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File4:猛犬注意『クロ』



 姫榊は須賀原邸を離れ、最寄りの駐車場まで戻った。車に乗り込み運転席でしばらく手帳を眺めて考えをざっくりとまとめる。それから携帯電話を取り出し隠へと電話をかけた。

 隠は二コール目で電話に出た。


『どうした?』

「今話せるか?」

『ああ。いいぜ』


 電話越しの雑踏が遠ざかる。裏路地にでも移動したのかもしれない。


「今日の依頼なんだが、協力を頼みたい」


 情けないことに何度やってもこのやり取りには慣れない。友人ではなく、心霊のプロとしての隠と対することに緊張してしまうからだ。


『おれ向きの仕事だったか?』

「ああ。たぶんな。できれば夕方までに依頼人の家を調べてほしい。どうだ?」


 同居しているとはいえ、互いの予定をいつも完璧に把握しているはずもない。姫榊が家を出たとき隠は自室にいた。一度もリビングに出てこなかったからまだ寝ているのだろうと思っていた。先ほどの電話越しの雑踏を聞いてあの後隠が外出したのを知ったくらいだ。

 それに、なかなか無茶なことを言っている自覚はある。緊張するなどと言っておきながら友人という立場を利用していることも。しかし必要なことだ。隠にしかできないことなのだ。──と言い訳を続けていけば、いつかは友人を失ってしまうだろうか。日々の積み重ねが関係にヒビを入れていく。

 しかし、そんな姫榊を笑い飛ばすように隠は快活に答えた。


『できる……が、用事があってな。それが済んだら電話するから迎えに来てくれねえか? 遅くなったとしても夕方までには間に合わせるようにするからさ』

「分かった。助かるよ」


 嘘偽りのない言葉だった。だが何となく隠が顔をしかめている気がした。


『お互い様だろ。また後でな。詳しい話はそのとき聞かせてくれ』


 姫榊の返事も待たず、随分とぶっきらぼうに言って隠は電話を切ってしまった。素直に感謝されるのが気恥ずかしいのだろう。気恥ずかしいという言葉の選択がまず嫌だと主張するかもしれない。本人にとっては残念なことかもしれないが、隠は外見ほどに適当でも胡散臭くもない。笑顔は例外と言ってもいいか。何にせよ、わざわざそれを指摘はしないけれども。

 携帯電話と手帳を元の場所にしまって姫榊は駐車場から発進する。隠から連絡が来るまでに自分の目で確かめておきたい場所があった。──須賀原家が以前に住んでいたI区のK団地だ。



■■■



「お忙しい中ご対応いただきありがとうございました」


 瑠璃の言っていたことに間違いはなかった。応対してくれた職員に礼を言って、姫榊はK団地の管理事務所を後にする。

 今受けている依頼に関係しているのだが、K団地におけるペットの扱いについて教えてほしい──探偵と名乗った上でそう尋ねた姫榊に職員は案外柔軟に答えてくれた。

 姫榊を訝しむよりも、探偵って本当にこんなふうに調べたりするのかという興奮が先に来ていたかもしれない。依頼について詳細は語れないと前置きしたときも「探偵ですもんねえ」と勝手に納得していた。

 とにかく、K団地ではペットの飼育は禁止されている。カブトムシや金魚などの昆虫や小型の魚までは見逃されているものの、度が過ぎて隣近所から苦情が来れば対応せざるをえないとのことだ。犬や猫を秘密裏に飼っていたのが露見してそこから隣近所や管理事務所と揉めに揉めて強制退去することになった事案もあるそうだ。


「……確かに、ここでペットを飼うのは難しそうだな」


 管理事務所から駐車場に戻る道すがら、姫榊は歩調を緩めて周囲を眺めた。十階をゆうに超える建物が整然と並んでいる。外観がまったく同じ建物が密集している光景からは無機質な印象を受ける。けれども布団やYシャツやジャージあるいはぬいぐるみなど、ベランダに干された家ごとに異なる洗濯物がそんな印象を全て生活感で上書きしていた。

 部屋と部屋の間は狭く、隣近所の距離感は姫榊が想像するよりもずっと近いはずだ。騒ぎようによっては知りたくなくても隣人の秘密を知ってしまうこともあるかもしれない。犬や猫を隠れて飼い続けるのはかなり厳しいのではないだろうか。煙草の煙の臭いに非喫煙者が敏感なように、ペットを飼っていない人は動物独特の臭いによく気付く。犬であれば鳴き声でその存在を知らせてしまうだろう。これだけの人数がまとまって住んでいる上に、隣近所への影響が大きいことを考えるとペット禁止になるのも無理はない。

