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3.王妃ソフィア


「なにをいい出すのだ、オスカー!」


現在の酔っ払い並みに陽気な王太子殿下にしては的を得たツッコミだと、エイヴァは思った。


「今は私が話しているのだぞ! 口を挟むなど無礼ではないか!」


怒るところはそこなのか。そこじゃないだろう。でも今の王太子殿下だから仕方ないのか。どうしてこれほど南国気分に進まれてしまったのだろう。これはあれか、愛で酔っているということか。あれ? 上手いことをいった気がする。


現実逃避のようにくだらないことを考えながらも、エイヴァはさりげなさを装って第二王子オスカーに捕まれた手を引き抜き、足音を立てずに距離を取った。


しかし、立ち上がったオスカーに向かって、王太子が蔑みの視線を向けたときには、背筋に冷たい汗が流れた。


「しかし信じられんな。第二王子ともあろう者が、そのような野蛮で下賤な女に求婚するとは。ふっ、いやなに、お似合いだぞ。ははっ、所詮、お前のような卑しい男爵家の女から生まれたぐふっ」


───術が間に合ったといえるのか、遅かったというべきか。


王太子が最後まで侮蔑を口にできなかったのは、視認不可能な空気の塊に顎を殴られたからだ。


大気を固めて飛ばすのはエイヴァの得意とするところだ。

ここに炎の術も込めておくと、着弾したときに勢いよく爆発する。

かつての空中戦では、無限に湧き出てくるような雑魚の魔物たち相手に、何百というこの塊をぶつけたものだ。風とともに自在に飛びながら、空域の支配権を魔物たちから奪い取り、叩きのめし、燃やし尽くした。


太陽を背にして佇むエイヴァの周りに、炎の渦が見えるといい出したのは誰だったか。

《天輪の魔術師》の二つ名は、魔物の軍勢から制空権を勝ち取った英雄に対する賛辞だった。


しかし今は爆発させる必要はないので、とりあえずぶつけるだけに留める。さらに大広間にいるほかの魔術師たちに気づかれないように、透過の術も込めておいた。


これは敵の回避を妨げるために編み出した目くらましの術なので、よほど高位の魔術師でなくては見破ることはできない。この場にいる魔術師で見抜いた者は一人しかいないだろう。


その一人であるオスカーが笑いを耐えるような気配を滲ませるのを、エイヴァは全力で無視した。


下から殴られたような強い衝撃が、王太子の脳を揺らしたためだろう。立っていられず、膝から崩れ落ちそうになった婚約者を、エイヴァはすかさず駆け寄って支えた。


「まあ殿下どうなさいましたか!? なんですって御気分が悪い!? それは一大事です即刻王宮へ戻り医者に見せなくては!!」


王太子の身体をもぎ取るように抱き寄せると、ジェーン・スミスなどというあからさまな偽名を名乗っている清楚な毒花は、あっさりと掴んでいた腕を離した。


一瞬、至近距離で垣間見た菫色の瞳が、エイヴァに向かって美しく笑う。


───どうぞ、()()()()()()()殿()()


その瞳に、そう囁かれた気がした。そして彼女の示す王太子が、今、腕の中に確保した婚約者ではないことは明らかだった。


エイヴァはその美しい瞳を振り切って、気を失った王太子を抱き抱えた。俗にいうお姫様抱っこだ。


エイヴァは確かに空の支配者ともいえる大魔術師だったが、素手で成人男性をお姫様抱っこできるような剛腕であるかといえば否である。しかし気合で耐えた。


大丈夫、戦場では身の丈が倍ほどもある大男の部下を背負って撤退したこともあるのだ。魔力が尽き果て、いたるところに傷を負い、背後から迫りくる魔物の群れに神経を尖らせ、歯を食いしばりながら帰還したときを思えば、王太子一人くらいなんということもない。


それに王太子殿下は成人男性にしてはわりと軽い。背は高いが、全体的にヒョロっとしている。


そういえば昔から魔術も武芸も不得手な方だったなと、エイヴァは何となく思い出していた。





公爵家を出た後は躊躇なく魔術を行使し、空を駆けて王宮へ舞い戻った。


戸惑う衛兵たちの制止を振り切り、取次ぎを待たずして王妃殿下の私室へ駆け込む。腕には王太子の身柄を抱えたままだ。真っ先に現れた侍女は王妃の腹心ともいえる婦人で、眉一つ動かさずに王太子の身体をソファに降ろすようにいった。


「奥の部屋で、妃殿下がお待ちです」


婦人に王太子を預けて、エイヴァは奥まった部屋の扉を開ける。


王妃はそこにいた。


ソファに座り、紅茶の香りを楽しむようにカップをくゆらせている。


エイヴァが室内へ入り、ローテーブルを挟んだ向かいのソファに勝手に腰を下ろすと、王妃ソフィアは、そこで初めて気づいたというように微笑んだ。


「あら、お帰りなさい、エイヴァ」


鈴の音のような軽やかな声だ。成人した息子がいるというのに、そのかんばせは可愛らしくあどけない。まるで永遠の少女のような王妃殿下───まあ内情を知らなければそう称えたくなる方だ。知らなければ。


