4.第二王子オスカー
エイヴァの答えは決まっていた。
「無理です」
「まあエイヴァ、可愛い子。あなたを見込んで頼んでいるのに、即座に断るなんて、わたくし悲しくなってしまうわ」
「断っているのではなく、不可能だと申し上げています。互いに軍を率いての戦いならまだやりようはあるでしょうが、一対一であの男に勝てるとは思いません」
オスカー・エル・モルディア。
王太子とは母親のちがう第二王子であり、陸域魔術師部隊のトップだ。彼が《大地閉ざす咆哮》と恐れられた巨狼ゼファルを単騎で倒したことは有名であり、地上戦においては最強の魔術師だ。
空域魔術師部隊のエイヴァとは基本的に別働隊で動いていたが、大規模な作戦のときには必ずといっていいほど行動を共にした。だから、オスカーの実力はわかっている。
純粋に、魔術の強さを競うのなら互角だろう。剣と剣のつば競り合いのように、魔術と魔術のぶつけ合いをするならば。しかし戦闘とはそう単純ではない。オスカーはエイヴァにないものを持っている。それは所有する魔術の圧倒的な多彩さだ。手札の多さといいかえてもいい。
基本的に、空中に逃げまどう民はいない。人々の避難場所となっている建物も、逃げ遅れた人々が懸命に身を隠している民家もない。空中戦においてエイヴァの前にあるのは敵だけであり、後ろにいるのは己の部隊だけだ。つまり、多少大雑把に戦おうとも、力押しでなんとかなるのである。すべてを燃やし尽くせばいいのだから、圧倒的な火力によって制圧することが可能だ。まさに暴力こそ力である。
しかし地上戦はそうはいかない。
逃げまどう人々の救出、避難、誘導、そして戦闘。それらすべてが同時に進行する。人命の探知を行い、救出部隊を選出し、そこに至る道筋をつけ、彼らを守りながら魔物の軍勢との交戦に入る。
これをたった一人で行える魔術師は、空域・海域・陸域の全魔術師部隊を合わせてもオスカーだけだ。彼一人で千人の魔術師に匹敵するといわれるのは伊達ではない。あの男はその気になれば、攻撃と同時に情報収集を行い、判断を下し味方を援護し救助と避難を支援し、防御を展開しながら再び攻撃へ入ることができる。
はっきりいって、手札の少なさを『暴力こそ力!』というノリで押し切っているエイヴァが暗殺できるような男ではない。一対一で殺りあえば負けるのはエイヴァのほうだ。オスカーの氷の杭が自分の心臓を貫くところまで、ありありと想像できる。
「ですが……、王妃様。わたしは今でも信じられません。あのオスカーが王位を欲するなんて。それは確かに、実力はあるでしょうけど、でも……、あれほど面倒くさがりな男はほかにいないんですよ。わたしが何度、作戦会議中に寝ようとするあの馬鹿を叩き起こしたことか。オスカーが本心から玉座を求めているとは、とても思えません」
「そうね」
王妃は美しく笑った。艶やかな唇の端が吊り上がる。
「わたくしもそう思っていたわ。オスカーに野心はない。あの子は父親によく似ている。違うところがあるとすれば、人形にすら興味を示さないところかしら? あらゆるものに無関心で空虚。王家の濁った血を受け継いだかのような可哀想な子よ」
「だいたい合っていますね」
「だからわたくしはオスカーに手を出さなかったわ。あの子の祖父がどれほど野心を燃やそうとも、肝心の本人がそれを牽制する側にいたのだもの。悪いことをしていない子には、罰は与えられないわ」
そこで王妃は、凄みのある笑みを浮かべていった。
「でもね、エイヴァ。人は変わるものなのよ」
王妃のたおやかな身体がかすかに震える。寒さのためでもなく、悲しみのためでもなく、ただただ激しい怒りのために。
「どうしてわたくしはこんな簡単なことを見落としていたのかしら。あの子の父親が永遠に変わらないとしても、オスカーが同じである保証などどこにもなかったのにね?」
───先入観が、王妃の眼を狂わせた。
ジェーン・スミスと名乗る女性が王太子の傍に現れたとき、王妃が真っ先に考えたのは、国内の領主による挑発であり、何かしらの意図を持った駆け引きだろうということだった。ジェーンに裏があることは、その名前からしてもあからさまだったからだ。本気で工作活動を行うなら、そんな下手な真似をするはずがない。王妃はジェーンの背後を探らせると同時に、彼女を穏便に王太子から引き離すように指示した。
しかし黒幕の姿は掴めず、王太子とジェーンは日に日に仲を深めていった。
