File??:影蟄穴『春』
「T山に行かへん?」と友人の岡元に誘われたのは四月も中程が過ぎた頃だった。
大学生活も二年目を迎え、入学当初の緊張感や新鮮さはかなり薄れつつあった。部活にもサークルにも入らないままここまで来てしまったせいで大学と家、大学とバイト先、家とバイト先を行ったり来たりするだけの単調な毎日が続いている。大学もバイトもない日は大体家で寝ているか、そうでなければ提出期限の近いレポートを書き上げるのに必死になっている。留年だけは避けなければいけなかった。
息抜きとしてたまに映画を観たり買い物に行ったりもしたが、勉強にも生活にも関係のないことにお金を払うたびに脳内の帳面がちらついて気持ちの沈む瞬間が必ずあった。食事にこだわりがないのと、そもそも食が細い方だったせいで同じ年頃の男よりも食費が少なく済んでいたのが心の慰めになるほどだ。
飲酒にも興味はなかった。下戸ではないものの、酒を飲んで浮かれ騒ぐことに魅力を感じなかった。俺は広義の意味の『大学生活』を楽しむ資質に欠けていたのかもしれない。
そんなだから友人らしい友人もあまり増えていない。大学に入って出会った人たちのほとんどが講義で顔を合わせれば挨拶したり軽く喋ったりする程度だ。何人かとは連絡先を交換しているが、それも講義の代理出席や欠席した際の資料や内容を教え合うことにしか使われていない。友人と呼ぶには事務的な関係だろう。ないよりは絶対にいいのだけれど。
そんな中で、岡元はこんな俺でも友人と言い切れる人間だった。岡元と知り合ったのはちょうど一年前の春だ。学部は違うものの、同じ一般教養の講義を取っていた。受講者の少ない講義だったから、何度か講義を受ければ自然と顔を覚えてくる。特に岡元は一回目の講義で隣の席だった上に関西訛りで喋りまくっていたから印象に残っていたし、それ以降も席が近かった。先に話しかけてきたのは岡元だ。何と話しかけられたのかは覚えていない。でも俺から気安く話しかけはしないだろう。
大学に入るために上京した岡元も俺と同じく部活にもサークルにも入っていなかったが、俺と違って友人はたくさんいたようだ。多趣味で常に忙しそうだった。それでも岡元は最低でも二三度は俺を遊びに誘ったし(予定が合わないときを除いて)俺も断らなかった。岡元と遊びに行ったときには不思議と脳内の帳面は邪魔してこなかった。顔の広い岡元がどういう意図をもって俺と友人付き合いを続けているのかは知らない。
利用されているのか、気まぐれか、物珍しさか。自分で言うのもなんだが、岡元にとって俺は利用価値の低い男だと思う。これまで俺と一緒になった講義で岡元が欠席したり遅刻したことはない。だから岡元の出席票を代わりに提出するなんて機会には恵まれなかった。レポートや試験に向けて二人で勉強もしたが、余裕綽々の片方が単位を落とす寸前の哀れなもう片方を救ってやるというような状況ではまったくなかった。俺は岡元を助けたし、岡元に助けられもした。
利用という点でいうなら、俺の方がよほど岡元を利用していたのではないかと思う。大学生らしい生活をしているという実感を持てたのは岡元と過ごしているときくらいだった。
話は冒頭に戻る。「T山に行かへん?」と岡元が誘ってきたのは四時限目が終わり、周囲の学生が次々に席を離れていく最中だった。聞けば一昨日テレビでT山の特集をしており、それが面白そうだったから俺を誘ったのだという。岡元が予定しているルートはケーブルカーに乗れば山の中腹まで一気に行けて、その後も整備された道を進めばスニーカーでも簡単に山頂まで登れるらしい。登山客も多く、途中には店やトイレもあるのだとか。
自分が行くのでなければ他人事として「楽しそう」と言えるのだが。俺が出不精を発揮しかけているのを察したのか、岡元は笑いながら付け加えた。
「山登り言うよりちょっと豪華な散歩みたいなもんやって。ここより美味い空気を吸えて蕎麦やら団子やら色々美味いもんも食える。おまけに桜も見れるかもしれへん。魅力的やろ?」
「だとしても、何で俺を誘うんだ?」
「おもろそうやから」
と言い切られて、俺はそれ以上駄々を捏ねることができなくなった。岡元には見えているらしい面白さが気になってしまったからだ。山に行くなんて高校の学校行事で登ったとき以来だった。それに比べれば今回の登山は確かにちょっと豪華な散歩と言えなくもない。
すっかり人の少なくなった講義室を離れ、俺たちは大学内のベンチに座ってとりあえず日取りを決めることにした。運良く二人とも次週の土曜日が空いていた。続けて詳細を詰めたかったが、俺のバイトの時間が迫っていたのでひとまず解散となる。講義が重なっている日は去年ほど多くないので、後は電話とメールで進めていくことになるだろう。
