【13】翼の古傷 2
『翼』
その言葉がトリガーだった。
俺は、霧に覆われていた頭の中身が、急に整理されていく気がした。そして、いまだ見えないが、これまで見えなかった何かがある。その確かな感触を得た。
遙香はさらに話を続けていく。
「驚いた私はばたばた暴れて、結局その子は羽ばたくことも出来ず、そのまま背中から落ちた。男の子がクッションになって私はかすり傷だったけど、その子はまともに落っこちたせいで、片方の翼を骨折してしまった……」
――片方の翼を、骨折……だって? 骨折?
また何かが、頭の中で姿をあらわにしていく。
四散していた、とても小さくて細かいパズルのピースが、ひとつ、またひとつと、あちらこちらで島を作り、組み上がっていく。
その度に、目の奥がチリチリとする感触に襲われる。
――これ、なのか。思い出さなければならないことって。
彼女は俺のことなどお構いなしに、話し続けた。
まるで、話さなければならない、という使命感に突き動かされているようだった。
「彼は、自分の方が死ぬほど痛かったはずなのに私のことを心配をして、何度も大丈夫かって聞いてくれた。私は彼をその場に置いて、大人の人を呼びに行った。
ケガをしたその子は担架で運ばれていって、お父さんは私をすぐ連れて帰ってしまった。お礼もお別れも出来なかったのに……」
遙香はそこまで一気に話すと、手元の写真に視線を落とし、愛おしそうに子供の俺を指先で撫でていた。
『カチリ――』
バラバラだった記憶のカケラが、ピタリとはまる。
――思い出した。そうだ。確かにあった。俺はこいつを――
見えなかったモノの正体が、今わかった。
粉々に砕かれ、霧散していたものはコレだったのか。
今日の今日まですっかり忘れていたものは、『彼女の記憶』だったのだ。
――だからか……背中の古傷が痛むのは。
自分と遙香の過去を思い出してしまった俺は、必死に動揺を噛み殺した。
呼吸は乱れ、心臓は早鐘を打つ。
背中の翼は疼き、握りしめた拳の中で爪が手のひらに突き刺さる。
俺は、叫び出したい衝動と必死に戦っていた。
こんなに自分の気持ちと抗うのが大変だなんて、これなら異界獣と戦った方が余程楽じゃないか、と思った。
――俺は、何でこんな大事なことを忘れていたんだ!
いくらガキだったからって、あんな高さから落ちたくらいで忘れるなんて……。
「後日、お父さんと一緒に、その男の子にお礼とお詫びを言いに行ったの。
だけど、教会の人はそんな子はいませんって」
(なんだって? 俺はあの施設にその後数年はいたんだぞ!)
そう言いたい気持ちを、俺はぐっと飲み込んだ。
「何度も会いに行ったけど、この写真も見せたけど、この男の子にはそれっきり会えなかった。どうして教会がこの子のことを隠すのか、私にもお父さんんにも分からなかった。
でも私は、どうしてもこの子に、ごめんなさいって言いたくて、お父さんに探してって頼んだの。
……それからお父さんは、都市伝説ハンターになった」
彼女は肩を震わせ、啜り泣きを始めた。
それでも、彼女は話し続けた。
「私が勝手に裏庭なんかに行ったから、あの子は大怪我しちゃったし、私があの子を探してってお父さんに頼んだから、お父さんは行方不明になっちゃった……。
みんな、私のせいで……ひどいことになって……」
それ以上はもう、言葉にならなかった。遙香は両の手のひらで顔を覆うと、その場にしゃがみこんでしまった。
――俺のせいで、遙香をこんなに不幸にしちまったのかよ……。
――俺には、こいつを好きでいる資格すらない。
遙香の告白で、俺は忘れてしまった過去の一部を取り戻した。
しかし、それは同時に残酷な事実を伴っていた。
俺はうずくまる遙香の傍らに座り、泣きじゃくる彼女の肩を抱いて語りかけた。
「ハルカはなんにも悪くない。男の子はお前を助けたかっただけだし、お父さんだってお前の願いを叶えたかっただけだ。
その結果が望むものじゃなかったとしても、二人とも後悔なんかしてないし、お前を恨んだりなんてしていないよ。きっと……」
彼が遙香を恨んでいないのも、後悔していないのも、本当だ。
そもそも記憶すらしていなかったし、知ったところでそんな感情になりっこない。
一文字氏の方は不明だけど、娘のために、あれから十年近くも俺を探し続けていたのなら、きっと後悔はしていないだろう。
「そう……かなあ……」
ぐすぐすと、鼻を鳴らしながら遙香がつぶやいた。
「そうだよ、きっと」
そう言って俺は、ハンカチで遙香の顔を拭ってやった。
「ホントにそう?」
「そうだよ。だからもう泣くな」
遙香は手の甲でごしごしと目をこすると、ポケットから試験管のような細長い瓶を取り出して、目の前で軽く振って見せた。
「これね、その子の落とした羽根」
中には小さな羽根が一枚入っている。白くて、少しパールがかった羽根だ。
(まさか……)
俺は思わず息を飲んだ。その羽は…………
「ねえ。どうしていなくなっちゃったの? ずっと探してたんだよ?」
遙香が悲壮な表情で訴える。
「…………」
俺は、否定も肯定も出来なかった。
自分はいなくなったつもりもなかったし、一文字親子が自分を探してることも知らなかったし、そもそも、遙香のことなんか綺麗さっぱり忘れていたんだから。
肯定したい。
そりゃあ自分だって、名乗ってやりたい。
だけど、教団が一文字親子と自分を引き離したのが事実だとすれば、これ以上自分と関わると、彼女が危険かもしれない……。
「黙ってないで、何とか言ってよ」
「……それは……俺じゃないよ。多分、誰かと勘違いしているんだ」
「……え? だって――」
「俺はお前が木から落ちたことなんか知らないし、誰かを探してたことなんか知らない」
「でも……」
さみしがりな子犬のような目で、遙香が自分を見る。
とても直視できない。
俺は顔を背けた。
俺は全力で素っ気ない振りをした。
本当に全力で。
それでも口元が震えてしまう。
これ以上遙香の目を見たら、自分も号泣してしまいそうだった。
「そいつを探してどうなる。お前とは、生きる世界が違うんだろ。
だから、今まで、十年もずっと会わせてもらえなかったんだろ」
がんばっても、がんばっても、声の震えをどうしても止めることが出来ない。
俺の両肩を掴んで、遙香が叫んだ。
「それは……それはそうかもしれないけど! でも!」
「だったら、もうあきらめろ。なにもかも全部忘れて、お前は自分の人生を歩め」
俺は目をつむって、遙香に絶縁を言い渡した。
それが俺の精一杯の抵抗だった。
「何言ってんのかわかんない! ショウくん、君なんでしょ? ねえ!」
遙香は俺の胸板を両の拳で何度も叩いた。
俺の肺に衝撃が伝わる度に、食いしばった歯は力を失い、小刻みに息が漏れた。
つむった目蓋は情けない格好に歪み、その奥に溜め込んだ涙が零れて、ブレザーの胸元を転がり落ちていった。
彼女の拳が打ち付ける度に、俺の付け焼き刃な決意が、あっけなくボロボロと崩れ落ちていく。
そんなに自分は弱い生き物だったのかと、情けなく思うとともに、このまま流されてしまいたいとも思った。