【10】さよなら、わたしの天使 6
『勝利、そいつを柱に昇らせることは出来るか?』
船上のシスターベロニカから通信だ。
「あー……。囮を使えば、可能だろうな。でも」
『なんだ?』
「そこから狙撃するつもりなら、あんがい動きが速いからつらいかもしれないよ」
『では、止めろ』
「無茶言うねえ、手負いの息子に」
『信用しているから言っている』
「じゃ、やるしか」
師匠であり、義理の親でもあるシスターベロニカにそこまで言われては仕方ない。
人外だからでも、教団の看板を背負っているからでもなく、プロのハンターを自認する、この多島勝利だからこそ。
「とは言ったものの……」
俺は腕組みをして眼下のナゾ生物を眺める。
全身が黒く、頭、腕があり、まるで人のようなプロポーションだが、頭はやや尖り、口は大きく魚のようでもある。下半身はいまだ形が定まらず、モコモコと芋虫のようだ。
いずれ時間が経てば、グロくて大きな魚人になるのだろう。質感からすると、きっと深海魚系かもしれない。俺は、その容貌が魚に似ていることから、水に落としても倒せないのでは、と思った。
「完全体になる前に、間に合えばいいがな。――以後こいつのコードネームを、魚人と呼称する」
俺は、銃口を魚人に向けた。
数発撃ち込むも、食事に夢中で振り向きもしない。
「やっぱりな。仕方ない」
俺はうんざりしながら腕まくりをした。そして腰からナイフを取り出すと、思い切りよく手首を切り裂いた。
傷口からあふれ出した青い血液は、路面にまき散らされ、異界獣を惹きつける芳醇な香りを立ち上らせた。
――おいで。食いたいだろ? ほらほら。
魚人は、くっと頭を持ち上げると、きょろきょろと周囲を見始めた。しばし後、それが頭上から薫るのだと悟った。
ズルズルと橋の主柱に這い寄ると、腕や触手のような足を使って昇り始めた。
魚人がエサに食いついたので、俺はすかさず手首の傷をメディカルテープで塞いだ。現在の体調に貧血まで加わってしまったら、本気で身動きが取れなくなる。
「こちら勝利、魚人が昇り始めたぞ。もう動くのつらいよ、なんとかしてくれ」
『了解。もう少し待ってろ』
返事をするのもおっくうなところをみると、自分も相当疲労が溜まっていると見える。俺は少々申し訳ないと思いつつも、黙って柱の上に座り込んだ。
間もなくベロニカの狙撃が始まった。いきなり一発目がケーブルに当たり、柱の上まで振動が伝わった。
まずい、と思った時にはもう、魚人は柱から飛び退き、道路に降りてしまった。
『すまんッ』
「しゃあねえよ。他の方法考えよう」
とは言ったものの、策などなかった。あとは、直接魚人を攻撃するしかない。
俺は塔のてっぺんから、ひらりと飛び降りた。
降下しながらナイフに持ち替えると、落下の勢いのまま魚人の肩口に突き立てた。
吠える魚人。
俺は刃をぐりっとねじり、魚人の体から引き抜いた。
吹き出す極彩色の体液。
二撃目を繰り出そうとした時、俺の体はとてつもなく強い力で、道路の反対側まで弾き飛ばされた。
それが魚人の腕だと悟るには、俺が脳しんとうから回復するまでの数秒を要した。
目を開けると、魚人が大口を開けて迫っていた。
俺は、弾かれるように敵から遠ざかると、軽いめまいを覚えつつ、口の端から流れる血を手の甲で拭った。
「たしかに……美味いだろうさ。だが俺を喰っていい女は…………」
――あれ? 誰だったっけ。まあいいや。
俺は銃を構え狙いを定めた。
再び魚人が大口を開けるタイミングを見計らっている。いずれ手持ちの弾では、コイツの肉を裂いて命を絶つことなど不可能だ。
じわりと這い寄る魚人。気付くと後ろ足が形成されはじめている。
まるで、丘に上がろうとしている肺魚だ。
じり……。
魚人が迫ると、俺は背後に下がる。
とにかく時間を稼がなければ。
川まで誘い出せれば、シスターベロニカの援護射撃も使えよう。
――あと三メートルで歩道に。そうだ、こっちだ。
『ガスッ』
足下に何かが当たり、思わずよろめく。
俺は、乗り捨てられた自動車にぶつかってしまった。もう後がない。
脳内に敷き詰められた、大橋の構造図。
それに頼ってしまったために犯したミスだ。
今のままでは川からも死角、マガジンの残弾全て口の中に撃ち込んで倒せなければ、こちらの負けだ。
ヤツがニヤリと笑った気がする。
異界獣にそのような知能があるとは思えないが――。
俺は己の運命、そして市民の運命を掛けて、ありったけの弾丸を『魚人』の口の中へと撃ち込んだ。