番外編:その後の二人(完)
王太子と呼ばれる人物が第一王子から第二王子へ変わり、天輪の魔術師とその配下が正式に王都に帰還してから数ヶ月後。
エイヴァが王太子の執務室に足を踏み入れると、部屋の主はソファに転がって寝ていた。
エイヴァは手に持っていた書類を丸め、男の額をめがけて振り落とした。しかし残念ながら、標的へ到達する前に男の手に掴まれてしまう。
面倒くさそうに瞼を持ち上げた青の瞳に、エイヴァは額に青筋を浮かべていった。
「寝るな、サボるな、働け」
オスカーはあくびをかみ殺しながら身体を起こすと、エイヴァの腕を引いて隣に座らせる。そしてけだるそうな顔でいった。
「君のほうこそ、働きすぎだという話が聞こえてきているんだが、婚約者殿?」
エイヴァはそっと目をそらした。誰だそんな余計な報告を上げたのは。
オスカーは淡々と、叱責というよりはたしなめる口調でいった。
「気負い過ぎだ、エイヴァ。自分一人で何もかもやろうとするな。周りの人間を働かせろ。君の手足となって動くためにいるんだ、彼らの仕事を奪うな。君は手を抜くことも覚えろ」
「そういうあなたは手を抜きすぎじゃない?」
「かもしれないな。ぜひ俺を見習ってくれ」
揶揄をあっさりと受け流されて、エイヴァは逆に気まずい心地になった。
オスカーはそれ以上はなにをいうわけでもなく、じっとこちらを見つめている。
エイヴァは根負けした気分で口を開いた。
「わかっているんだけどね。でも、王宮での仕事は、今までとは全然違うから」
「ああ」
「それに何より、こんなに近くに王妃様がいるんだよ? あの方にみっともないところは見せられないと思うと、つい、じっとしていられなくて……」
わかるでしょう? と同意を求めて戦友を見る。
しかしなぜかオスカーは片手で顔を覆って、ひときわ深いため息をついた。
エイヴァはむっとした。なんなのだその反応は。話を聞く態勢を見せたのはオスカーのくせに。そこまで呆れなくてもいいでしょうが。
そう憮然としていると、オスカーは唐突に顔を上げて、こちらに両手を伸ばしてきた。わしっと、まるで犬の仔にでもするように、両手で頬を掴まれる。
なに? と思って見返すと、見慣れた端正な顔が近づいてきた。
エイヴァはぎょっとして、オスカーの顔面を手で押し返した。
「近い近い近い、何のつもりよ?」
「八つ当たりだ」
「はあ? あっ、もしかして頭突きをされるところだった? 突然の暴力? そういうのは人としてどうかと思うよ、オスカー」
「いや、八つ当たりで君にキスをしようと思った」
「頭突きより最低でしょうが。昼寝を邪魔されたくらいで奇行に走らないでほしい」
呆れ顔でいったエイヴァは、しかそこでピンと閃いて、にやりと笑った。
オスカーの顔から手を放し、その肩をポンポンと叩いてやる。
「はーん、なるほど? そういうことね」
「君がそういう顔をするときは、だいたい的外れなんだが」
「わかってるって。いい出しづらかったんでしょう? わたしこそ、あなたの気持ちに気づいてあげられなくてごめんね」
「……エイヴァ……?」
「大丈夫。娼館くらい、いつでも行ってきていいよ」
エイヴァはグッと親指を立てて、力強く後押しした。
「あぁ、お金は多めに持っていきなよ。ああいう場所で金払いの悪い男は一番嫌われるって聞くからね」
エイヴァがしたり顔でいう。
オスカーはふっと笑った。
「近い近い近い! 手近なところで済ませようとするんじゃない!」
「俺はときどき君をめちゃくちゃに泣かせたくなる」
「愛する安眠の敵討ちがしたいって!? どうせ三ヶ月後には誓いのキスとやらをするんだから、それまで復讐は我慢しなさいよ」
あと三ヶ月で結婚式だ。さらには初夜という難易度の高い予定もやってくる。
しかしそれをいうと、オスカーは複雑そうな顔をした。
「……君に抵抗感があるなら、した振りで済ませることもできる」
エイヴァはまじまじと目の前の男を見つめた。突然なにをいい出したんだろうか、オスカーは。
これが世にいうマリッジブルーというものか。今さら第一王子殿下を失脚させたことに罪の意識を覚え始めたのだろうか?
エイヴァは無意味に自分の首に手をやった。こちらとしては、その辺りのことは、もう割り切っているのだ。
第一王子殿下は、王宮を出た当初こそいろいろ混乱があったようだけれど、今では詩人や画家の後見などを始めている。今度、殿下が編纂に関わった詩集も出る予定らしい。小さな屋敷でジェーンと仲睦まじく暮らしていると聞けば、結果的にはこれでよかったのかもしれないと思えてくる。あの方は、大勢の眼に晒され続ける王宮では、心痛が絶えなかったことだろう。
王妃様は表立っては何もいわないけれど、ひそかに、殿下の元へ衣類や家具や食材などを贈り続けている。エイヴァが最近で最も肝を冷やしたことといえば、ジェーンから『こんなに贈ってこられても迷惑です。屋敷の規模を考えていただけます?』という手紙が届いてしまい、王妃様が無言で怒り狂っていたことくらいである。
それに、と、エイヴァは内心で小さく息を吐く。
正直なところ、初夜という難易度の高いミッションを、第一王子殿下相手に完遂するのは無理ではないだろうかと案じていたこともあったのだ。自分に話しかけられることすら拒絶していた殿下だ。身体を重ねるなどという難事ができたとは思えない。
その点、オスカーが相手だと気が楽だ。長年の付き合いだし、なにか失敗しても笑い話で済むだろう。緊張感も減るし、オスカーなら、触れることも触れられることも嫌ではない。傍にいても、感じるのは心地よさだけだ。
やはり未知の任務に取り組むときには、信頼できる相棒がいてくれると心強いものだ。
エイヴァはそう一人頷いていった。
「わたしはあなたでよかったと思ってるよ、オスカー」
「エイヴァ……」
「大丈夫、こういうのはお互い様だからね。あなたが初夜で失敗しても、わたしは笑ったりしないよ」
エイヴァはグッと親指を立てて、力強くいった。
オスカーはふっと笑った。
「近い近い近い! だから三ヶ月後まで待ってってば!」
「俺が失敗しないか不安なら今ここで練習してやろうか? なあエイヴァ?」
「変態発言をするな!」
完結です。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。
オスカーが気の毒な感じになってしまいましたが、結婚式までには両想いになると思います。




