12.天輪の魔術師、
オスカーにとってエイヴァは、ひどく厄介な女だった。
王宮の回廊を一人歩いていたオスカーは、ふと足をとめて、色とりどりの花が咲く庭園と、果てしなく広がる蒼天を眺めた。いい日だ。こんな日は昼寝をするに限る。そう思ってオスカーは自嘲気味に笑った。まったく、この自分が王位を奪うための暗躍する日が来るなど、幼い頃は夢にも思っていなかった。
今は政変が成った直後だ。一人で動かないでくださいとは、側近たちから口うるさくいわれている。せめて護衛をつけてくださいと。しかし、自分を暗殺できるほどの実力がある者は限られている。加えていえば、それほど腕が立つ者が襲い掛かってきたなら、自分は護衛を守る側になるだろう。
(エイヴァでも、俺を“暗殺”はできないだろうな)
ただし、互いに軍を率いて戦うなら別だ。陸域の魔術師たちにとって、敵に制空権を奪われることほど恐ろしいものはない。魔物の軍勢が空を覆いつくし黒く染め上げた光景は、誰もが絶望ともに覚えているだろう。あれを空域の部隊に再現されたなら、こちらの足並みは否応なしに崩れる。
陸域のトップとして思うのは、基本的に人間は、頭上からの攻撃に対抗しきれない生き物なのではないかということだ。背後を突かれること以上に、空から一方的な攻撃を受けることは脅威である。
だからこそ、その脅威を退ける空域の魔術師部隊、そして頂点に立つ《天輪の魔術師》は、圧倒的な支持を集めている。それは信奉と呼べるほどに。
───エイヴァ・シャリール。彼女が来てくれたら大丈夫だ。どれほど劣勢でも巻き返せる。空は《天輪の魔術師》に任せておけ。太陽を背にして炎が渦巻き、天の輝きの中で昂然と笑う大魔術師。あの方なら何とかしてくれる。あの方がいる限り、われわれはまだ負けてはいない。
軍属を選んだ魔術師たちの中でも、空域部隊を志願する者は一握りだ。
なぜなら空に身を隠す場所はない。敵の眼を避けることのできる物陰も、息をひそめて敵をやり過ごすことができる建物もない。隠れることができない以上、負傷したところで手当てをする余裕はなく、救助を待つことも叶わない。空を戦場に選んだなら、己の身一つで戦い続けて、魔力切れを起こすより早く敵を屠るしかない。そうでなければ生き残れない。
志願して空域に属し、空に在り続けることは、強くなくては不可能だ。
その意味で、エイヴァは確かに強い女だった。魔術師としても、人間としても。どれほど劣勢であっても昂然と笑ってみせる女だった。
……オスカーが初めてエイヴァに会ったのは、十三の頃だった。
当時の魔術師部隊は、部隊とは名ばかりの寄せ集めだった。国内に魔術師は少なく、戦場を仕事に選ぶ者は少なく、戦える者はそれらに輪をかけて少なかった。
国を纏め上げた宰相家と、魔道具に関する人脈を有していたポーター家が、協力して必死にかき集めた寄せ集めの集団。それが魔術師部隊だった。
より率直にいうのなら、奇人変人、はみ出し者につまみ者の集まりだった。
当然、連携など取れるはずがない。各自が好き勝手に戦い、中には魔術師として勇名を上げる者もいたが、部隊全体としての評判は落ちる一方だった。
それに頭を痛めた上層部が、全員を一時的に戦線から離脱させて開いたのが魔術師部隊大会議だ。
しかし我の強い者たちばかり集まって、意見がまとまるはずもなく、必然的に会議は踊り、空転し、オスカーは気持ちよく寝た。
色物揃いの魔術師部隊の中にあってさえ、自分ほど幼い子供は、自分と隣に座るもう一人しかいなかった。オスカーは第二王子という立場もあったから、堂々と寝る姿はさぞかし目立っていただろう。しかし誰にも何もいわれなかったので、気持ちよく寝続けて───そして途中で肩をつつかれた。隣からだ。
「ねえ、寝すぎだって。気持ちはわかるけど、最後までずっと寝るのはまずいよ。起きなよ」
それがエイヴァだった。
炎のように赤い髪をひとまとめに結んだ少女。部隊の中で歳が近いのが、お互いだけだったこともあるだろう。それからは顔を合わせると、多少の会話はするようになった。とはいえ、話すことといえば、互いの戦況の報告や、新しく導入された魔道具の扱い方などが大半だったが。
オスカーはエイヴァに妹がいて、彼女からの手紙を心待ちにしていることや、王妃を深く慕っていて、利用されても構わないと思っていることを、何気ない会話の端々から察していった。
