File??:影蟄穴『冬』完
化け物が俺の後をつけていた。人の形をした化け物だ。全身が黒い腐りかけの肉で覆われている上に、そこから人の目が数え切れないくらい生えていた。生えていたという言葉はもしかすると正確ではないかもしれない。けどあんなおぞましいものをどうやって言い表せばいいのだろう? 穢れた憎悪と呪いの塊だ。
化け物は顔だけ普通の人間と変わらなかった。たぶん男で、俺と年齢が近そうだ。顔の作りは日本人に見えたが目の色はなかなか変わっていた。紫色の宝石、アメシストだったか? それに似た色をしている。人相は悪い。かすかにだが煙草の臭いもした。移り香だろうか。まさか化け物が煙草を吸うのか?
F商店街に着いてから終始化け物に監視されている感覚があった。霊感なんてなかったし、そもそも信じていなかったけどいきなりあんな化け物を目撃するなんて。いや待て。化け物を見るのは初めてじゃないかもしれない。春にT山で何か……“影”を見たような。違う違う。あれは影だろう。
化け物に追われながらも俺は駅を目指していた。山に向かうためだ。T山ではない。あそこは春にうろつくのにはいいが冬に籠るのには向いていない。もっと雪深く静かな山がいい。人の寄り付かない場所で眠りたかった。沢山食べたからきっと良く眠れるだろう。
どうにか化け物を撒けないかと人通りの多い道や地元の人しか使わなさそうな細い裏道を通って遠回りで駅に向かっていた。でも化け物は諦めなかった。岡元とは随分違う。あいつは話しかけても来なかった。わざわざ会場まで足を運んでおいて。岡元と最後に話したのはいつだろう? 七月か八月だったはずだ。
そんなことを思い出しながら、俺はある裏路地で立ち止まった。路地の前後左右から人の気配がしている。この道だけが喧噪から隔絶していた。すぐに助けてくれる人が誰もいないこの環境は化け物と対峙するには不適当かもしれない。でもあの化け物は俺にしか見えていないはずなのだ。あの会場で堂々と観衆に混じっていても誰も叫ばなかったのだから。
俺以外に見えていないのなら助けを期待するだけ無駄だ。自分一人でどうにかするしかない。俺は山に帰らなければいけない。時が迫っているんだ。化け物だろうが何だろうが邪魔をするのなら殺してやる。……それにしても、あの化け物は美味いのだろうか? 人間は不味かった。魂の味すら気に入らない。それに比べて人間の作る料理の何と美味なことだろう。
化け物が裏路地に入ってきた。俺は道の真ん中に立って化け物を待ち構えている。
「ずっと俺をつけてきてただろ」
「バレてたか。そりゃそうだよな」
悪びれもせずに化け物は笑った。しかしその目は油断なく俺の胸郭を探っている。こいつには見えているのか。俺の心臓が。俺を食う気なのか。そんなことは許さない。俺は化け物に飛びかかった。
「化け物が! 殺してやる!」
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「化け物が! 殺してやる!」
「おい、いきなりか!?」
八木――の声で喋る怪異がまさか出合い頭に攻撃してくるとは予想していなかった。二三会話をしたかったのだが。つくづく読みが甘い。いい加減に学習しろと自省したところで現状が好転はしない。
隠は八木によって建物の壁へ力いっぱい突き飛ばされた。後頭部を強打し一瞬意識が薄れる。そのせいで体勢を立て直すのが遅れた。それが決定打だった。八木は隠の肩と二の腕を掴んで壁に押し付け首に噛み付いた。まずは喉仏を噛みちぎり、それから続けて頸動脈を食い破った。鮮血が噴き出し周囲が赤く汚れる。
硬い歯の感触があった。人間の歯だ。怪異の影響が強く隠には八木の口がブラックホール見えなくなっていたが、八木の歯はしっかり残っていた。
八木が顔をしかめて肉片を路上に吐き捨てた。何度も何度も咳き込んで唾と共に口内に入り込んだ血を吐き出す。そこまでするなら最初から噛み付いてくるなと言ってやりたかった。
それから八木は素早く隠から離れた。隠は目を大きく見開き壁に後頭部と背中を擦り付けながら崩れ落ちていく。血に染まった手で首を抑える。しかし隠の力は弱まっている上に傷口は広い。指の隙間から血は溢れ続けた。痺れるような痛みはあるが、それよりも急速に凍えていくのが気になった。十二月の気温とは関係のない寒さだ。
瀕死の隠を前にして、すぐさま逃げ去るかと思えた八木はしかしその前に隠の腹部を三度容赦なく蹴り上げた。肋骨が折れたかもしれない。内臓も傷付いただろう。首の肉を食いちぎるだけでは鬱憤は晴らせなかったらしい。隠の唇がかすかに動く。しかし声は出ず、ごぽごぽと血の泡立つ不快な音が響くのみだった。
血飛沫を浴びた背中がどんどん遠ざかっていく。追いかけたいが今は体を動かすことができない。壁に寄りかかって見送るしかなかった。普通であれば致命傷だ。残念ながら隠は普通ではないので肉体が死を迎えても元に戻ってしまうのだけれど。言い方を変えればきっちり死ぬまではこのままということだ。動けるようになるまでには甘く見積もって数分から数十分はかかる。そこから八木を追跡するのは不可能に近いだろう。
返り血を浴びた姿で馬鹿正直に街中を歩いているなら通行人に通報されてもしかしたら捕まっているかもしれない。しかし警察沙汰になった場合今度は隠が逃げ隠れすることになる。警察には関わりたくない。面倒なことにしかならないからだ。流れた血が戻ってくるため、隠が回復するのに合わせて八木に付着した血は薄れていく。どこに向かうつもりなのかは知らないが、もう誰にも関わることなく逃げおおせてくれと隠は願った。
小便と吐瀉物、そして血と油と土のにおいが吹き溜まる薄暗い路地裏で隠は密かに死に至る。八木博俊の死の瞬間はどのようなものだっただろうか。彼がどのように死んだのか正確に説明できる者はいない。隠にだって不可能だ。その上で隠は想像をした。そうして八木の死を悼んだ。怪異が八木に入り込み、生きたまま内側から怪異の着ぐるみとして作り替えてしまったこと。八木は自分が死んだことにすら気付かないまま八木として生きていたつもりだった。最期まで。
▲▼▲
人里離れた山奥で“影”が穴に入っていく。周囲に生物の気配はない。穴の中は苔に覆われていた。“影”の傍らには死体が折り重なっている。腐っていたり、まだ腐っていなかったり、腐りかけだったり。あるいは骨になっていたり。どうなっていようと平等に顧みられることはない。
満ち足りた腹で“影”は眠り冬を越して春を待つ。それは次の春とは限らない。次の次の春かもしれない。次の次の次の春だってありえる。あるいは永遠に眠り続けてしまえと呪いをかけられる人間はこの世のどこにもいなかった。
――十二月十日にN駅で目撃されたのを最後に八木博俊は行方不明になっている。そして、現在まで発見には至っていない――
完
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