐き出す。
そこに潜むのが怒りなのか嘆きなのか、あるいは愛なのか、彼女自身にもわからなかった。
婚約破棄物にちょっとひねりを加えた軽い話を書きたいと思い立った結果、
王妃←(クソデカ思慕)←エイヴァ←(クソデカ恋情)←オスカー
みたいなことになってしまいました。こんなはずでは…。
多分あと3、4話で終わります。