5.動機
長い沈黙の末に、やがて王妃は興がそがれたといわんばかりに顔をそむけた。絡み合っていた視線が断ち切られる。
「つまらないことをいうのね、エイヴァ」
王妃はこちらに背を向けて、冷ややかにいった。
「オスカーが先に王都に戻ってきてしまったのよ? そのうえあなたまで取り上げたら、誰が民の不安を鎮めたというのかしら?」
「ええ……、そうですね、王妃様」
春に一応の平和を勝ち得てから、戦後の処理も大いにあった。それと同じほどに、魔物の軍勢がまた押し寄せてくるのではないかと焼け跡で怯える人々を安心させる必要もあった。だからエイヴァは王都に戻らなかったし、王妃もまた帰還命令を出さなかった。
王妃がそういう人間であると、エイヴァは知っていた。
冷徹で非情で、誇り高い人だと。
だから結局、内戦を起こせなどというのは戯言だ。わかっていた。王妃様は政敵を残酷に葬り去ることはしても、日々を精いっぱい生きている民を踏みにじることはしない。
(───その気高さを、オスカーに突かれたともいえるけれど)
実際のところ、国王陛下という大義名分を持つのがこちらである以上、内戦にまで踏み切れば勝率は高い。
けれどそうはならないとオスカーは踏んでいるのだろうし、忌々しいことにそれは当たっている。おそらく、王太子の今後を保障するといってきたのは万が一にも王妃を戦に踏み切らせないためだ。王妃がいかに気高くとも、最愛の息子だ。その命がかかっているなら泥にまみれる選択もあり得ただろう。しかし、王冠だけであるならば、王妃はその道を行かない。そしてエイヴァもまた、戦争を始めろという命令には従えない。
王妃は再び向かいのソファに腰を下ろし、ひび割れてもなお美しい微笑みでいった。
「わたくしに逆らうなんて、本当にどうしようもない子ね、エイヴァ」
その響きが優しかったので、エイヴァはただ微笑んだ。
それからエイヴァは、ぱしりと太ももを両の掌で打ち、ため息を一つついた後で、深く息を吸い込んでいった。
「こうなっては仕方ありません。切り替えましょう。わたしを婚約者に望む以上、オスカーは王妃様と宰相家を完全に敵に回すつもりはないはずです。むしろわれわれを取り込むことを望んでいる。自分の陣営から次期王妃を選ばず、王妃様の派閥にいるわたしを妻にというのは、こちらの反発を抑え懐柔するための一手でしょうから……、王妃様?」
思わず怪訝な声が出たのは、いつになく王妃が困惑した顔を見せていたからだ。
なにかおかしなことをいっただろうかと、問いかけるように王妃の薄青の瞳を見返すと、彼女はふふと笑い出した。
口に手を当ててしとやかに、それでいて愉快でたまらないというように。
「ふふっ、ふふふふふっ、ねえ、わたくしの可愛いエイヴァ? わたくし、とっておきの復讐を思いついたの」
「はあ。オスカーにですか?」
「ええ、あの八つ裂きにしても飽き足らない男よ」
「やはり暗殺に挑めと?」
「まさか、おかしなことをいわないでちょうだい。ふふっ、ふふふふふ、ねえエイヴァ、死力を尽くして、あらゆる策を講じて、それでも望むものが手に入らなかったとき、人はどんな気持ちになるものかしら? どれほど絶望してくれるのかしらね?」
「今さらオスカーに王太子の地位を与えないというのは難しいのでは?」
「もう、エイヴァったら。本当に可愛らしいことをいうのね」
この場合の可愛らしいというのは愚かと同じ意味だろう。
しかし王妃の意図するところが読めない。思わず首を傾げると、王妃はくすくすと機嫌の良い笑い声を立てた。
「王太子の地位は与えてあげるわ。王冠もいずれ渡しましょうね。だからエイヴァ、わたくしのお願いを一つ聞いてちょうだい?」
「なんですか?」
王妃の薄青の瞳が、凄惨な輝きを帯びた。
「オスカーを憎みなさい。この先なにがあろうとも永遠にあの男を許さずにいるのよ」
……王妃様はいつも無理難題をいう。エイヴァは遠い眼になった。
