File4:猛犬注意『深夜の缶ビール』完
須賀原邸での事件から三日が経っていた。
夜も更けた頃、示し合わせたわけでもないが姫榊と隠は自宅で揃って缶ビールを開けていた。つまみはビーフジャーキーとカレー味の煎餅だ。二人ともしばらくは深夜のバラエティ番組をBGMに黙々とビールを飲みジャーキーか煎餅を齧っていた。ビールをグラスに注いだりもしない。
隠の視線はほとんどテレビ画面に向けられていたが、番組を楽しんでいたかどうかは謎だ。姫榊はテレビ画面こそ見ていたが内容はまったく頭に入ってきていなかった。番組がCMに切り替わったところで隠が姫榊を見る。
「……で? 親子はどうなったんだ?」
姫榊は質問に答える前にビール缶をテーブルに置いた。まだ二缶目だ。
「病院で検査をしたが、異常は見つからなかったよ。ただ須賀原さんは俺の電話を取ってからの記憶が、玄希はここ一か月くらいの記憶が曖昧になっているそうだ。学校から家に帰る途中で、何か気になるものを見つけて近寄ったのはぼんやりと覚えているらしい。二人とも精神が不安定になっているから……専門の医者やカウンセラーにかかることになるだろうな。事情を知らされた父親も帰って来たよ」
「それで少しは心が休まるといいんだがな」
と言って隠はビール缶を傾ける。そうして飲み干した缶を持ってキッチンへ向かった。すぐに冷蔵庫から三缶目のビールを取り出して戻ってくる。
「そういや今回の件は母親になんて説明したんだ? 息子と違って大体の記憶はあるんだろ?」
「悪霊の仕業だと伝えたよ。それが玄希に憑りついて、悪影響を及ぼしていた。だからここ一か月の玄希は本来の玄希ではなかったし、悪霊の正体は例の子犬とはまったく関係がないと強調はしたが……」
「それで母親は納得したか?」
頭の中に残り続ける疑問が隠の口から飛び出てきて姫榊は苦笑した。自然と視線が下がる。
「……どうだろうな。子犬のことで今も玄希に恨まれているという疑念はそう簡単には消えないだろう」
「それなら面と向かって話し合った方がいいかもな。まあもっと落ち着いてからになるだろうが。アイツに昔の傷をほじくり返されたのはどちらも同じだ」
同感だ、と言う代わりに姫榊もビール缶に手を伸ばした。缶の表面に浮いた水滴が手のひらを濡らす。隠はビーフジャーキーを一本手に取った。が、そのまま食べるでもなく指でジャーキーを挟んで無駄にくるくると回している。
「……息子と旦那にも悪霊の仕業だって説明したのか?」
「いや、俺は説明していない。須賀原さんが自分で伝えるそうだ。そのまま悪霊の仕業と言うのかどうかは分からない」
「アイツのことをはっきり覚えてるのが母親だけなら正直に言わない方がいいかもな。ああいうことは実際にその身で味わわねえと信じるのは難しい」
「俺もそう思う。須賀原さんはこの件を大事にはしたくない……というより、忘れたがっていた。もう犬の鳴き声は聞こえなくなったからそれでいいんだと」
「それでいい、ねえ……」
弄んでいたジャーキーを半分ほど噛み千切って咀嚼する。もう半分も時間を置かず同じ目に遭ってビールでまとめて流し込まれた。満足そうに隠がビール缶をテーブルに置く。軽い音がした。
「ああそうだ。お守りは一応渡してくれたか? まあ気休めにもならんだろうが」
事件当日の深夜、帰宅した姫榊はリビングのテーブルに三人分の白いお守りが置いてあるのを発見した。『渡せたら渡しておいてくれ』というメモと共に。このお守りはどこかの神社仏閣のものではなく、隠が自作したものだ。どういう仕組みかは教えてもらっていないが効果は確かだ。お守りは怪異の悪意に反応し、お守りの持ち主が怪異から逃げられる隙を作ってくれる。
姫榊の場合は腕時計にお守りと似たような仕掛けが施してあった。玄希の部屋で姫榊を刺激して逃げられるようにしたのがまさにその仕掛けの効果だ。隠と同居していて今回のように一緒に行動することもそれなりにある姫榊の腕時計には通常のお守りよりも複雑な仕掛けがしてあるらしい。そのため定期的に隠が手入れをしている。
閑話休題。隠のお守りは気休めなどではなく、事実として効果がある。しかしそれを信じる人は少ない。お守りに助けられることがない限りは。隠が先ほど言っていたように、実際にその身で味わわなければ信じるのは難しいのだ。
「もちろん渡したさ。その後のことは……分からないが」
「まあ捨てたなら捨てたで別にいいんだよ。もう二度とあんな目に遭わなければいいよな」
一人で納得したように言い終わると、隠はカレー煎餅に手を伸ばした。一枚を丸ごと食べようとするが直前で思いとどまる。そしてこれまで通りに四等分に割った。そのうちの一片を口に放り込む。しばし沈黙が流れた。いつの間にかテレビはバラエティから通販番組に変わっている。
姫榊が二缶目のビールを飲み終わった頃合いで隠は口を開いた。
「……姫榊。おまえさ、子どもの頃何か飼ってたことあるか?」
「犬を二頭飼ってたよ。ジャーマンシェパードだ」
「それって警察犬とかでよく見るやつか?」
「そうだな。とにかく元気だった。二頭とも母と弟にはよく懐いてたよ」
姫榊がそう言うと、隠は興味があるのかないのかどちらとも取れるような相槌を打った。特に質問はされない。姫榊はそのことに安堵していた。家族の話はしたくないのに、つい喋り過ぎてしまった。
そんな居心地の悪さをごまかすために今度は姫榊が話を振る。
「そういうお前は?」
と尋ねてから、姫榊は己の失敗を覚った。姫榊が家族の話をしたくないように、隠も過去の話をするのを避けていた。互いにその話題については触れないようにしようと話し合いをしたわけではないものの、二人の間では暗黙の了解としてあった。どうにも気が緩んでいる。しかし、その原因を缶ビール二本分のアルコールに押し付けるのは間違っていた。
姫榊は失言を謝罪しようとした。けれど隠を見るなり口を噤む。隠はビールを飲むでもつまみを食べるでもなく、ただ虚空を見上げていた。そこに太陽があるかのように。
「考えたこともなかったな」
長い沈黙の後に隠が溢した。簡潔な言葉に潜んだ過去を姫榊は思う。そして同時に己の過去も。
ワンと犬の鳴き声が頭の中に響く。母に散歩を催促する飼い犬の鳴き声だった。姫榊はその様子を遠くから眺めている。弟が「暇だしオレが行くよ」と母に言う。犬が喜んでワンワンと吠える。賑やかな気配が家から遠ざかっていく。姫榊は家事をする母に気取られないように自室へ走る。けれど母は見逃さなかったはずだ。
弟と犬たちが去った後の耳が痛くなるような静寂から逃げる姫榊の背中を。
File4:猛犬注意~完~
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