当日は好天に恵まれるといいのだが。
◆◆◆
登山(ハイキングと言うべきか?)当日の天気は快晴。一日を通して晴れが続くようだ。岡元とはケーブルカーの駅で合流した。すでにこの時点で自宅や大学のある街よりも空気が澄んでいる気がする。それに寒かった。大学だと一時限目が始まるくらいの時間帯で、日光に当たってもそれほど温まらない。厚手の上着を着てきて正解だった。歩き始めればまた体感も変わってくるだろうが。
ケーブルカーの駅は土曜日ということもあって登山客で賑わっていた。子ども連れや若いカップル、それに熟年夫婦もいれば年齢性別を問わず友人同士で来ている者もいる。人込みは苦手だけれども、朝からハイテンションな岡元に引きずられてしまったのか来なければ良かったとは思わなかった。久々に息抜きらしい息抜きができるかもしれないという期待が後悔を上回っていた。
しかしケーブルカーに乗り込むまでに思ったよりも時間がかかったせいでその気持ちも萎みつつあった。今日一日でどれだけの出費があるだろうか。脳内の帳面が当て付けがましく支出欄を見せつけてくる。しかも明日は朝から夕方までみっちりバイトで、月曜日は月曜日で一時限目から五時限目まで講義が詰まっている。やはり今日は昼まで寝て怠惰な休日を過ごすべきだったかもしれない。
ようやくケーブルカーに乗車したときには俺の心の大半は後悔に染め上げられていた。制限いっぱいまで乗客を詰め込んでケーブルカーは発車する。急勾配を物ともせずにどんどん登っていく。窓側の席に座った岡元が声を上げた。音量は普段よりも抑えられている。
「うわ、めっちゃ木ぃ生えとるで。あっち見てもこっち見ても緑ばっかりや。疲れ目に効くわ~」
「そりゃ山だからな」
「山なんか来たんいつぶりやろ。高校んとき以来か?」
「お前も学校行事で山登らされたか?」
岡元が振り向いた。苦笑いを浮かべている。
「懐かしー。そんなんあったなあ。その言い振りやと八木もか?」
「ああ。しんどかったことだけ覚えてるな」
「俺も似たようなもんやわ。山登るだけでもしんどいのにその日は天気が悪くて濡れるわ寒いわで最悪やった」
そう愚痴る岡元の眉間の皺は深い。大体笑っているかにやけている岡元にしては珍しい表情だった。相当嫌な思いをしたようだ。
俺は窓越しに空を見上げた。真夏ほどには主張の激しくない淡い色合いの青空だ。ぽつぽつと薄い雲が浮かんでいるものの、雨の気配はまったく感じられない。
「今日はそんなことにならないといいけどな。天気予報だと一日中晴れだったから大丈夫だとは思うが」
「それって大丈夫じゃなくなるやつやろ? 止めてや一応合羽は持ってきてるけど使いたくないねん。出すんめんどいから」
そう言って岡元は膝の上に置いたリュックサックを叩く。リュックサックの生地はかなり張り詰めていた。一体中には何が詰められているのだろう。本格的な山登りをするならともかく今日はそれほど荷物が必要なようには思えないのだが。
ただ岡元は妙なところで神経質というか、心配性なところのある男だ。ペンケースにはシャープペンシルの替え芯はもちろんシャープペンシル自体の予備と、更にはシャープペンシルが万が一使えなくなったとき用の鉛筆とミニ鉛筆削りまで入っている。折り畳み傘は常に携帯しているし、絆創膏は箱ごと持ち歩いている。そんなだから岡元は大学でも常に重そうなリュックサックを背負ってあちこち移動していた。
もし合羽がパンパンのリュックサックの底に仕舞われているのだとしたら確かに取り出すのは面倒だろう。俺は岡元のリュックサックから反対側の席へと視線を巡らせた。
「さすがに今日は大丈夫だって。……おい、向こう側見ろよ。下りのケーブルカーとすれ違うみたいだぞ」
視界の端で岡元が俺の指差す方を見たのが分かった。向かいの窓越しに色違いのケーブルカーが山を下ってきている。だからといって別に何か特別なことが起こるわけでもないが、他の乗客たちも同じように下りのケーブルカーを眺めていた。すれ違いざまに手を振り合っている乗客もいる。岡元もそうだった。
すれ違い自体は数十秒ほど、たったそれだけの時間に俺はあるものを見つけていた。下りのケーブルカー越しに見える木立ちの中に黒い塊……いや、影のようなものが見えた気がしたのだ。俺よりも大きな影だった。まさか熊か? こんなところに? 骨格は熊に近いようだが、熊と断定はできない。黒い塊だけがモザイク処理されているとでも言えばいいのか。そのせいで黒い塊がぼやけて“影”としか表現できなくなっている。
それでも頭らしきところには空洞が二つあるのは分かった。眼球のようだ。そう思ったのは“目が合った”と感じたからか? しらずしらず俺は目を逸らしていた。今のは何だ? 俺は何を見た。何を見てしまったんだ?