 だが、それは大人の理屈だ。あのときの玄希は人間の都合で捨てられた小さな命を、自らの手で拾い上げた小さな温もりを助け守ることしか考えられなかったはすだ。ルールで決められているから、か弱い子犬を助けないなんてそんな悪いことを母親がするわけないとも。もし内緒でペットを飼っている家を知っていたなら、どうして自分は許されないのかと不公平に憤ったかもしれない。

 建物と建物の間には公園もあり、そこでは学校から帰ってきた子どもたちが遊んでいた。ブランコや滑り台、それに砂場など各々好きなところで元気にはしゃいでいる。あの頃の無尽蔵に思える体力と今よりもずっと緩やかな時間感覚が少し羨ましく、そして懐かしく感じてしまう。


「俺も歳を取ったな……」


 犬を連れて歩いている人はいない。ベランダから母親らしき女性が子どもに声をかけている。子どもは友達と一緒になって大声で返事をしていた。かつては玄希もここにいたのだ。



■■■



「──まあ、話を聞く限りはおれの仕事って感じだな」


 無事に合流を果たし、姫榊は隠に今回の依頼のいきさつを話し終わったところだった。姫榊が説明する間、隠はほとんど口を挟まず黙って耳を傾けていた。幽霊などを視えにくくするための眼鏡は助手席に座ったときにすでに外されている。

 改めて隠からの同意が得られたことにやや安堵しつつ、姫榊は携帯電話を取り出した。


「須賀原さんに今から向かうと電話してもいいか?」

「ああ」


 須賀原家に電話をかける。三コール目が鳴った瞬間に相手が出た。しかし何も喋らず、荒い息遣いだけが聞こえる。胸騒ぎがした。姫榊は瑠璃が出てくれることを祈りながら声をかける。


「須賀原さん?」


 姫榊の切迫した雰囲気を感じ取ったのか、隠の表情も険しくなる。衣擦れらしき音がした後に瑠璃が叫んだ。


『姫榊さん? 早く来てください! 玄希の様子が……いや、そんな……何なの!?』

「須賀原さん、どうしましたか。須賀原さん!」


 姫榊も声を荒げる。隠は助手席から身を乗り出して電話から発せられる音を聞いていた。しかし瑠璃の声は電話口から遠ざかっていく。迫り来る危険な何かから逃げるためか、それとも無理やり電話から遠ざけられたのか。


『……な……で! 何……の……犬……!』


 そして姫榊の呼びかけもむなしく、電話はそこで切られた。瑠璃以外の何者か──玄希が切ったのだろう。姫榊は携帯電話を折り畳んでしまうとすぐにキーを回してエンジンをかけた。車が急発進して隠は体勢を崩してしまったが、文句も言わずに再び助手席に寄りかかる。何か思案している様子でぽつりと呟く。


「……ずっと鳴いてたな」


 ハンドルを握る手に力がこもる。前を向いたまま隠に尋ねた。


「お前には聞こえたのか?」

「そうだな。隣にいても聞こえた。それがうるさすぎて依頼人が何を言ってるのかは分からなかったが」

「俺には聞こえなかった。家にも行って……本当はずっと鳴いていたんだろう」

「だから何だ。聞こえる方が珍しいんだよ」


 隠にそう突き放されたことで姫榊は少し冷静さを取り戻した。須賀原邸までの最短ルートを頭に思い浮かべながら運転を続ける。それからしばらくは幸運が続いたが、とうとう赤信号に捕まってしまう。ハンドルを指先で何度も叩きながらつい後悔の言葉がこぼれた。


「俺が玄希を……玄希に憑いている何かを刺激してしまったかもしれない」

「おいおい。まだ間に合わないと決まったわけじゃないだろ」


 隠が鼻で笑う。小憎らしい表情だった。実際にこの言葉で心が軽くなってしまっている自分に一番腹が立つのだが。


「……だといいが」


 信号が切り替わる。姫榊はアクセルを踏み込んだ。



■■■



 以前と違い、駐車場ではなく須賀原邸に一番近い路上に車を停めた。すぐさま隠が下車して走る。姫榊も後を追った。二人とも息を切らすことなく須賀原邸に到着するが、門扉は閉じていた。


