【9】天使、溶ける 3
「勝利君、すっかり綺麗になってるね。歩けそうなら学校行ってもいいよ」
往診にやってきた教団の医師が、ベッドの中の俺に言った。
昨日目を覚ました俺の様子を見に来たのだ。
資料で俺の身体能力は承知していたものの、驚異の回復力を目の当たりにした医師は、終始すごいを連発していた。
教団所属の人外を、実際に目にする医師はそう多くない。彼もこれまでは、そんな医師の一人だった。なにせ全体で二十人もいない。
超常的な事柄を扱う団体と分かって所属している一般系職員でも、実際に敵と接触する機会のある者は半分もいないだろう。
市内には、俺の通う学校のように、教団経営の医療施設がある。
異界獣の湧き出す「ゲート」の密集しているエリアには、監視・殲滅拠点としての教会、俺のための高校、ハンターを収容する病院が、おおむねセットで作られる。往診にやってきた男は、そこからやってきた医師だ。
俺自身も、自分のことながら驚いていた。なにせ、ここまでひどいケガを今までしたことがなかったからだ。
かの先生曰く、担ぎ込まれて最初の二日ほどは病院の薬液水槽に浸かっていたが、早々に皮膚が再生を開始し、三日目には筋肉などがおおむね再生、四日目の朝には皮膚までが再生をし、ほぼ元通りになってしまったという。
ここまで回復すれば水槽は用済み、薬液から取り出された俺は教会自室のベッドに移され、意識が戻るのを待つことになった。
――ところが翌日になっても、翌々日になっても意識は回復しなかった。
教会スタッフやベロニカはもとより、遙香や竹野まで心配して毎日見舞いにやってきた。誰もが俺の目覚めを待ち望み、日頃祈らぬ神に彼の回復を祈る日々だった。
そして負傷から一週間、このまま意識が戻らないのではないか、と絶望する者も出始めた頃、俺は現世に戻ってきた。
「いやー、それにしてもすごい回復力だねえ」
「先生それ今日は十五回目ですよ」
いや~、とか、う~ん、とかうなりつつ、俺の肌をなで回しつつ、医師は点滴のチューブや、バイタルサインを調べるためのセンサー類を外している。
自力で食事も取れるのだから、もう点滴は必要ない。医療機器での記録もほぼ正常値で安定しているため、機材は不要となった。急変すれば、病院に搬送すればいい。
☆
医師が機材共々病院へ戻った後、シスターアンジェリカが、フルーツの盛り合わせを俺の部屋に持ってきた。タケノコが持ってきた見舞いの品で、さすが成金の息子だけあって高そうな果物ばかり入っている。
おそらく俺に食べさせようと、前から用意してあったのだろう、美しいカッティングの施されたガラス容器ごとよく冷えている。
「ショウくんさん、竹野さんから預かった雑誌だ、ですけども」
「……雑誌? えっと……なんだっけ……」
「表紙をベンジンで拭いて値段シールを剥がし、消毒スプレーをかけた後、透明ブックカバーでコーティングして、机の上の本棚に並べておいたぞ、ですよ。お使いになるならお持ちしますが、どんなのがいいですか?」
「……え」
背中に冷たいものが流れる。
さらっと恐ろしいことを、その名のとおり天使の笑みで言ってのけるシスターアンジェリカ。あんたはせどりでもやってんのか。
他人に性癖を見られることほど決まりの悪いものもなく、なおかつ、あれらはオーダーを受けたタケノコのチョイスであって、ズバリ自分の好みではない。
「あ、ど、どうも。おお、お手数おかけしまして……必要な時には自分で取りますから大丈夫です。はい」
(必要な時ってなんだよ! 自分で言ってて恥ずかしいわ!)
机の上をチラ見すると、確かに自分の頼んだエロ本が、つやつやのOPPフィルム透明ブックカバーに包まれて、エロ同人書店の薄い本の見本誌みたいになっている!
これをあのアンジェリカが……。これからどんな風に顔を合わせればいいのか。
正直つらい。
ああ……、きっとシスターベロニカにも見られている。
親にオカズを見られるなんてクソ恥ずかしいにも程がある。
かなりつらい。
俺は、折れかけた心を立て直すため、食べかけのフルーツ盛り合わせを一気に平らげた。さすがに高級フルーツ、食材パワーが強い。MPもかなり回復した。
――これならイケる!
意味深な笑みを残してアンジェリカが去った後、彼はタケノコの持って来たエロ本を見聞しようとベッドから降りた。
「ぐっ……」
痛い。
足の裏からふくらはぎ、ふとももと、軋むような痛みが走る。
でも、歩けないほどじゃない。
ああ、こうやって人体は動きを筋肉で伝えていくんだな、と保健や生物の授業を唐突に思い出しつつ、筋肉の収縮を確かめるように足を動かした。
そして俺は、壁に手を突きながら、机までゆっくり歩いていった。
歩いていると徐々にこの痛みと違和感が薄れていく。
なんだか筋肉全体がジンジンする。不思議な感触だ。
そうか。
皮膚は生まれたばかりで、中身の肉体と馴染んでなかったんだ。だから、不具合を起こして痛かったんだ。そんな気がする。
やっとの思いで机に到着した俺は、ゆっっっくりと椅子に腰掛けて、お宝を楽しむことにした。
……が、一冊だけ後半シスターものになってる。
せっかくのオカズ、もったいないけど使えない。
シスターだけは絶対ダメ。
どうしても、そういう気分になれないんだ。
性的対象とは思えないのは、いつも身の回りにいたからだろう。
上がったテンションが一気に下がる。
ふう、とため息。
それと同時に、ふと遙香のことを思い出し、切なくなってきた。
(そういえばさっき……ハルカ泣かしちゃったんだっけ)
遙香にあんなひどいことするなんて。自分が信じられない。
なんで彼女のことを「敵だ」なんて言ったんだろうか……。
彼女のことを考えると心が揺らぐから、本能が命に関わると判断したのか。
確かに、非常時に彼女のことなんか考えていたら、マジで死んでしまうかもしれない。
――この間の夜のように。
やっぱり、一緒にはいられない。
このままだと、彼女も傷つけるし、自分も死ぬかもしれない。
だけど。
ふぅ―――――――――――――― …………。
「俺のこと、嫌いになってくれないかな……」
……………………………………そんなの、スゲエ嫌だ。
イヤだ。イヤに決まってる。
でも、ダメにも決まってる。
「うああああああああああああああああ……んもおおおおおお……」
俺は頭を抱えて、悶え、のけぞった。
このまま付き合えば、命に関わるし、失敗を続けたら教団にも居場所が無くなる。
どう考えても彼女と付き合うのは、ドがつくほどマイナスだ……。
頭じゃ分かってる。
本能ならもっと分かってる。
でも気持ちはそうじゃない。
もっといろんなことしたかったのに。
あんなことや、そんなことや。
……俺のこと、正体知ってても怖がらないし……俺に惚れてるし……もう、ハルカを逃したら、俺に彼女なんか出来ないに決まってる。シスターなんか論外だし。
ああもう、そんな事考えたらダメだ俺、考えたらダメなのに。
ダメ……なのに。
「ハルカぁ……やっぱ、せめて、せめてお別れくらい言いたいよ……」
俺は、机の上に突っ伏して、愛しい遙香を想ってメソメソ泣いていた。
だってしょうがないだろ。イヤだよこんなの。
初恋なのに。十年越しに再会したのに。
……いや、俺忘れてたけど。