6.王太子殿下
ここまで来てしまっては、自分とオスカーの結婚は避けられない。
王妃様もそれはわかっている。王太子殿下を失脚させられたのだ、このうえ王太子妃という椅子までほかの派閥の者に奪われるわけにはいかない。オスカーの思い通りになるのがどれほど腹立たしくとも、ここで申し出を拒否してはこちらの力を削がれる一方だ。自分という誰の目にも明らかな王妃派の人間が次期王妃の座につく必要がある。
しかしだからといって決して絆されないようにと、王妃様としては釘を刺したいのだろう。
まあ、オスカーが何を考えていようと、王妃様への忠誠が揺らぐことはないのでそこは安心していただきたい。それにあの男が夫になったところで、『働け』『サボるな』以外の情が沸いてくるとは思えない。あぁでも、今はキリキリ暗躍するようになっているのだっけ。あのオスカーが。あの会議中に堂々と寝る男が。戦闘で頭を強く打ったんだろうか……?
そこまで考えてエイヴァは、自分たちの結婚よりも、ある意味ではよほど問題のあるカップルのことを思い出した。王太子とジェーン・スミス(推定偽名)だ。
王太子が失脚し、その座をオスカーに譲り渡したなら、ジェーンの任務は終了だろう。彼女はいつ姿をくらませてもおかしくない。けれど、彼女がゆうゆうと逃げ切ることを、王妃が許すはずもない。最愛の息子を陥れた人間だ。穏便にすませたとしても、捕らえて秘密裏に“処分”といったところか。
───だけど、それが万が一にも王太子殿下の耳に入ってしまったら、今度こそ親子仲は修復不可能だろう。
エイヴァは頭を抱えたくなった。先ほどの舞踏会での王太子の様子を思い出す。自分が食肉花にパクリといかれそうになっていることにも気づいていない南国気分ではあったけれど、エイヴァの知る限り、今夜の王太子はいつになく自信に満ち溢れ、堂々としていた。
恋とは偉大だ。圧倒的な才能を持つ弟の存在に圧し潰されそうになっていた彼に、生気を取り戻させたのだから。
※
初めて王太子殿下に引き合わされたのは、確か十三の頃だった。
戦場へ出てからおよそ一年ぶりに王都へ戻ってきたときに、王妃様にいわれたのだ。息子に外の世界の話をしてあげてほしいと。あの子は王宮から出られないからと。
それで自分は、王太子殿下も王妃様と同じようにえらい人で、報告をじかに聞きたがっているのだろうと思った。魔物の軍勢と戦いを、書面ではなく、その場にいた者から話を聞きたいのだろうと。今思えばひどい勘違いだった。
セッティングされたお茶会で、挨拶もそこそこに血生臭い話を始めると、殿下は顔面蒼白になって口を抑えた。体調が悪いのかと心配すると、今度は癇癪を起こして喚き散らした。どうやら戦場の話題はまずかったらしいと気づいて、慌てて話を変え、なるべく流血要素を抜いた魔術の話題を振ってみたけれど、これもまた激怒させてしまった。魔術は嫌いだったのかと思い、剣の話題を振ってみるも失敗。
もはやなにを話しても怒らせるという最悪のお茶会になってしまった。
とぼとぼと宰相閣下の弟君の屋敷へ帰り、妹にことの顛末を話すと、貴族の令嬢としての教育を受け始めていた妹は、不思議そうに首を傾げたのち、一冊の詩集を貸してくれた。王太子殿下は、魔術や剣よりも、こちらの話題のほうが好まれると思いますわというアドバイス付きで。
翌日、再び招かれたお茶会の席で、今度は最初から険しい顔をしていた殿下に、妹から詩集を借りて読んでいるという話をすると、そのとき初めて、彼の表情が和らいだ。
自分は胸の内で妹への感謝の祈りを捧げ、さらに王妃様に少しばかりツッコミを入れた。血生臭い話とか、魔術とか剣の話とか、そういうのが好きじゃないなら最初から教えておいてくださいよ! というか、自分を話し相手にするのがまちがってませんか!? と。
今になって考えれば、あの当時からすでに王妃様と殿下は少しずつすれ違い始めていた。
二度目のお茶会は、詩集と甘い菓子類の話に終始して、穏やかに終わった。明日も会えるかと聞かれたので、ごめんなさいと首を振った。明日には戦地に戻らなくてはならなかった。
しかしそれをいうと、殿下の顔は途端にこわばった。優しげな顔の少年は、ひどく暗い眼をして、オスカーにはもう会ったのかと聞いてきた。
魔術師として幼くして頭角を現した第二王子の名前は知っていたけれど、そのときはまだ作戦を共にしたことはなかったので、会っていないと答えると、殿下は少しほっとしたようだった。
殿下とはそれきりだった。次に会ったのは、王妃様の命令で婚約者になったときだ。
