【5】ゆがむ記憶 崩れる心 5
「うかつだった。というか、何故こいつの気配に気づけなかったのか……」
いつもなら、正確無比に敵を見つけ、抹殺している。
狭い屋上で鉢合わせたなら、臭いにも気付けているはずだ。
地上に立ちこめていた発電機の排気ガスも、ここまでは届いていない。
『調子が悪い』
確かにその一言で言い表せる。だけど――。
己の感覚器官の不調は死を招く。
だから俺は、フルフェイスのヘルメットも着けない。
視覚、聴覚、嗅覚に制限を受けてしまう状況は、出来れば避けたいんだ。
「いんや……参ったね。うぇ……」
まだ気分が悪い。吐き気も目眩もする。
いっそのこと、腹の中身を吐き出してしまえば楽になれるかも――と思ったが、せっかく食べた夕食がもったいない。ガマンして先を急ぐことにした。
ひらりと屋上から地上へ飛び降りると、今度は着地に失敗して二、三度地面を転がるハメになった。
「な、なんで……ッつつ……」
(ありえん。俺がこんな低い高さでコケるなんて……)
暗視ゴーグルを額から降ろし、再び周囲の探索を始める。
だが近くに敵の気配はない。
さっき屋上からちらりと見えた敵は、いまどこにいるのだろうか。屋上での騒ぎでどこかに逃げてしまったのか。
ふいに、びゅう、と強い風が吹いた。
少し残っていた排気ガスと共に、街を覆っていた雲が流され、月が顔を出した。封鎖区画にほんのりと青い光が降り注ぐ。
この程度の明るさならば、狩りに支障はない。むしろ裸眼で仕事が出来るぶん、視界の狭い暗視ゴーグルを使うよりも敵を見つけやすい。
俺はゴーグルを外し、すう……と深く息を吸い込んだ。
☆
「勝利さん、こちらがマガジンパックです。ドリンクのお代わりは?」
「ああ、下さい。それとチョコバーも、もう一本」
東側の区画の駆除を終えて、補給地点Aに来た俺は、待っていたシスターから弾薬の補給を受けつつ休息を取っていた。
「それにしても、どうしたんです? そんなに泥んこになって。大変だったんですねぇ」と、スポーツドリンクを紙コップに注ぎながら、呑気に言うシスター。
「うっ……ちょ、ちょっとね」
「じゃ、ウェットティッシュも出しますね」
死闘の末、と言えれば格好はいいが、実際には、さんざん自分で転びまくって汚れただけだった。つまり、自爆。
花壇に突っ込んだり、ぬかるみに足を取られたり、異界獣の返り血をモロに浴びたり等々。
普段なら、こんなに汚れることはない。そもそも、異界獣は俺の体に触れることすら出来ないのだから。
シスターの用意した、キャンプ用折りたたみ椅子に腰掛け、深いため息をつく。
(ああ…………。なんでこんなみっともない事になってんの)
仕事だけはなんとかこなしているものの、まるでルーキーの時のようにドジだらけだ。
「勝利さん、顔上げて」
「んあ……?」
しょんぼり項垂れていると、シスターがウェットティッシュで顔の汚れを拭ってくれた。
「一人でこんな広い場所を駆除するなんて、大変ですよね。これ食べて、頑張って」
彼女はエプロンのポケットからチョコバーを出して、俺に差し出した。
「ありがとう……」
「よほど疲れているのね。私たちが役に立てればいいのだけど……ごめんなさい」
「いや、一般職の方に、そんな無理させられないですよ。これで十分。それに、そんなに疲れているわけじゃないから大丈夫……」
「心配事?」
ぎくり。
俺はチョコバーの包みを、手元から落としそうになった。
「いや……あの……」
「彼女さんのこと?」
「へあッ、いや、その……」
「あ、ごめんなさい、余計なこと言って。お仕事に差し支えちゃいますね」
「あ、あはははは……」
俺は力なく笑った。やはり女の人は騙せないようだ。