オスカーのことが好きか嫌いかと聞かれたら、まあ譲歩して好き寄りかな……? というところだ。エイヴァのあの男に対する主な感情は『寝るな』『サボるな』『働け』で言い表せる。
王妃様はオスカーのことを人形に関心がない以外は父親そっくりだといったけれど、執着の対象が人形から睡眠に移っただけではないかとエイヴァは密かに思っていた。
やる気になれば確かに地上戦最強の魔術師だが、戦場の真っただ中に放り込まないと働かない男でもある。
おかげで春にオスカーが一人だけさっさと王都へ帰還したときも、こっちに仕事を押し付けて逃げたな……! としか考えなかった。
まさか王都で暗躍していたとは夢にも思わなかったのだ。今でもちょっと信じがたい。あのオスカーが自分からキリキリ働くなんて。
王妃様には恩がある。できるだけこの方の望みには応えたいと思う。
だけど、あの怠惰な猫のような男を憎めるかというと……。
「それは少し難しいです、王妃様」
「まあ、どうして? ああ、まさかエイヴァ、わたくしの子を陥れ、わたくしを深く傷つけたあの男を、密かに恋い慕っているなんていわないでちょうだいね?」
「ははっ、突然なんですか、恋って。どういう冗談です?」
思わず吹き出してしまう。
すると王妃もまたひどく機嫌よさそうに笑った。
ひび割れていた微笑みがすっかりと活力を取り戻したかのように、愛らしく輝く笑みで愉快そうにいう。
「ええ、そうね。わたくしの可愛い子。あなたがオスカーを愛するなんて、そんなことがあるはずがないものね?」
「それはないですねえ。───ただ、あの男は陸域のトップですから、信頼はしています……」
途端に王妃の眼が不機嫌そうに細められた。
エイヴァは白旗を上げるように軽く両手を上げてから、ため息を一つついた。
「許してくださいよ、王妃様。そこは仕方ないでしょう。長年ともに戦ってきた相手ですよ?」
「まあ、可愛いエイヴァ。今回のことは、あなたにとって裏切りではなかったというのかしら? オスカーはあなたの信頼を踏みにじらなかったと?」
「腹は立っていますよ。ただ動機がわからないので、まだ何ともともいえません。王妃様はオスカーが心を変えたとおっしゃいましたが、それがなぜなのかはご存じなんですか?」
王妃は愛らしく微笑んだ。これは話すつもりはないという意味だろう。
エイヴァは怪訝な眼で女主人を見返した。
「秘密にされるようなことなのですか? オスカーの身に、何かが起きたと……?」
「さあ、どうかしら?」
「───まさかあの男、病を得て余命いくばくもないなんてことは……っ!?」
「そんな事情があるならわたくしは祝杯をあげているわね」
冷めた眼で見下ろされて、エイヴァはアハハと愛想笑いを浮かべた。
「そうですよね、すみません。つい心配になってしまって」
「まあ……、ふうん、そうなの。心配にねえ」
しまった。王妃様の機嫌がどんどん悪化している。
エイヴァは取り繕うように口を開いた。
「いえあの、心配というのはですね、オスカーが我が国の大事な戦力だからですよ。魔物の軍勢は退けたとはいえ、滅ぼせたわけではありません。いずれ再び戦いが起こって、わたしが命を落とすこともあるでしょう。でも、オスカーが生き残っていてくれたら、あの男は必ずこの国と王妃様を守ります。もちろん王太子殿下のことも、約束した以上は守り抜きますよ。普段はサボり魔ですけど、その点は信頼が置けます。わたしは、わたしが死んでもオスカーがいるなら大丈夫だと、そういう意味で信じているだけです。決して今回のことを許しているというわけでは」
「エイヴァ」
「はい」
「あなたはそれで、わたくしの機嫌を取っているつもりなの?」
「駄目でしたか……」
「あなたが正式に帰還したら、次代の王妃教育に励まなくてはいけないと、その必要性を改めて認識したところよ?」
「そこはどうかお手柔らかに……」
思わず愛想笑いも引きつってしまった。