エイヴァは空域、自分は陸域の所属だったから、基本的には別動隊で動いていた。
それでも、大規模な作戦の際などには、必ずといっていいほど顔を合わせた。
エイヴァは会うたびに部下が増えていた。責任が増え、その肩に乗る命が増えていった。彼女に向けられる信頼が増え、やがてそれは信奉へと変わっていった。
かつてはエイヴァのことを『子ども扱い』して、あんな子供を戦場に出すなんてと憤っていた年かさの魔術師たちでさえ、やがて彼女に揺らがぬ希望を見出したかのように、熱のこもった眼差しを向けるようになった。
《天輪の魔術師》へ向けられる忠誠と信頼、憧憬と崇拝、……そして信奉。
オスカーはそれを苦い思いで見ていた。
部下が増えていくのはオスカーも同じことだったが、オスカーは昔から良くも悪くも情が薄かった。
オスカーにとって命とは数字だった。戦場でどちらかしか守れないという状況下に陥ったときに、どちらを見捨てるかという、その決断の材料となる数字だった。より多いほうを、より若いほうを、より次代へ繋がるほうを優先し、そうでない側を切り捨てる。オスカーにとってそれらは数字であって、それ以上でも以下でもなかった。
可能な限り多くを生かし守り逃がすが、すでに失われた命に対して情を残すことはなかった。
エイヴァはちがった。エイヴァは良くも悪くも情が深く、部下や仲間を喪うたびに、守れなかった民を目にするたびに、痛みに歯を食いしばっていた。
そのくせ、顔だけは笑ってみせる。空気だけは穏やかであってみせる。声は明るく朗らかで、その眼差しは強く輝き、どれほどの劣勢でも「大丈夫、何とかなるよ」といい切ってみせる。
大樹のように揺らぎなく立ち、嵐に打ちのめされた者たちを守って、彼らの心のよりどころとなる。
……そうやって、彼女に縋りつく手が増えていく。
エイヴァは確かに強い女だった。悲嘆も嘆きも慟哭も、一人で呑みこんで笑う女だった。
だが、オスカーだけが知っていることもあった。
エイヴァは周りに悟られまいと、自身を隠す魔術を幾重にもかけていた。あれを見抜くことができる魔術師は、国内ではオスカーだけだっただろう。
だから、オスカーだけは知っていた。
大丈夫だと周りを励ます彼女が、耐えきれずに一人、ふらふらとさまよい歩く夜があること。
部下たちの前で何の悩みもないような明るい笑顔を見せていた彼女が、夜中に一人、基地から離れた林の中で、胃が空になるまで吐き続ける夜があることを。
(───いつか)
(───いつか、吞み込み続けたものの重みが、君の背を折る日が来るのだろう)
そう、絶望に似た心地で思ったとしても、オスカーにできることは何もなかった。
陸域のエース、地上戦で最強の魔術師などと誉めそやされたところで、オスカー一人ではこの国は救えない。守れない。己の腕一つで魔物の軍勢を退けることなどできはしない。
たまに、さまよい歩く彼女に声をかけた。それが余計に彼女を追い詰めてしまわないか、わからなかったが。
たまに、吐き続ける彼女に水を渡した。それが余計に彼女の負担になってしまわないか、わからなかったが。
エイヴァはオスカーの姿を認めると、いつも自虐と安堵の入り交ざったような顔をした。情けないところを見せてしまったという自虐と、ほかの誰かではなかったことへの安堵だったのだろう。彼女の実力ではこちらの眼だけは欺けないと、彼女自身わかっていたから、その点には諦めがあったのだろう。
エイヴァはいつもため息混じりに「寝てなよ」といい、オスカーはそれに「昼寝をしすぎた」と返す。それだけだった。それ以上の会話はない。エイヴァはいつも、嘆きも疲れも突き抜けてしまったような、ぼんやりとした顔で夜空を眺めていた。
それまで、オスカーに怖いものはなかった。死と生にたいした違いがあるとは思えず、生きているという実感は常に希薄で、魔物の軍勢を前にしても揺れる心すら持たなかった。自ら進んで戦場に行ったのは、殺すか殺されるかという極限の状況を求めていたからかもしれない。この空虚な生を埋めるものが欲しかったのだ。
……それが、生まれて初めて覚えた恐怖が、あの前へ駆けることしか知らない女が壊れてしまうことだというのだから、まったく、笑えない話だ。