「おれが先に入る」


 と言って隠が門扉に足をかけて乗り越えた。やはり姫榊も続く。須賀原邸の周辺に人気はなかった。それでもどこかで目撃されていたら通報は避けられないだろうが。今はそんなことに構っていられない。

 門扉と違って、玄関の扉に鍵はかかっていなかった。隠は玄関横に貼ってある【もう犬注意】には目もくれずに家に入る。


「須賀原さん!」


 姫榊がそう声を張り上げる一方で、隠は靴を瞬時に脱いでリビングへと駆けていく。脱ぎ捨てられた靴は左右ばらばらになって玄関に転がった。姫榊の靴も後に続いた。

 廊下はそう長くもない。隠がリビングへ繋がる扉を開く。途端に獣臭が鼻をついた。血と腐臭も混じっている。気のせいなどではない。この臭いは玄希の部屋で嗅いだものと同じだ。臭いの元を辿ると――。


「一日早いけど誕生日プレゼントだよ。おめでとう母さん! うれしい? うれしいよね」


 リビングの床に瑠璃が倒れている。うつ伏せの状態で手足をばたつかせながら悲鳴とも咆哮ともつかない声を上げていた。あの白い犬のお面を被っている。玄希に無理やり被せられたのだろう。

 お面は輪ゴムによって頭の後ろで繋がっているだけにしか見えないが、瑠璃がどれだけ頭を揺らしても微動だにしない。お面が瑠璃の顔にすっかり貼りついてしまったかのようだ。


「母さんはクロになれるんだよ。うれしいに決まってる。ダメだなんて言わないよね。あのときみたいにさ」


 悶え苦しむ瑠璃を近くで玄希が見下ろしていた。その手にはお面と同じく玄希の部屋で目撃したあの真っ赤な首輪が握られている。笑顔の玄希は腰をかがめて瑠璃に語り掛けていた。リビングに沢山貼られた【もう犬注意】の絵も一緒になって瑠璃に吠えているに違いない。

 視界に飛び込んできた光景の異様さに呑み込まれ姫榊はリビングと廊下の境目で立ち尽くしてしまった。姫榊の目には見えないが人間以外の何かが確実にいる。獣の臭いを血と腐った肉の臭いが凌駕していく。瑠璃は一体何の鳴き声を聞いていたのか?

 一方で隠はリビングと親子を一瞥し、それから硬直している姫榊の背を思い切り叩いた。


「姫榊! ガキの動きを止めとけ!」

「!」


 そう命令され、姫榊は考えるより先に体を動かしていた。玄希がこちらの動きを認識する前に飛びかかる。玄希の手から落ちた首輪がフローリングに転がっていく。

 腕を捻って地面にうつ伏せに倒し、後ろに回した腕を押さえながら背中に跨った。後ろに回した両手は外れないように掴んでおく。こうなると抵抗したくても抵抗できなくなる。例に漏れず玄希もそうだった。


「ジャマするな!」


 玄希が噛みつかんばかりの勢いで叫ぶものの、拘束からは逃れられない。しかし玄希からは人体の構造上不可能な動きをしてでも、あるいは骨を折ってでも抗ってやろうという尋常ではない気迫が滲んでいた。狂気と言い換えてもいい。この状態が長引くと互いに怪我が避けられなくなりそうだ。

 姫榊は額に汗を滲ませながら隠と瑠璃の様子を窺った。


「ワンワンワンワンうるせえ! 犬でもないくせによ!」


 隠の声が普段より大きくなっているのは現状が逼迫しているから。というよりも、それ以上に例の鳴き声が直にしかも至近距離で響いてくるせいで大声を出さないと自分の声が聞き取れない状況にあるからか。相変わらず姫榊にはまったく聞こえないのだけれども。

 隠の手が黒く変わる。姫榊の鼓動は更に速まる。ぐずぐずになった肉にも冷たい泥にも見えるあの手と腕が何であるかを、隠が語ったことはない。大量の目が蠢くそれらは姫榊に本能的な忌避感を抱かせる。関わってはいけない。地の底に封じておくべきものだと。そしてそれは本来腕だけでなく隠本人にも当てはめなければいけないものなのだろう。

 黒い右手がお面に沈んでいく。瑠璃の体が痙攣する。だが隠は決してお面から退かなかった。


「やめて! クロが死んじゃう!」


 玄希が悲痛な叫び声を上げる。クロというのは犬の名前だろうか。お面の白犬につけた名前だとは考えにくい。それならシロと名付けるだろう。恐らくクロは【もう犬注意】の絵に描かれていた犬であり、絵のモデルになったかつての捨て犬の名前でもあるはずだ。いつクロという名前をつけたのだろう。子犬の小さな体を両手で抱え上げたときだろうか?

