【8】天使の休日 3
遙香は薄暗くなったリビングに灯りを点けた。
庭に出て行った教団兵士が、外側からガタガタと一階の雨戸という雨戸を閉めている。俺に逃げられないようにするためだろう。
いま明かりが差し込んでいるのは、キッチンの窓や、リビングに隣接した一文字氏の書斎にある、格子のはまった窓からだけである。
不貞腐れた俺は、リビングの床の上にあぐらをかき、さっき自分が開けた窓の前で、ガラス越しに雨戸と、その内側に張った蜘蛛の巣とその主を、ぼんやりと眺めていた。俺の気分はまるで、虜囚だ。
☆☆☆
<遥香side>
あくまでも、拒絶。
つい数日前まで愛し合っていたはずの少年、多島勝利のその背中を、私は悲しく見つめていた。二度も自分を救ってくれた少年。二度も自分を殺そうとした少年。そして、二度も自分を忘れた少年のことを。
どうして?
私に対する彼の態度に、怒りすら覚えている。
でも同時に、彼の不遇な境遇、現在の過酷な環境にも同情せざるを得ない。
事情は知っている。事情はわかる。でも、そんなに簡単に割り切れるもんじゃない。十年間探し続けた少年に、関わるなと言われて出来るものか。
私は内に秘めるような女じゃない。
目の前に彼がいるのに、問い正さずにはいられなかった。
「私のこと遠ざけたの、ホントは私のこと心配してくれてたからでしょ。前もそうだったじゃない」
「……」
「忘れたこと怒ってないよ。だから、もどっておいでよ。ショウくん」
「ごめん、俺……」
「ショウくんが具合悪くなった原因、多分私にもあるんでしょ。いまは病気治すことだけ考えようよ。ね?」
「…………うるさいんだよ」
「ごめん……」
彼の拒絶に唇が震えてしまう。
「いや、あの……俺も、ごめん」
彼は大きくため息をつくと、くるりとその場で私の方へ向きを変えた。
眉根を寄せ、ひどく苦しそうな表情をしているけれど、視線を落として私と目を合わせることはなかった。
私も彼の前に座った。
「あのさ、俺……すごく普通じゃないっていうか……、今まで普通の人には理解しにくい生活してたから、だから……いろいろうまくいかないっていうか……」
「うん……」
「極端に狭い環境だったというか……」
「うん……」
「というか、そこしか、教団しかなかったんだ。居場所が」
「うん」
「普段あまり意識しないように周囲が気を遣っててさ、俺が生体兵器だってこと」
「……」
私は唇を噛んだ。
当人の口から聞くには、あまりに酷い言葉だ。
生体兵器、だなんて。
「俺はべつに……誇りを持って仕事をしてたし、こないだお前が言ったように、多少は楽しんで仕事してる時もあったよ。――他に楽しみもないしさ」
「そう……」
「こんな身の上じゃ外に友達を作ることも出来ないしさ、おれ教団の広告塔にもなってるから、教団内じゃ気安く近寄ってくる同年代の奴もいない。正直、シスターベロニカ以外に信用出来る人間は一人もいない」
「……」
「それでも、今までなんとかやってこれたんだ。実はものすごく危ういバランスの上でだったけども」
「私、のせいで、それが……」
「ああ。お前のせいでな」
「ッ――」
私は唇を歪め、ぎゅっと拳を握った。いまにも涙がこぼれそう。
「……でも、それを責める気はないよ」
「ショウくん……」
少しだけほっとした。
また彼は大きなため息をついた。
「それで、ホントに申し訳ないと思ってるんだけど、俺にとってハルカは……あの ……すごく言いづらいんだけど……かなり迷惑な存在になっちゃったんだ……」
彼は、ひどく申し訳なさそうな顔で言った。
「私のこと、嫌いになった?」
「そっちこそ、なんで嫌いにならなかったんだよ。あれだけのことされといて、おかしいだろ?」
「ちゃんと答えてよ。質問に質問で返すとかないから」
「ごめん………………。嫌いになるわけないじゃん。だから俺、壊れたのに……」
「……ごめん」
ううん、と彼は頭を振った。
「俺、教団に居場所がなくなるのが恐かった。お前と出会って、俺、何もかもうまくいかなくなって、どうしようもなくなって、大怪我して、ヤケになって、お前のことホントに忘れようと思って、それでおかしくなって、もう……」
「……うん」