引き合わされた王太子殿下は、こんな下賤の女は嫌だ嫌だと喚き散らした。数年前の優しげな少年の面影は消え、発される空気は無数の針のように刺々しく、眼差しは暗く、放たれる言葉はひたすらに攻撃的だった。そして、血筋こそがこの世で唯一の価値であると考えるようになっていた。
まあまあショックだった。びっくりもしたし、唖然ともしたし、腹立たしさを通り越して心配になった。確かに癇癪持ちですぐに怒りだす人だったけれど、顔を合わせるなり「こんな下賤の女! 穢れた血が流れている女だぞ!」と罵ってくるような人ではなかった。
王妃様が特に説明してくれなかったので、自分の最も頼りになる情報源である妹に尋ねると、昨日今日で性格が一変した……というわけではなかった。むしろ、おそらくは、数えきれないほどの『小さなこと』の積み重ねだったのだろうと。
王妃様の権力がどれほど強くとも、王宮で暮らしていて、口さがない言葉を完全に遮断することは不可能だ。王太子の眼と耳を永遠にふさいで悪意から守ることも。
地上戦における最強の魔術師。陸域魔術師部隊のエース。彼一人で千人の魔術師に匹敵するとすらいわれる第二王子。
───それに引きかえ王太子殿下ときたら、血筋以外に何も取り柄がないじゃないか。
───弟君はあの歳で戦場に出て功績上げているというのに、王太子殿下は王宮に引きこもって震えているだけか。
───情けない。あれが未来の王か? 第二王子のほうがよほど玉座にふさわしいだろうよ。
そんな囁きが、人々の比べる視線が、殿下を歪ませ、追い詰め、圧し潰した。
……その話を妹から聞いたとき、エイヴァはため息を一つついた。
自分をあれほど激しく拒絶する殿下の心境を、わずかながら理解できた気がしたのだ。
高貴な血筋でないことも許せないのだろうけれど、それ以上に、空域の魔術師部隊のエースが婚約者になるなど、彼にとっては耐えられなかったのだろう。弟一人であっても、これほど比べられるというのに、このうえ婚約者までが魔術師であっては、この先どれほど……。
けれどエイヴァは、自分を婚約者に据えた王妃の心境もまた理解していた。
人々の支持を集めるため、“強い王家”を打ち出すため。
そして同じほどに、王妃は息子を守りたいのだ。王妃の第一子として生まれた以上、彼の前に敷かれた道は玉座へ続くものだ。そこから外れようとするなら、道行きはたちまち険しくなり、彼の命を奪おうとしてくるだろう。
たとえ玉座に向いていない人柄だとわかっていても、王太子である以上、王になることが最も安全で何不自由なく生きられる道だ。その椅子を捨てて道なき道を自ら切り開くなどというのは、それこそ桁外れの才覚がなくては不可能だ。
今代の国王陛下が人形王などと蔑まれながらも悠々自適の生活を送れているのは、彼が王だからだ。そして陛下の周りを王妃と宰相家が固めているからだ。
……王妃様は、自分に、王妃様が陛下にしているのと同じように王太子殿下を支えてほしいのだろう。殿下の一生を守ってほしいのだ。たとえそれが、殿下の心を追い詰めることになるとわかっていても、それでも。
エイヴァはため息とともに婚約を受け入れた。
王太子の際限なく続く罵声は笑顔で黙殺した。
……ほかにどうしようもなかった。
※
そう、どうしようもないと思っていたのに、あの王太子殿下があれほど南国気分になっているのだから、恋とは偉大である。これでジェーンがオスカーの手先でなければ最高だったのに。
しかし王太子殿下に自信を取り戻させるという、王妃にも誰にもできなかった偉業を成し遂げたのだ。ここで王妃様がサクッと処刑など行い、それが殿下の耳に入った日には今度こそ親子関係は終わりだ。いくらジェーンがオスカーの手先で、殿下を失脚させるために近づいたのだと説明したところで無駄だろう。ジェーンを侮辱するなと激高する王太子殿下の姿がありありと想像できる。そもそも、そんな話に耳を傾ける余地があるのなら、この状況に陥っていない。
(いっそジェーンを買収できないかな……)
せめて殿下の恋心がもう少し落ち着くまで、常夏の国から帰ってきてくれるまで、殿下の傍で恋人の振りをし続けてくれないだろうか。オスカーからの仕事はほぼ終わったのだろうし、こちら側と交渉する余地はあるだろう。報酬次第では『ジェーン・スミス』を維持してくれるかもしれない。
しかしそれは、王妃様が許してくれるかどうか。
エイヴァは悩みつつも、この先の親子関係のために口を開いた。
「王妃様、ジェーンの処遇についてですが……」