 そんな益もない想像を振り払い、姫榊も声を張り上げた。早く決着をつけなければ。


「隠! やれるか!?」


 お面と睨み合ったまま、隠は歯をむき出して笑った。手がより深くお面に、瑠璃の顔へと沈み込んでいく。右腕にぐっと力が込められたのを姫榊は見逃さなかった。


「ああ。おまえの集めた情報があるから……な!」


 お面から豪快に手が引き抜かれる。何かを掴んでいるようだが、姫榊の目には映らない。隠曰く怪異の『核』とは人間でいう心臓のようなものらしい。『核』を消滅させると怪異はこの世に留まることができなくなるとも。

 お面から隠の手が離れた途端に瑠璃は動かなくなった。糸の切れた人形のように倒れ込む。しかし玄希は違った。


「やめて! クロをいじめないでよ!」


 声をからして隠に懇願する。すぐ後ろで倒れている瑠璃はまるで視界に入っていないようだ。


「こいつはおまえのクロじゃない」


 真っ直ぐに玄希の目を見つめながら隠は言った。それからすぐに手に持っている『核』を口に運ぶ。『核』を食べた、ということでいいのだろう。

 黒い腕が元に戻る。時を同じくしてリビングに充満していた腐った臭いも獣臭も残り香すらなく消え去っていた。


「クロ! クロが!」


 と絶叫して玄希も動かなくなった。全身から力が抜けている。玄希の目は閉じられていた。


「もう拘束を解いてもいいか?」

「ああ」


 一転して静寂の訪れた室内では小さな声でもよく響いた。隠の確認も取れたため姫榊は玄希から離れる。仰向けにして脈と呼吸を確認する。気を失ってはいるが、異常はない。特に怪我もしていないようだ。

 隠は隠で瑠璃を仰向けにしてお面を外していた。続けて姫榊に声をかけてくる。


「おい、こっちも確認してくれ」

「分かった。もう妙なものは憑りついてないか?」

「もう何も視えないし、二人に何かが憑いてるってこともねえな」

「……そうか、良かった」


 瑠璃の傍らに膝をつく。玄希と同じく気を失っているものの、脈も呼吸も正常に戻っていた。玄希と違うのは手足のところどころに打ち傷のようなものがあったことだ。床に強くぶつかったせいだろう。

 姫榊が立ち上がったとき、隠はリビングに貼られた大量の【もう犬注意】の絵を顔をしかめながら一枚一枚剥がしているところだった。お面といつの間にか拾っていたらしい首輪はひとまずダイニングテーブルに置かれている。どちらも怪異の影響が残っているかもしれない物品だ。隠に任せた方がいいだろう。


「二人とも怪我はしていない。が、救急車を呼ぶべきだな」

「そうだな」


 と頷いて、絵を全て剥がし終わった隠はそれを姫榊に押し付けた。その代わりにお面と首輪を回収して、階段のある方向へと歩き出す。姫榊が首を傾げると面倒臭そうに返事をした。


