1.エイヴァという女
言い訳をさせてもらえるなら、そのときのエイヴァはとても疲れていたのだ。
だから、
「エイヴァ・シャリール、そなたとの婚約は破棄する! 私の妻にふさわしいのはこの美しく可憐で、気品と教養を兼ね備えた淑女、ジェーン・スミスただ一人よ!」
と、婚約者の王太子に声高に宣言されたときに、ただ瞬くことしかできなかった。
※
エイヴァ・シャリール。
《空喰らう暴王》と恐れられた邪竜エイギスを倒したことで一躍名を上げた、若き大魔術師にして空域魔術師部隊のトップである。元は孤児であったが、王妃にその実力を見出されて魔術師になり、齢十二で戦場に出た。それ以来、彼女の出陣した戦場においては、魔物の軍勢による侵攻と略奪を許したことがない。桁外れの実力と積み重なる戦功から、圧倒的知名度と国民的人気を誇る大魔術師だ。
そんなエイヴァが十七歳で王太子の婚約者となったのは、いうまでもなく政治的なものだった。
騎士王が興したと謳われるこの国では、魔術は長らく怪しげなものとして扱われ、魔術師は不遇をかこって他国へ流れた。魔道具の研究も遅々として進まなかった。そのうえここ数代は暗愚な王が続いて王家の権威は失墜し、領主たちは好き勝手に争い、国内は大いに荒れた。
それを必死で鎮めようとしたのが今代の王妃であり、王妃の後ろ盾である宰相家だ。政治に関心を示さない王に代わって貴族たちを纏め、国内を安定させようと試みた。その努力は決して無駄ではなかったが、同時に、政治力だけではどうにもならない事柄を浮き彫りにさせた。
近年とみに勢力を増した魔物の軍勢への対抗策───つまり魔術師と魔道具不足だ。
エイヴァはそんな状況下で王妃に見いだされ、奇跡のような実力を発揮した少女だった。
この場合、奇跡のようなという形容詞は“宰相家にとって”ともいえる。
王妃に恩があって、宰相家を裏切ることがなく、さらに女であるから王太子の婚約者にもなれる。いいこと尽くしで奇跡のような手駒、それがエイヴァ・シャリールだった。
エイヴァ自身、そう思われていることは知っていたが、まあ仕方ないかという気分だった。
王妃様には大きな恩がある。あの方のおかげで妹も真っ当な暮らしをしていける。宰相閣下は冷酷だけど国と民を案じる気持ちは本物だ。お二方のため、そしてこの国の未来のためなら、いくらでも便利な手駒になりましょう。そんな風に思っていた。
それに、次代の王妃を任せてもいいと思われていることは、誇らしくもあった。
孤児院で育ったエイヴァは、一部の大人が子供に対してどれほど暴力的になれるか知っている。若くして戦場に出たエイヴァは、一部の上官が部下をどれほど虐げるか知っている。そして、彼らがごくありふれた普通の人間だということもわかっている。
強者の立場になったときに、権力を得たときに、自分より弱い者を踏みにじる人間は必ずいる。むしろ、程度の差こそあれ、一度もその過ちを犯さないという人間のほうが少数派だろう。
だからこそエイヴァは、強くあらなくてはならなかった。無力なままでは、妹も部下も守れない。悲劇の繰り返しをとめられない。強く、強く。特別残酷なわけではない普通の人間が残酷な振る舞いをしてしまう前に止められるほど強く。状況や環境がそれを唆すというなら、その場を変えられるほどに強く。
次代の王妃を任されるということは、エイヴァにその強さがあると認められたということだ。この国と人々を守る役割を任されるということだ。その任務はエイヴァにとって人生を捧げる価値のあるものだった。
───たとえ婚約相手が、自分のような下賤の女など嫌だ嫌だと喚いても、笑顔で黙殺できる程度には。
婚約当時の王家に足りないものは大きく二つあった。魔物の軍勢から民を守ることができる“強い王家”と、それによる人々の支持だ。
エイヴァはその両方を兼ね備えていたから未来の王太子妃となったし、その経緯ゆえに戦地を離れることもほとんどなかった。王都で社交に励むより、王太子の婚約者として軍功を上げることのほうが、エイヴァに期待された役割だったからだ。
実際、エイヴァと、もう一人の男が魔物の軍勢との戦いをしのぎ続けたおかげで、王家への信頼は回復しつつあったし、その勇名に惹かれて魔術師たちも集まってきていた。魔道具の流通や開発も盛んになり、戦時下における人々の日常を大いに助けた。
やがて、王太子の婚約者となって五年目の春、ついに騎士と魔術師たちは共闘の末に、魔物の軍勢に奪われていたすべての民と土地を取り戻した。
完璧には程遠くとも、一応の平和を手に入れたといってよかった。
めでたしめでたし、ハッピーエンド。そのはずだ。
「最初から思っていたのだ、そなたのような野蛮な女では、この高貴なる私に釣り合うはずがないと!」
いっそ気を失ってしまえたら人生はどんなに楽だろうか。エイヴァは疲れた頭でそう思った。