エイヴァは知っていたので、その愛らしい微笑みに目もくれずに、唸るようにいった。


「これはいったいどうなっているんですか、王妃様」


「まあ、エイヴァったら、怖い顔」


「あのジェーン・スミスと名乗っている人間のことを、あなたが知らないはずがないでしょう」


「ああ、あの可愛い女の子ね。あなたも会ったの?」


「会いましたよ。王太子殿下の腕にぶら下がっていましてね。あの片眼鏡の文官じみた男もそうです。彼らは明らかに、われわれと敵対する者たちです。なぜ放置されたんですか!?」


王妃がその赤く艶やかな唇を、うっすらと上げた。

それだけで室内の温度が下がった気がした。夏だというのに鳥肌が立つ。


「悲しいわ、エイヴァ。わたくしが何も手を打たなかったと、可愛いあなたはそういうのね?」


この場合の可愛いは愚かと同じ意味だ。


エイヴァはため息を一つついて、王妃殿下の爛々と輝く瞳を見返した。


「……いいえ、王妃様。わたしはただ、何が起こっているのかを把握したいだけです」


王妃は静かにティーカップを置いた。

そして立ち上がると、窓辺まで歩いていく。窓の外には丸い月が浮かんでいた。今夜は満月だ。夜闇のそばに佇む王妃もまた、優雅で美しく、愛らしい。


彼女は現在、この国の事実上の支配者だった。


今代の国王陛下は、影では『人形王』と嘲笑混じりに呼ばれている。それは国王が王妃とその生家である宰相家の操り人形であることを揶揄しているが、それだけではない。もっと直接的な意味合いもある。


国王陛下は、人形にしか関心がないのだ。


幼少の頃から人形の収集に異常なほどの情熱を見せ、成長とともに自らも製作する側になった。それが趣味の範囲で収まるものならよかっただろう。けれど王は、人形以外には一切の関心を払わなかった。政治や軍事どころか、女も男も、人間そのものを拒んでいた。


エイヴァも一度だけ、王のコレクションを見せられたことがある。規則正しく陳列された数多の人形にはゾッとしたが、それ以上に王妃の苦労がしのばれた。


人形しか愛さない夫と夫婦生活を送りながら、国内の貴族たちを締め上げ、まとめ上げ、ときに懐柔し、ときに制圧して、必死に国を立て直そうとしてきたのだ。王妃様の性格が悪くなっても仕方のないことだろう。


いや、王妃様なら「まあ酷い。わたくしは物心ついた頃からわたくしだったのよ?」と、ぷんぷんという擬音が聞こえそうな態度で怒るかもしれない。この場合のぷんぷんは『お前を処刑台送りにしてあげましょうか』という意味だ。


王妃様が永遠の少女のように可愛らしいのは、別に擬態ではない。芝居でもない。単にあどけなく微笑みながら政敵を死地に追い詰める人間性だというだけだ。何なら愛らしいのが本人の趣味なのではないかとすら思える。


そんな方がどうしてこの状況を許したのか、エイヴァにはわからなかった。


───いや。


月を眺めていた王妃が、こちらを向く。

その少女のような微笑みは、いつもとはちがい完璧ではなかった。鏡に亀裂が入るように、凍土が砕けるように、王妃の笑みもまた、ひび割れていた。


そこで初めて、敗北の二文字がエイヴァの頭をよぎった。血の気が引く感覚とともに、急速にあらゆる情報が整理されていく。




どうしてこんなことになった? 




理由は簡単だ。





最初から示されていた。




王太子殿下だ。


冷徹で非情な王妃様の最愛の息子。唯一の泣き所。たとえ反旗をひるがえされても殺せない、ただ一人の相手。


───そこを攻めたのか、オスカー!


太ももの上で、きつくこぶしを握り締める。


歯を食いしばったエイヴァの前で、王妃は歌うようにいった。


「賭けをしましょうといわれたの。わたくしの子が、今夜、わたくしの言葉に耳を貸さずに、あの女に唆された通りに婚約破棄を告げたなら、わたくしの負け。そしてわたくしが負けたなら……、ここで手打ちにしませんかといわれたわ」


「手打ち、とは……?」


「わたくしの子から王太子の地位を取り上げ、王宮から追放し、見張り付きで王都に住まわせる。ただしそれ以上の手出しはしない。地位も権力もない血筋だけの王子として生きる分には、生涯にわたり経済的な支援を約束する。身の安全も保障する。社交も好きにして構わない。───その代わり、王太子の地位と、あなたをよこせとね、エイヴァ」


王妃は月を背にして、艶やかに微笑んだ。


「ねえ、エイヴァ。わたくしの可愛い子。あの男を、オスカーを殺してきてといったら、あなたは頷いてくれるかしら?」





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― 新着の感想 ―
[良い点] 3話の時点で怒涛の展開が! 五月先生の描かれるしたたかでチャーミングな女性キャラが大好きなので、エイヴァも王妃様も好きになる予感しかしません。
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