2.マッチポンプ婚約破棄
そもそも、この舞踏会に出る前からエイヴァは疲れていた。
なぜかといえば、王都を遠く離れた南域で魔術師部隊のトップとして散々働いて、ようやくすべての後処理が終わった! 寝たい! と思った瞬間に、婚約者の王太子から至急の帰還を命じる魔術報書が届いたからだ。
直属の部下たちからは、
「こんなモン無視すりゃいいでしょ」
「残念ながら届かなかったということに致しましょう」
「あぁ~、手が滑って燃やしちゃった♡」
「まあ突然の風で灰が跡形もなく散ってしまいましたわ!」
「アハハ、いっそのこと王太子も灰にしちゃいます?」
などといわれたが、エイヴァはため息一つで要請を受諾した。
そしてやむを得ず、本来なら二十日はかかる帰路を三日に短縮させて、単身王都へ舞い戻った。《天輪の魔術師》の二つ名を持つエイヴァだからできた荒業である。
しかし、そこまで急いで戻ってきたというのに、王太子の用件とは『公爵家で開かれる今夜の舞踏会に出席すること』だった。意味がわからない。
さすがのエイヴァも眉間に深い皺を刻み、聞かなかったことにして寝落ちしてしまいたいと思ったが、いかんせん時刻はすでに夕暮れに差し掛かり、目の前にいるのは王太子本人ではなく遣いの侍女だった。
今から王太子の元へ直談判しに行くには時間も気力も足りなかったし、主の命令が無茶苦茶であると理解しているらしい侍女が真っ青な顔をしているのも憐れだった。妹と同じ年頃だろう、これ以上悲壮な顔をさせるのは忍びない。
そこでエイヴァはやはりため息を一つついて、身支度を整えた。
この短期間でドレスなど用意できるはずもないので、着替えたのは軍の礼服だ。
これなら公爵家の舞踏会でも非礼には当たらないし、自分のほかにも礼服で来る人間はいるだろう。まあ、そのほとんどが男性だろうけれども、そのくらいは大目に見てもらいたい。これで王太子が恥をかかされたと腹を立てても、そこまでは面倒を見きれない。
───そんな風に考えていた数刻前までの自分を、今やエイヴァは呪いたくなっていた。
疲労困憊なのを顔に出さないように努めながら出席した舞踏会で見たものは、婚約者である王太子と、その隣に寄り添う清楚なドレス姿の令嬢だった。
その時点ですでに頭が痛かったというのに、王太子殿下はわざわざ自分のところへやってくると、声を張り上げて宣言した。
婚約を破棄すると。
先ほどまでは楽団が美しいメロディを奏で、貴族たちの社交に励む声で賑わっていた大広間は、いまや衣擦れの音すら聞こえないほどに静まり返っていた。
「そなたとちがって、このジェーン・スミスはさる王家の血を引く高貴な娘。訳あって不遇をかこっていたが、私の手で救い出すことができた。そして私たちは互いに愛を知ったのだ……!」
いや、何なんですかそのあからさまな偽名。
思わず心の中でそうツッコミを入れてしまったのは、現実逃避だったのかもしれない。しかし逃避している場合ではない。
この御気分が南国風になっている王太子の腕にぶら下がっているのは、どう見ても清楚で可憐な振りをした毒花だ。南大陸の密林などに生えているカラフルなあれだ。おそらく本職は捕食、もとい誘惑だろう。
───あとから考えれば、エイヴァはこのとき、力技でもいいから問答無用で王太子を黙らせて、この場から一目散に撤退するべきだった。今のエイヴァは罠場にのこのこと現れた獲物同然だった。抗戦するにはあまりに準備も情報も足りていなかった。
しかし疲労と、そして完全に予想外の展開は、エイヴァから咄嗟の判断力を奪っていた。
そう、予想外だ。こんな情報は入ってきていなかった。
確かに長く王都を留守にしていたけれど、妹とはマメに連絡を取り合っていた。何かあればあの子がすぐに知らせてくれるはずだった。王太子が食肉花の肉厚な花びらにパクリといかれそうになっているだとか、そんな話は一切聞いていない。
それにこれは、誰が仕掛けた茶番劇だ? まさかあの男なのか?
───まさか! 王位に興味はないといっていた。今の立場ですら面倒なだけだと。
確かに性格も根性もねじ曲がった男だけれど、長い付き合いだ。ともに戦場を駆けた仲だ。あれが偽りだったとはとても思えない。
けれど、あの男でなければ、今この状況で王太子を引きずり落して何になる?