そっと彼の手を握った。
彼は拒まなかった。
「それに、知らなかったとはいえ、十年もの間お前んちにすごい迷惑かけたし、お前のこと二度も殺しかけたし……もう、一緒にいたらいけないって……。
だから、あの晩も言ったけどさ……、俺もう本当に限界で。どうしようもなくて。本気で、迷惑だったんだよ。もう病院にも来て欲しくなかった」
「ごめん…………」
「どうしてほっといてくれなかったんだよ。お前だってひどい目に遭ったじゃんか」
「――勝手なこと言わないでよ」
「分かってるよ、自分が無責任だってことぐらい」
私は小さく頷いて、握った手に力を込めた。
「ずるいよ……一人で勝手になんでも決めて……」
彼を責める声が、細く、震える。
彼は握った私の手に、反対の手をそっと重ねた。
触れあうことがあんなに嬉しかったのに、今ではすごく苦しそうに見える。
「………………あのさ。いま俺、どうしようもないくらい、いろいろぐちゃぐちゃでさ。その……いきなり医者や親に無期限休暇とか言われても、どうしたらいいのか分からないんだ。どうしたら元に戻れるのか、目処が全く立ってない」
「うん……」
「そんでさ……心の平静を取り戻そうとすると、どうしてもお前が……。ハルカが俺の心をかき乱すんだ。その度に、頭と胸が痛くなって……薬飲まないとダメで……でも飲むとぼんやりして……だから、昨日お前が見舞いに来たとき、何も言えなかった。すごく具合い悪くて、手紙も読めなかった……」
「……ごめんなさい、私……」
私は、手前勝手に怒りを募らせていたことを反省した。
私と目を合わせることも出来ず、床を眺めていた彼は、顔を上げ、私の顔を見た。
今にも泣きそうなのを必死にこらえ、唇をへの字に曲げている。
私の涙も、今にもこぼれそうだった。
「だから俺、すごく苦しいんだよ。つらいんだよ。痛いんだ。
医者や親に、いきなり休めだなんて言われて心の支えがなくなって、どうやって生きたらいいか分からない。
パトカーのサイレンが聞こえると、装備品担いで現場に出なきゃって焦るんだ。狩らなきゃ教団に居場所がなくなる、そう思い込んでたから。
俺……こんなんだから、自分のことで精一杯で、治るまでお前と付き合ってる余裕ないんだ。大事にしてやれる余裕がないんだ。
お前のこと好きだから、また傷付けたくないから……だから……ごめん……」
痛みが走るのか、彼は胸を押さえてうずくまった。
「ショウくん、だいじょうぶ?」
「……いたい……よ、ハル……ぅ」
「ん……だいじょぶ、だいじょぶだよ……ショウくん」
私は膝立ちになり、勝利の頭を胸にうずめて抱いた。
彼が小さくうめくたび、私は彼の髪を静かに撫で付けた。
「あの時も、いたいよ、いたいよって言ってたよね。園庭から担架で運ばれてった時のこと、今でもたまに夢に見てるよ」
「俺の代わりに、……覚えててくれたんだな」
「かもね」
彼は私の胸に顔をうずめたまま、私の腰に腕を回した。
☆☆☆
「ありがと……。少し、楽になった」
「お薬飲む?」
遥香が言った。
俺は、ううん、と頭を振った。
「俺、どっか間違ってたのかな……」
「……え?」
「お前のこと、忘れようとすると苦しくなる。今までずっと忘れてたのに」
「もう忘れないようにってことじゃない?」
「そう……なのかな……」
「そうだよ」
「俺、教団以外に居場所がない。そう思ってた。俺が育った場所だから。……だけど、シスターベロニカは、たとえ狩りが出来なくなっても、お前の居場所ぐらい私が作ってやる、って言ってたんだ……でも……」
「このままうちにいたっていいんだよ。ショウくん一人ぐらい私が養ってあげる」
「え? ……マジ?」
俺は遙香の顔を見上げた。
「マジ」
しばし思案して、俺はゆっくり口を開いた。
「んー……………………、ヒモにしてくれる?」
彼女はいささか邪悪な笑みで応えた。
「そのかわり家事やってよね」
「主夫か。……うん。俺、料理勉強するよ」
「ニシシ……これで、ショウくんは私のものね」
遙香は、俺をぎゅっと抱き締めた。
――ヒモって何すればいいのかな。
あとでネットで調べるか。
……でも、俺に違う生き方なんて、出来るのかな。
殺戮のない世界で生きるなんて。