「なあ、岡元」
小声で呼びかける。意図したものではなく、声がそれ以上出なかったのだ。車内の喧騒に紛れてしまいそうなそれを岡元は耳聡く拾い上げた。
「どうしたん? って……何か顔青ない? 大丈夫か? 乗り物酔いしたか?」
「いや……そうじゃなくて。今、今さ……向こうに熊いなかったか?」
「は? 熊?」
訝しげにしつつも岡元は首を巡らせた。しかし不審なものは見つけられなかったようだ。下りのケーブルカーももう見えなくなっているだろう。岡元は真面目な顔つきで俺を見据えた。
「熊なんかおらんで。何かと見間違ってへんか? あんなところで熊が出たらもっと周りの連中も騒ぐと思うねんけどな」
と冷静に説かれて、俺は無茶苦茶に叫び出したくなった。きつく目を瞑る。
そうだ。熊があそこにいたはずがない。観光地化しているとはいえ、T山にまったく熊がいないということはないだろう。しかしながらケーブルカーが頻繁に行き来し人間も多くいる場所に熊がわざわざ現れるとは考えづらい。百歩譲ってあそこに熊がいたのだとしたら、岡元の言う通りもっと騒ぎになっていないとおかしいだろう。上下どちらのケーブルカーも乗客でいっぱいだったのだから。
だったら、あれは何だったんだ。熊でなければ何なんだ。二足で立ち、俺よりも大きく、けれど人ではありえない形の“影”。そして“影”の中でも抜きん出て暗かったあの底なしの二つの穴は、目玉は……あんなものが生き物なはずがない。あんな不自然なものが生き物であってたまるか。
目を開くと、岡元が気遣わしそうに覗き込んでいた。いつの間にか水のペットボトルを取り出している。
「顔青い通り越して白なってるで。ほんまに大丈夫か?」
岡元はそう言うと導火線の極端に短い爆弾を扱うような慎重さでペットボトルを差し出してきた。俺は自分のがあるからと身振りだけで示して、リュックサックからペットボトルを取り出した。未開封のキャップを捻って口をつける。温かくも冷たくもない水が舌の上を流れていった。
数口飲んでペットボトルをリュックサックに戻した。水を飲んだことで多少気分が良くなった、と思い込むようにしながら俺は笑った。
「お前の言う通りだ。こんなところに熊がいるわけない……木の影かなんかを見間違ったかな。自覚なかったけど酔ってるのかも」
「吐き気あるか? エチケット袋も持ってきてるから使えるで」
「いや、そこまではない。ありがとう」
「いちいち礼なんか言わんでええって。もう駅着くし、外出て山の空気吸ったら気分もマシになるやろ」
「そうだな」
そうこうしている間にケーブルカーが停車した。降車する人々の流れに紛れて改札口を出ていく。駅はあるわ飲食店やら土産物屋があるわで俺のイメージする山らしい静けさとはかけ離れていたが、それでも下界よりも空気は澄んでいた。ぐるりと辺りを見回す。熊などいない。ましてや正体不明の“影”なんて。息を深く吐き出す。顎に余計な力を込めてしまっていたことに俺はようやく気付いた。
「ちょっと休憩してから上目指すか?」
「いや、いいよ。お前の言う通り山の空気を吸ったら楽になったから。行こうぜ」
「お前がそう言うならええけど」
頂上に向かう道はいくつかある。その中で俺たちが進むのは恐らく一番人気で一番楽な道だった。飲食店の立ち並ぶ舗装された道を歩いていく。客の目の前で団子を焼いている店の前を通ると、香ばしい匂いが纏わり付いてきた。普段であれば少しくらいは食欲をそそられているはずなのだが。今は腹が空くどころか清浄な山の空気を汚されているような気がして腹が立ってきていた。あの“影”のせいで情緒がおかしくなっている。