「救急隊の相手はおまえがしてくれ。おれは家の中を一通り見回って帰る。いつもみたいにいい感じに嘘をついてくれよ」

「それは任せてくれ。……隠、今回も助かった。ありがとう」

「だからそれ止めろって。もしかして嫌味か? 普段はおれの方がおまえに迷惑かけまくってるからな」

「何だ。お互い様じゃなかったのか?」


 うるせえ、と言い残して隠は二階に上がっていった。姫榊はリビングを見回し深呼吸をした。絵の束はとりあえず電話台の引き出しにしまっておく。

 怪異と隠の存在を秘匿しながら姫榊自身にも余計な疑いが向かないようにしつつ、須賀原家で起きたことはあくまで事故である。

 ……というようなことを、現実社会に則した説明ができるような骨子を大急ぎで組み立てていく。一分ほど経ってから姫榊は携帯電話を取り出した。



■■■



 姫榊が電話をかけている最中に隠は一階に降りてきた。電話中の姫榊に声をかけるようなことはせず、隠は続けて一階を見回ることにしたようだ。

 そして通話が終わるのとほとんど同時に隠はリビングに戻ってきた。


「救急隊には連絡ついたか?」

「ああ。五分か六分……もすれば着くだろう」

「ならおれはさっさと退散しないとな。この家にはもう何も憑いてないから安心しろよ」


 隠はそそくさと玄関に向かった。姫榊もついていく。隠は手に持っていた白い犬のお面と首輪をホールに置き、適当に脱ぎ捨てたせいで散らばった靴の片割れを拾った。そしてもう一個を拾い上げようと丸まった背中に姫榊は話しかける。


「隠。今回は……一体何だったんだ?」


 隠は一瞬動きを止めて、姫榊に振り返った。もう片方の靴を拾うため中途半端に伸ばされた右手がどうにも決まらない。


「おまえの話とここで視たものからそうじゃねえかと思っただけで、事実とは限らないって先に言っておくが」

「ああ」


 隠は言葉を続ける前に、もう一個の靴を掴んで片割れと合わせて履きやすいように揃えた。


「昔の子犬の件は息子の心に傷として残っていた。詳しくは覚えていなくても、そのときの怒りや悲しみまでは忘れなかったんだろう。そこをアイツにつけ込まれたんだ」

「お前のいうアイツは……どこにいたんだ?」


 隠はまず右足から靴を履いた。それから左足。


「黒いお面にいたよ。そこから母親の肉体を乗っ取ろうとしていたように視えたな。息子は母親が“クロ”になると思い込まされていたようだが」


 隠の言葉に違和感を覚える。瑠璃が被せられていたのは白い犬のお面で、黒いのは絵に描かれた犬のはずだ。


「……黒いお面? 須賀原さんが被せられていたのは白い犬のお面じゃなかったか?」


 ホールに置かれたままのお面を見る。やはり白い。隠もお面に視線を送る。訝しげに目を細めるが、すぐに首を縦に振った。


「今はそう見えるってことは……ああ、さっきまでおれには黒く視えてたんだよ。あいつの黒い肉が白い紙にへばりついてたのかもな」


 隠はあっけらかんと言ってのけたが、姫榊はその意味を理解するのに少し時間がかかった。あれほど黒い犬にこだわっていた玄希がお面を黒く塗らなかったことは疑問だった。だがそもそも前提が間違っていたのか。最初から黒く塗る必要はなかったのだ。玄希と隠の目には黒い犬に視えていたのだから。

 姫榊がそんなことを考えている間に靴を履き終わった隠は黒い……今は白くなったお面と首輪を掴んだ。そしてドアノブを回す。


「……そうか。アイツは須賀原さんを乗っ取ってどうするつもりだったと思う?」

「何だろうな。生きた肉体を手に入れてより強く現世と繋がろうとしようとしていたのかもしれない。そうなったら息子も無事じゃ済まなかっただろうな」

「……一応聞いておきたいんだが、そいつは子犬の幽霊だったりはしないんだな?」

「子犬の幽霊だなんてそんな可愛らしいものじゃなかったぞ。色んなもんが混じってやがった。まあ……その中に子犬の幽霊が絶対にいなかったとは言えねえけど。あれだけぐちゃぐちゃだったら原型は留めてないだろうな。犬のふりをしてたのは息子を利用するのに都合がいいからだよ。人の弱みや後悔につけ込む怪異は多いからな」

「そうか……それは、良かったと言っていいんだろうな」


 その言葉に隠は肩を竦めるだけで、何も言わなかった。物音も足音も立てずに扉を開いて出ていく。それで終わりかと思いきや、扉が閉じる前にもう一枚の絵――玄関扉の横に貼ってあった【もう犬注意】――を姫榊に渡してきた。

 そして今度こそ閉じられた扉に背を向けながら、姫榊は隠が隣近所の誰にも目撃されていないことを祈った。隠もややこしい事態になるのは承知しているだろうから人目につかないように去ってくれるとは思うけれども。意外なところに目撃者はいるものだ。時間の余裕がない以上こればかりはどうしようもなかった。

 まだ救急車のサイレンは聞こえてこない。




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