───そう、南国気分真っ只中な王太子殿下は気づいていないが、彼はいま自らの墓穴を掘っているも同然だ。
これは愛がどうこうなどという色恋沙汰ではない。明確な政変だ。自分は今、権力の座をすげ替えようとする場に立ち合ってしまっている。
エイヴァは無意味な瞬きを三度繰り返したところで、ようやくハッとして、とにかく王太子の口を閉ざさせようと声を張り上げた。
「お待ちください、殿下!」
「殿下、そのようなことをおっしゃってはなりません!」
声が重なったために、エイヴァの制止は王太子の耳には入らなかったかもしれない。
しかし、エイヴァは少なからずホッとしていた。自分以外にも諫めようとする人間がこの場にいるのだと安堵して、王太子に駆け寄っていった人物へ眼を向けた。
片眼鏡の青年だった。まるで文官のようないでたちだが、新しい侍従だろうか?
エイヴァは内心でそう首を傾げて、そしてゾッとした。
この状況下で、この男の顔に、自分が見覚えがないというのは、つまり───。
「亡き国の尊き血を引いておられようとも、ジェーン様は今やお立場のない身です。王太子妃が務まる方ではありませんと、何度も申し上げたではありませんか!」
「私も何度もいったであろう。それをいうなら、エイヴァなど卑しい平民の孤児ではないかと! どこの者から生まれたかもわからぬ野良犬女を、この王家に入れるというのか!? そのような真似、偉大なる騎士王は断じて許されぬはずだ!」
「ああ殿下、そのようなことをおっしゃっては……!」
───おっしゃっては、我が国の全魔術師部隊を敵に回します。
文官じみた青年がそうほくそ笑むのが見えた、気がした。
エイヴァは気が遠くなった。今、無性にベッドが恋しい。何なら藁の束でもいいし、土の上にじかに転がるのでもいい。頼むから眠らせてほしい。そして目が覚めたときには三日でいいから時間が巻き戻っていてほしい。
よりにもよって騎士王を引き合いにして、魔術師部隊のトップを貶めるとは!
それがどれほど魔術師たちの神経を逆なでするか、わからないのだろうか。ああうん、わからないんでしょうね。そこのエセ文官はわかってるでしょうけどね。
王太子殿下の南国気分は絶好調なのだろう。たぶんそこかしこに咲いているのは食肉花だと思うけれど。
「でっ、ですが殿下! 王妃様はジェーン様のことを決してお認めにならないと……!」
文官じみた青年が叫ぶ。
「わたくし、殿下の足枷になりたくはありませんの……」
ジェーン・スミス(仮)が、肩を震わせて涙を浮かべる。
「ふっ、案ずるな。私はこの愛に殉じる覚悟ができている。そなたのためなら、王太子の地位すら捨てようではないか、私の可愛いジェーンよ」
終わった。
何もかもが終わった。
そう魂が抜けかけていく心地の中で、エイヴァは根性で踏みとどまった。そして一歩踏み出す。
もう駄目だ。ひとまずあの脳内南国王太子殿下を気絶させて持ち帰って王妃様のところへ駆け込もう。早急に態勢の立て直しが必要だ。立て直せるかはわからないけれど、あの男さえ出てこなければ、まだ打つ手はあるはずだ。
───しかし、エイヴァのその判断は、この場においては遅すぎた。
今まさに権力の座を奪おうという場面において、その首謀者が姿を見せないはずがないのだから。
「いかに王太子殿下といえども、そのような暴言を許すことはできませんね、異母兄上」
氷のように冷たい声が、大広間に響く。
好奇心を露わにこちらを見つめていた人々が、彼の前にさっと道を開ける。
現れたのは銀の髪に青の瞳を持つ偉大なる大魔術師にして、王太子の異母弟。
つまり第二王子殿下だ。
彼は突き刺すような眼差しを異母兄に向けた後、エイヴァに向き直ると、痛ましげな顔で謝罪の言葉を口にした。
「申し訳ありません、シャリール魔術師長。異母弟として心よりお詫びします」
エイヴァは、死んだ魚のような眼でその男を見つめた。
第二王子は、これが舞台の上の芝居だったら拍手を送りたくなるほどの見事さで、切なく、それでいて情熱が感じられる声音でいった。
「そして……、君と同じ魔術師として、君とともに戦場を駆けた男として、長年心に秘めていた想いを口にすることを許してくれないか、エイヴァ」
第二王子は、その場で片膝をついて、エイヴァの手を取った。
「君を愛している。ずっと愛していた。どうか、俺の妻となってほしい」
この男を殴り飛ばせたらどんなに爽快だろうか。エイヴァは濁った魚の眼でそう思った。