そんな俺の変化など知る由もない岡元は団子屋の前を通りかかると呑気に声をかけてきた。
「帰り何食う? 頂上から戻ってきたらもう昼時やろうし蕎麦かなんかにして締めに団子食うか?」
お前に任せるよ、と愛想よく答えられたか自信がない。けれども岡元が機嫌を損ねた様子もなかったからそう大きな失敗はしていないのだろう。
◆◆◆
山頂。見晴らしのいい展望台で俺は立ち尽くしていた。周囲の雑踏から俺だけが切り離されている。
俺の背中にぴったりと覆い被さる“影”のせいだ。転落防止の鉄柵を握りしめたまま身動きできない。左隣では岡元が眼前に広がる山の連なりを眺めながら独り言を言っている。あるいは俺に話しかけているのかもしれないが何も聞こえなかった。“影”の荒い息遣いだけが鼓膜を揺らしていた。
暗闇を切り取ったようなあの二つの穴は俺を見ているのか。きっと見ていないだろう。あれはただ俺に向けられているだけだ。俺を――人間を見返すためだけの、目を合わせるためだけの穴だからだ。こうやって存在を認識させて近付くために。
“影”に全身を包み込まれている。全身に得体のしれない恐怖が充満していた。喉はぴくりとも動かない。瞬きもできない。無意味な思考だけが許されていた。温度も感触もないし“影”が見えるわけでもないのだが、確かにいる。目が合ってしまったのだから認めるしかないと脳が訴えてくる。そして何より、においがした。土、それも水分を多く含んだ土と……油のにおいだ。フライドポテトや唐揚げ、ハンバーグにラーメン。そういう身近な食べ物を思い起こさせるにおいが漂っていた。恐怖のあまり嗅覚が狂ってしまったのだろうか? それならそれでいい。今俺はまったく正常な状態にあるのだと思い知る方がよほどつらかった。
“影”が俺を圧迫している。相変わらず感触も温度もないのに分かる。頭も足も“影”に押し付けられている。俺を潰す気なのか? 土と油のにおいが強まる。目玉の表面を“影”が撫でた。コンタクトレンズのように張り付いて……そのまま目玉の裏に潜っていく。鼻腔を“影”が遡っていった。こそばゆくも痛くもない。蝕まれているという実感だけがあった。耳にも“影”が取り付く。耳かきでは到達しようのない奥まで進みこまれるが、やはり痛くはなかった。痛がって泣いて喚くことすらもう俺にはできない。
視界の端から黒く塗り潰されていく。指先の感覚がない。足先も。鉄柵を掴んでいるのか立っているのか座っているのか分からない。生きてはいないものが、命であるはずのないものが俺の血として四肢に行き渡っていく。鼓膜を越えた先で“影”が息づいている。今はあはあと喘いでいるのは俺なのか? “影”なのか? 何も見えない。何も感じない。土と油のにおいもしなくなった。考えることも……どうやっていたんだったか?
分からん。そんなことより。
不味そう。いや。美味そうなにおい。あった。もう影のものだ。全部影のものだ。食べる。沢山食べなければ。
「岡元。そろそろ下りようぜ。蕎麦食おう。もちろん団子もな」
「お、食欲戻ったんか? さっきはあんま食う気なさそうやったけど」
「楽な道とはいえ山登りしたからな。さすがに腹減ったよ。蕎麦大盛りにしようかな」
「お前が大盛り? めずらし~。山パワーすごない?」
「何だよ山パワーって」
「山パワーは山パワーやんか。知らんの?」
二人は和気藹々と展望台を離れる。そうして空いたスペースはすぐさま若いカップルが埋めた。この場の何もかもが、訪れた春を喜んでいた。




