【10】天使、溶ける 4
ひとしきり泣いた後、俺は空になったガラスのボウルを持って部屋を出た。
無人の廊下が、オレンジに染まっている。
(今は夕方なんだな……)
廊下の窓から何気なく門の方を見ると、誰かがうろうろしている。
……女の子?
……視界がぼんやりしてるのは、ずっと目を塞がれていたせいなのかな。
そんなことを思いつつ、俺は手の甲で、少しねばついた目をごしごしとこすった。
「ハルカ、どうして…………」
昨日、あんなにひどいことをしたのに、何故来たんだろう。
どうしよう。謝りに行くべきなのか。このまま嫌われている方がいいのか。
俺は途方に暮れて、その場に座り込んでしまった。
俺の頭上を通り越して、朱い日が真横に差し込んでくる。
窓の下、腰壁に寄りかかって影の中に潜む自分は、まるで日光を避ける吸血鬼のようだ。
今の自分は泣きたくなる程みっともない、手負いのゴミムシ。本当は、光を纏う天使のはずなのに。
天使ってなんなんだろう?
伝承によれば、神のメッセンジャーだという。では、その神は一体どこにいるのか。最低線、自分はそんなのも見たことも聞いた事もないし、電波が降ってきたこともない。
伝承なんてうそっぱちだ。自分には血も肉もあって空も飛べない。ただのそういう生き物。後世の人間が勝手に美化してるだけだ。
本当の自分はバカで世間知らずで、黒子ように人目を忍んで、夜の町の害獣駆除をする清掃業者。
赤青黄色緑紫白黒透明……虹色の返り血を浴びて、化け物の憎悪と苦しみと断末魔の叫びを身に浴びる男。
クソのような大人達に唾棄される男。それが俺、多島勝利だ。
教会の皆は、自分にそれを悟られないように、毎日毎日、楽しい夢を見せ続けてきたのだろう。闇にフォーカスさせないために。
――でも、しょうがないじゃん。俺、気付いちゃったから。
窓の外をこっそりと覗き込む。
もう一度ハルカを見たかったから。
胸が締め付けられた。
胸だけじゃなくて首まで締め付けられた。
俺がこのあいだ下駄箱前で締め上げたタケノコみたいに。
遙香も、さっきまでの自分みたいに、門柱に背を預けて座り込んでいた。
「ショウくん、彼女さん表にいるけど、連れてきていい? あれじゃかわいそうよ」
いきなりシスターアンジェリカに声をかけられた。
いや……、自分が気配に気付かなかっただけだが。
意を決して、こう告げた。
「帰ってもらって下さい。もう、会わないと伝えて下さい」
アンジェリカは本当にいいの? と何度か念を押したあと、立ち去った。
彼女はそのまま遙香の所に行き、二、三言交わした。
遙香がアンジェリカに食い下がったが、アンジェリカは頭を左右に振って屋内に戻っていき、遙香はその場で、顔を両手で覆った。
気付いたら、俺は窓ガラスに爪を立て、うめき声を上げていた。
――会いたい。会いたい会いたい会いたい。会って抱き締めたい。
耐えられなくて、窓を開けて外に飛び出そうとした時、誰かが遙香に声をかけた。
――タケノコだ。
タケノコは、遙香にハンカチを渡し、背中をさすっている。多分彼女は泣いていたんだ。そして、奴は遙香に手を差し伸べ、彼女を引き起こした。
遙香はスカートの後をパンパンと払うと、荷物を拾ってタケノコに促されるまま俯き加減で歩きだした。
一部始終を見ていた俺は、以前自分が言ったことを思い出した。
『もしも俺に何かあったら、ハルカの力になってやってくんないかな』と。
タケノコは自分の言ったことを忠実に実行しているんだ。
そうさ。そうだけど……。
遙香たちと己の間に、空気の壁が出来た気がした。
いや、次元の壁、みたいな。見えるけど交われない。もうムリなんだ。生きる場所が違い過ぎる。
☆
落ち込んだらいつもみたいにシスターたちに甘えて慰められればいい。
だって俺の権利だもん。俺は教団に愛されていればいいんだ。
俺が誰かを愛する必要なんかない。
――俺が誰かを愛する必要はない。そうでしょ、母さん?