これはまさか、国内ではなく隣国のいずれかの手先だったのか、露骨な偽名すらこちらの目を欺く煙幕だったのかと、忌々しく思いながら、周辺諸国を探らせると同時に、今度は確実にジェーンを排除するように命じた。
だが、それらは失敗した。ジェーンについている護衛は少数ながらも腕利きで、さらには未知の魔道具まで有していた。そのときようやく王妃は、これがオスカーの祖父であるエドワード・ポーターの企みであると悟った。
オスカーの母の生家であるポーター家は、領地こそさほど広くはない男爵家だが、先王の時代から魔道具の取引と開発に乗り出していた。当時の国内では、未だに魔道具を子供だましの手品だと侮る考えが主流だったにも関わらずだ。
男爵家の先読みの眼は確かだった。王が代替わりし、王妃と宰相家が魔術師と魔道具の価値を認め、国内に魔道具の有用さが浸透していくと、ポーター家は莫大な財を築いた。
───先ほどの舞踏会で、エイヴァが魔術を使ってでも王太子の口を閉ざさせようとしたのは、オスカーの祖父が当主である男爵家は今や、公爵家にも比肩する力を有しているからだ。エドワード・ポーターが男爵のままでいるのは、これ以上国内の貴族たちから妬みを買うのを避けるためだろうと囁かれている。
オスカーに野心はない。何にも関心はない。それは長年観察してきたからわかっている。しかし祖父のエドワード・ポーターはちがう。あの男は孫を玉座へ押し上げようとこちらの隙を伺っていた。だからといってまさか、このような奇策に打って出てくるとは思わなかったが、とにかく黒幕はわかった。王妃はそう考えた。
しかし───、それが過ちだった。オスカーのまき散らした疑似餌に誘導され、あちらこちらへと振り回された結果、完全に対応が後手に回った。真相にたどり着いたときには遅かった。王太子は諫める王妃の言葉に反発しかしなくなり、自らの振る舞いで支持者たちの怒りを買い、派閥を切り崩す真似を平然と行い、評判は地に落ちた。
そしてオスカーは着実に足場を固めていった。
……その仕上げが、今夜だった。
王妃の話を聞き終えて、エイヴァはため息を一つ吐き出した。
(───王太子殿下をあちらに取り込まれたのが痛いな)
おそらく、それが最大の痛手だ。
オスカーがどれほど支持を集めようとも、ポーター家がどれほど財力にものをいわせようとも、自分というオスカーに匹敵する知名度を持つ婚約者と、王妃と宰相家の権力があれば、対抗は十分可能だったはずだ。
しかし、戦いというのはときに、敵よりも味方のほうが厄介なものだ。
王太子がジェーンに熱を上げて、遅い反抗期を迎えてしまったなら、こちらの陣営の足並みはどうあがこうとも崩れていく。ポーター家が総力を挙げてオスカーをバックアップし、オスカー自身も玉座を取りに来ている中では、王太子のあの態度は致命的だった。
衆人環視の中で婚約破棄をいい渡した瞬間に、勝負はついていたのだろう。
「───だけどまだ終わりではないわ。そうでしょう、エイヴァ?」
「王妃様……」
王妃がするりするりと近づいてくる。足音も立てずにエイヴァの傍に立つ。
永遠の少女のような王妃は、見上げるエイヴァの頬をそうっと撫でて囁いた。
「わたくしにはまだあなたがいるもの。あなたはとても優秀で、魔術師たちの信頼も厚い可愛い子よ。たとえ敵が誰であっても、あなたが命じたなら彼らは従うわ。ねえエイヴァ。わたくしのために、オスカーの足元を崩してきてくれるでしょう?」
「……空域の部隊を率いてポーター家を攻めろと?」
「あなたはとっても賢い子ね」
「内戦になりますよ。オスカーが黙って見ているはずがない。あの男にはあの男に忠誠を誓った陸域の部隊がいます。国を二つに割る戦いになりますよ」
「まあ大変ね。だけどエイヴァ、戦を仕掛けてきたのはあちらではないかしら? わたくしはただ、可愛いあなたたちを守りたいだけなのよ」
「……できません」
「エイヴァ」
「返り討ちを覚悟でオスカー暗殺に挑めというなら従います。それで王妃様の御心が少しでも晴れるのなら、わたしの命を賭しましょう。あなたに救われなかったら、とうに死んでいた身ですから。恩返しができるなら死ぬのもやぶさかではありません」
王妃はあどけなく微笑んでいる。
エイヴァはじっとその美しい人を見上げ、声に力を込めて告げた。
「ですが、ようやく得た平和を踏みにじり、再び戦争を始めろという命令には従えません。そんなことを望むくらいでしたら王妃様、あなたはもっと早くにわたしを帰還させ、ジェーンを殺せと命じるべきでした」
眼差しと眼差しの間に火花が散った。